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第一話

小説二作目です。愛の物語です。計一万字程度で、今日、明日、明後日の三回で完結します。あとは推敲のみです。お読み下されば幸いです。よろしくお願いします。

 薄い雨が落ちていく。その着地点は白く濁っていて、雨というよりは霧に近い。水面に弾かれず、そのまま海に溶けていく。


 早朝の海岸線を走る電車は空いていて、そんな風景をうつろに眺め続けても、誰の邪魔にもならないし、誰からも邪魔をされない。

 かといって、孤独を求めてここまで来たわけじゃない。


 もうすぐ、会える。


 それだけを心に湛えながら、私は膝の上においたオルゴールのネジを巻く。巻いていくとだんだんきつくなってきて、最後まで巻き切るには思いのほか力が要った。

 巻き終わって指を離すと、その宝石箱にも似た錆びた小箱から、聴き慣れたメロディーが流れ始める。

 有名な《あの素晴らしい愛をもう一度》だ。

 オルゴールはカタカタと震えながら必死に音を絞り出す。とても苦しそうで、次の瞬間にとまってしまっても、誰も文句は言えないだろう。もし最後まで聴けたら、幸運に違いない。

 このオルゴールを幸也(ゆきや)から譲り受けて、もう十三年になる。


 当時、七歳だった私は、児童養護施設の一員で、身寄りのない子供たちと一緒に慎ましく暮らしていた。

 その中の一人が幸也だった。

 私はとりわけ二つ年上の彼に懐いて、兄のような親しさを勝手に感じていた。

 ある秋の日、小学校から帰宅して、食堂におやつをもらいに行く途中、どこからかこのメロディーを口ずさむ歌声が聞こえてきた。

 なんだろう、と思って大部屋に向かうと、ベランダから足を投げ出す幸也の背中が見えた。

「なにしてるの?」

 幸也は首だけで振り向くと、照れ交じりに言った。

「練習だよ、歌の」

「歌?」

 彼は傍に置かれた音楽の教科書を掲げてみせた。

「来週、発表会で歌うんだ」

「……来週?」

 怪訝に訊き返す私の声が聞こえなかったかのように、彼は歌の練習を再開させた。

「いのち かけてと ちかった ひから」

 私は近づいて教科書の折り目を捲った。開かれたページは《あの素晴らしい愛をもう一度》だった。

「一緒に歌おう」

「え、知らない」

「聞いたことくらいあるよ」

「でも……」

 渋る私をよそに、彼は自分のランドセルを引き寄せると、中に手を突っ込んで綺麗なオルゴールを取り出した。なにそれ、と私が聞くより早く、彼は不器用な手つきでネジを巻き、音を再生させる。カチカチとあのメロディーが流れた。

 一通り聴き終わると、幸也は

「あのとき おなじ はなをみて」

 と口ずさみ、続きを私に促す。

 慌てて教科書の歌詞に目を遣って

「うつくしいと いった ふたりの」

 と歌う私に、幸也が自分の声を重ねる。

「こころと こころが いまは もう かよわない」

 どちらともなく、二人はそこでとまった。庭にはコスモスが咲いていた。

 私は息苦しくなって

「なんか、悲しい歌だね」

「うん。学校でみんなと歌ったときは、もっと楽しかったんだけど……」

 そのとき、幸也の語尾に混ざるように、車の鋭いブレーキ音が鳴った。庭先の車道に目を向けると、子供にもそれが高級車とわかる車が木陰から覗いていた。

 それが意味するところも、私たちにはわかっていた。

 だから再び沈黙する。

 今を過去にしないために。

 けれどその抵抗は、幸也を呼ぶ女性職員の声であっけなく打ち破られた。

「もう行かなきゃ」

「……うん」

「一緒に連れていきたいけど」

 私は拳を握ることしかできなかった。幼いなりに、自分の無力さを噛みしめた。でもその気持ちは彼の方が強かっただろう。

 幸也は私の頭の上に手をおいて、ごめん、と言った。

 そして、私の手のひらを広げると、さっきのオルゴールをそっと載せた。

 

 《餞別》という言葉を知らなくても、ここにいる誰もがその実体については身に染みて理解している。別れに際して贈り物をすることは、いわば祝うべき慶事だ。去っていく者には新しい苗字とより大きな将来への可能性が与えられ、残る者への希望となる。


「そんなのいらない」

 私はオルゴールを投げつけた。ルール違反だとわかっていても、我慢できなかった。

「エリカ」

 泣き崩れる私に付き添うように、幸也も腰を沈める。彼がオルゴールを拾ってもう一度ネジを巻くと、さっきよりも弱々しく音が流れた。

「エリカにはまだわからないかもしれないけど、この歌は、今度また会えるって言ってるんだよ」

「そんなの嘘」

「嘘じゃない。エリカはもう、僕に会いたくないの?」

 会いたいよ、と、私は泣きっ面で答える。

「この歌はね、また同じ花を見ようって言ってるんだ。今度一緒に見たら、きっと美しいと思える。そういう歌なんだ」

「……本当?」

「本当だよ。エリカがそう信じてくれるなら」

 それでもうつむく私の手を、幸也は強く引っ張った。そして私にオルゴールを握らせた。

「迎えに来る。必ず。また一緒に暮らそう」



 ドンドン、とドアが乱暴に叩かれている。

 その合間に、私の名を呼ぶ美紀先輩の声が挟まる。

 私がまだ眠っていると思っているのだろうか。

 それとも所在の確認だろうか。

 そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに。


 耳を塞いでしまおう。そう思って布団の中で寝返りを打つと、畳に投げ捨てられた職場のエプロンが目に入った。白の生地に《中央青果》と緑で縫われていて、ご丁寧に人参とリンゴのプリントも付けられている。小動物が喜びそうな絵柄だ。

 一昨日に帰宅した後、洗濯機に運ぶ途中だったのだ。

 

 高校を卒業してから二年間、私は同じエプロンを五枚ほど擦り切らせながらそこで働いた。

 特に芸のない私を雇ってくれた社長には今でも感謝しているし、勤めた後もなにかと親切にしてくれた同僚たちにも感謝している。待遇面はよくて人並みだが、施設で育った私が自立して生活できるだけでもすごいことだった。本当に感激すべきことなのだ。

 今だって、無断欠勤して二日目の私を、こうして探しに来てくれている。本来は私が誰よりも早く市場に出向き、集荷された野菜や果物をダンボールから出さなきゃいけないのに。


 ドアが静かになると、カコン、カコンと階段を鳴らす靴音が響いた。ドアを開ければおそらく、サンドイッチかなにかの軽い朝食でも残されているのだろう。

 それでも――

 私は布団から出るかわりに、手の中にあるオルゴールのネジを巻いた。

 ぎこちなく、あのメロディーが紡がれる。単音で、伴奏なんてついてないのに、幾重にも心に巻き付いてくる。

 これをどこかに返さなきゃいけない。

 ぼんやりとそう考えて、私は上半身を起こす。

 目覚まし時計を見ると、九時を少し過ぎていた。一日の始まりとしては決して遅すぎない時刻だが、仕事柄、早朝に慣れた私は、すでに昼過ぎの気だるさを感じていた。

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