第二話
第二話です。明日の第三話で完結します。
どうぞよろしくお願いします。
バスを二つ乗り継いで、下りたバス停から十五分ほど歩く。児童養護施設に通じる道はちょっとした坂道になっていて、暑い、とか、寒い、とか、季節ごとにありふれた感想を言い合いながら、幸也と上ったり下ったりしたものだ。
遠くの木陰から施設の一角が見え隠れするようになると、私の足は動きが鈍くなった。
行きたくないわけじゃない。やましい気持ちがあるわけでもない。
ただ、疎遠になっていただけだ。
施設を出て以来、一度も顔を出さなかったのは、どこか気恥ずかしさにも似た遠慮があったからだ。
そう思いながらも、歩いた分だけ距離は詰まっていき、緩いカーブを曲がると敷地の前にたどり着いた。そこから見える庭のコスモスは、あの頃と変わらず、ここでの質素な秋を飾るように咲き誇っていた。
――歌の中にある《同じ花》とはなんの花だろうか。
ふと、私の脳裏にそんな疑問が湧いた。今更答えを知ったところでなにが変わるわけでもないが、幸也がここを離れて八年ほど経って、私たちが再会したときも、やはりコスモスが咲いていた。
小学校を卒業した私は、ここからほど近い中学に入り、二年の秋を迎えていた。部活動もしてなくて、わずかな友人と今夜のテレビ番組の話を下駄箱の前で済ませると、一人で校門を抜けた。
あとは施設に向けて、舗装も中途半端な道を淡々と歩いていくだけだ。右を見ても左を見ても、かわり映えのしない景色。
自分には案外、これが似合っている。
そう思いながら歩を進めると、さあっと生暖かい風が吹いてきて、私は無意識に片手で髪を抑えた。ただの自然現象にしては、どこか意図的な感触だった。
風が過ぎ去ったのを確認するように薄目を開けると、少し離れた電柱に誰かがもたれていた。
それが幸也だと、私はすぐにわかった。幸也もまた、私を識別したのだろう。迷う素振りもみせずに、まっすぐに私の方へ進んでくる。
私より二つ歳上の彼は、今は高校二年のはずだ。
私たちは道路から逸れて、川沿いの土手を歩いた。中学に入ってから急速に背が伸びた私は、今の幸也と並んで歩いても、驚くほどの身長差はない。
だから夕陽の眩しさのせいで、お互いの顔が見えにくかったのは、却って好都合だった。離れてからの時間が二人を変えてしまったのか、変えなかったのか、変えたのならどの程度なのか、知るのが怖かったからだ。
だから私は控えめに訊く。
「まずいんじゃないの。こんなところに来ちゃって。お義父さんにバレたら」
「別にまずいことはないよ。新幹線で今日中に帰るし。ま、普段は昔のことには触れないようにしてるけどね、お互い」
「そうだよね。高校はどう?」
「楽しいよ」
幸也は特に笑いもせずに言った。
次は私が訊かれる番だ、と身構える。中学生活はどう?
私も楽しいよ、と答える準備をしていると、幸也は幾分かの真剣さを混ぜて自分のことを語り始めた。
「俺、学校の先生になろうと思って」
「え、先生?」
意表を突かれた私はすっとんきょんな声を出す。
「ほら、施設でさ、すごいお世話になったじゃん。先生たちに」
「あ、うん。私は今でもなってるけど」
「俺やエリカみたいな子供ってさ、どこにでもいるだよ。たくさん。それこそ世界中に」
「……そうかもね」
彼は今、自分の夢の話をしているのだろうか。その心持ちが気になって、そっと横顔を覗くと、そこには声になかった悲痛さが見えて、私は思わず背筋を伸ばした。彼は本気なのだ。
「何かしたいんだよ。恩返しっていうか。そういう子供たちが少しでも生き易くなるように……俺なりにだけど」
照れのためか、最後の方の言葉は小さくなって消えた。私にはなんだか話が大きすぎて、すごいね、としか言えなかった。
「そんなことはないけど」
「道徳の教科書に出てくる人みたい」
彼は乾いた声で笑うと、今度は私に向いて
「エリカは? これからのこととか」
さっきの熱のこもった口調からは一変して、まるで伺いでも立てるような、慎重さと畏れが含まれた言い方だった。
「私は……高校までは施設にいれるけど。その後のことはまだ」
「俺、今の両親に言ったんだよ。大学出て就職したら、家を出るって」
「どういうこと?」
答えるかわりに、彼は気恥ずかしさを隠すように微笑んだ。どこか幼くて、あの頃の幸也に似ている。
私はそれを見て、最後の日、幸也が言ったことを思い出した。
迎えに来る。必ず。また一緒に暮らそう。
「エリカ」
「ん?」
「あれ」
「え?」
彼の指した先には、深いオレンジに染まるコスモスが咲いていた。
私たちの前には、いつもコスモスがある。
「あの歌、まだ憶えてる?」
「……今度、また会えるって歌?」
「あの花を見て、今、エリカはどう思う?」
私は頬が残照で熱くなるのを感じながら、心の中を確認するように、一語一語、はっきりと言葉にしていく。
「美しいと思う」
「俺も美しいと思う」
彼は微かに触れた私の右手を包み込んで、もう一度繰り返した。
「美しいと思う」
施設の敷地に足を踏み入れると、見知った顔が見えた。康夫先生だ。恰幅がよく、見た目の印象通りに優しい先生だった。小さい子供たちからは、やす兄ちゃん、と親しまれていた。
彼となら今でも、少しくらいの思い出話ができるかもしれない。きっと幸也のことも憶えてくれていて、コスモスが咲くこの庭にオルゴールを埋めたいなどという奇妙な提案をしても、真面目に取り合ってくれる。
そう期待して近づくと、建物の影から幼い女の子が飛び出してきた。やす兄ちゃん! と聞き取りにくい声をあげながら、その子は康夫先生に飛びついていった。
私は思わず一歩引いて、改めて周囲を見渡す。すると、康夫先生を順番待ちするように、目を輝かせた子供たちがそわそわと佇んでいた。
……そうだ。里親に引き取られた幸也などは、かなりの幸運に恵まれたのだ。ここにいる多くの者は、行き先もないまま、徒然に日暮らす。康夫先生は今この時も、そんな不幸な子供たちの相手をして、その両手も、頭の中も、一杯に塞がっているのだ。養子に入った幸也や無事に高校まで卒業できた私のために、割く時間などありはしない。
いや、むしろない方がいい。康夫先生にも自分の家族がいて、職員として生徒に接するには限度があるのだから。
やはり私はここへ来るべきじゃない。
そっと建物に背を向け、足音を立てないように気を付けながら、その場を去った。
施設からの坂道を下って大通りに出ると、近くのバス停に足を延ばした。とりあえず駅に出ようと、時刻表を確認する。
次の駅行のバスは二十分後だった。
ちょうどバス停脇のベンチがあいてたので、私はそこで遅い昼食を取ることにした。さして食欲はないが、予想通り美紀先輩が食糧を置いていってくれていた。
薄茶色の紙袋を覗くと、おにぎりが二つにリンゴが一つ入っている。私はリンゴを取って、そのまま齧りついた。甘さが口の中に広がってから、むしろ酸味を期待していたことに気付く。
オルゴールを託せる場所は、そう多くはなかった。
私にしろ幸也にしろ、遺伝上の親には会ったことがない。生まれてから数日間か数週間のうちは世話もされたはずだが、捨てられてからの時間の長さを思えば、初めからいなかったも同然だった。親族に至っては、その有無さえ知らない。
育った施設以外にあてを求めるとすれば、幸也の里親の家だ。中学のとき彼に再会して、優しい両親だと彼は言っていた。
しかし、と、何口目かのリンゴを奥歯でかみ砕きながら想像する。
養子の施設時代の仲間がフラフラとやって来て、快く迎える気になってくれるだろうか。今頃はもう、すべては地の底に埋まっていて、その地表は平らかな更地に変わっていると考える方が、より自然な気がした。幸也もまた、里親の期待や恩義に応えることができなかったのだから。
幸也にゆかりのオルゴールなんて邪魔なだけだ。
では、どうするのが一番いいだろう、と小首を傾げると、もらい手がないのなら、自分で持っていってしまえばいい、と思いついた。
考えてみれば、どこかに残していく意味などありはしない。未練の塊のようなものだ。
寄り道は終わった。
私は食べかけのリンゴを紙袋に戻して、タクシーを拾うために大通りに出た。