さよならロスタイム
僕には妻がいる。いや、「いた」と表現した方が適切かもしれない。
僕は今でも彼女を愛している。しかし、もう彼女の隣にはいられない。同じものを見て、感じ、想いを持ち寄り共に歩むことは、二度と叶わない。
なぜなら、僕は――
その時目を開けて感じたものは、目を焼くような光だった。目を細めながら、守るように右手をかざす。光を受けた手のひらには、じりじりとした熱を感じた。
――何だろう。
身体を捩ると、背中にざらざらとした感触がある。土の匂いも鼻を突いた。どうやら自分は今、地面に寝転んだ状態らしい。
――ここは、どこだ。
思い出そうとしたが、頭の後ろのほうが痺れたように痛み、うまく働かない。転んで後頭部を打ちつけでもしたのだろうか。何よりも、背中に感じる砂利の感触が心地悪く、手を地面につき、上体を起こした。そうして目に入ってきたものは――立ち並ぶ墓石だった。
「なんだ…これ」
そう無意識のうちに呟いていた。理解が追い付かない。取り囲むように響く蝉の声が耳に障り、痛む頭を揺らした。座り込んだまま、耳を塞ぎ目を閉じる。一体何が起こっているんだ。
とにかく、どうして僕がここにいるのかを思い出さなくては、と頭を巡らせてみるが、思い当たるものが全くなかった。では、自分が最後に覚えているのは、と考えたところで、気付いた。
――何も出てこない。
目の前に並んでいるのが墓石だ、というような知識は残っている。しかし、自分のことに関しては名前以外、今まで何をしてきたのか、という記憶が存在しなかった。まるで、ぽっかりと抜け落ちてしまったように。それを自覚した直後、途方もない恐怖に襲われた。自分が自分で無くなってしまうような感覚が身体を駆け巡り、四肢に力が入らなくなる。僕はどうしてしまったのだろう。
何か手掛かりになるものはないだろうか。慌てて自分の服装を確認する。麻でできた青い七分丈のスボン、白い無地のTシャツに、クロックス。この暑さに似合ったラフな格好で、あまりに特徴がない。しかし、ズボンのポケットが片方、膨れていることに気が付いた。
「髪留め……?」
透明感のある青と、赤みがかった紫の二種類の花びらをかたどった、レジンで出来た飾りがいっぱいにあしらわれている。この花の形は、紫陽花だろうか。
――分からないことだらけだ。
思わず溜め息が漏れる。さっぱり状況が読めない。
その時、後ろから砂利を踏みしめる足音が聞こえた。目を向けると、向こうから一人の女性が歩いてきていた。歳は、三十歳の手前ほど。白の飾り気のないブラウスに、黒のロングスカート、手にはしきびの入った小さなバケツを提げている。
彼女の姿を視界に捉えた瞬間、僕の心は波立った。雑多な思考が止まる。自分のすべての感覚が彼女の一挙手一投足を拾うことに費やされる。僕は、この感覚を知っている。彼女は、もう数歩先まで迫っていた。
「あの」
僕の横を通り抜ける彼女に向かい、声を絞りだす。しかし、一瞥もくれることなく通り過ぎて行ってしまった。聞こえなかったのだろうか。すれ違う瞬間、背中の中程まであるつややかな黒髪が風で広がり、名前のわからない、しかしどこか懐かしい花の香りを残した。
「あの、すみません!」
大きめの声で呼びかける。少しして、彼女の足が止まった。しかし、やはりこちらを気にする様子はなく、提げていたバケツを置いて、一つの墓石に向かい、目を閉じ、手を合わせ始めた。
――胸騒ぎがする。
ふらふらと、彼女の方へ歩き出す。この足は確かに砂利を踏みしめている。しかし、音を立てることはなかった。鼓動が早まる。
「聞こえて、いますか」
すぐ隣で呼びかけてみても、反応はない。伏せた睫毛が、細かく震えているのが見えた。
「今年も、来たよ」
ぽつりと、彼女が呟く。
「ごめんなさい」
そして小さく、僕の名前を呼んだ。睫毛の影をなぞるように、涙が一筋伝う。僕はその意味を受け止められないまま、彼女が手を合わせる墓を見た。
――僕の苗字が書かれている。
視界が揺れる。身体の熱が冷めていく。僕は彼女の肩に手をかけようと、手を伸ばした。
しかし、その手は身体をすり抜けた。
力なく下ろした手に、乾いた夏の温度を感じた。
――思い出して、しまった。
思い出したことは三つ。僕は、既に死んでいる。そして、この人は、僕の最愛の妻だ。最後にもう一つ、僕には、どうしても成し遂げたい事がある。しかし、どうして死んだのか、成し遂げたい事とは何なのか、その詳細が思い出せない。
でもこれはきっと、チャンスなのだと思う。こうして、もう一度戻りたいと焦がれていた場所にいる。間違いなく、強くそう願っていたのだ。しかし、その想いの理由がどうしても拾えない。
――全てを思い出さなくてはならない。
自分の形が、定まった感覚があった。頭痛がいくぶん引いて、身体に力が満ちる。僕の、正真正銘最後の夏が始まった。
現時点で手掛かりとなる情報は、ポケットに入っていた髪留めと、僕の墓の前で彼女が呟いた「ごめんなさい」という言葉だ。僕の死の理由は、彼女に関係しているのだろうか。それを確かめるために、墓参りを終えて帰る彼女の後をついていくことにした。
彼女が僕の最愛の妻だったということは思い出せたが、どうして妻のことが好きだったのか、どうやって出会ったのか、ということについては全く思い出せないでいた。それは、心にぽっかりと穴が開いているようで、とても寂しいことのように思えた。
墓地を囲む塀を抜けると、舗装された、車がすれ違えないような細い路地に出る。道の両端を挟むブロック塀の足元のコンクリートは割れ、剥き出しになった地面から、名も知らない草花が望むだけ日に向かい背を伸ばしていた。
ふと、道の先の曲がり角から賑やかな声と軽快な足音が聞こえ出す。その後すぐに、身体に不釣り合いなほど大きな網を手に抱え、虫かごをぶら下げた男の子が二人、角から飛び出して、勢いそのままに僕たちの横を駆け抜けていった。先ほど彼女のスマホの画面で、日付を確認していた。今日は8月13日、お盆が始まる日だ。彼らは夏休みを思う存分満喫しているのだろう。ふと空を見上げると、抜けるような青空を、片方だけが途切れた二筋の飛行機雲が横切っていた。
路地を抜けた先には、青々と育った稲の葉に埋め尽くされた四角い田んぼがどこまでも広がっていた。吹き抜ける風が、優しく熱をなぞって冷ましていく。ずっとこのままこの場所に立っていたい。そう思わせるに足る景色だった。
――その時ふと、軽いめまいがして。
「遅いよー! 早く!」「ずるい! ちょっと待ってよー!」
日に焼けた肌に快活な笑みを浮かべた少女と、気弱そうな目をした少年が走っていく姿が、目に映った。
――ああ、あれは、僕と彼女だ。
遠く過ぎ去った日々のことを、思い出していた。
「探検に行こう!」
騒がしい足音の後、部屋の扉がばーんと勢いよく開き、眩しい程の笑みを浮かべた少女が現れた。よく焼けた肌の色と対照的な、透き通るように白いワンピースに身を包み、赤いリボンの巻かれた真新しい麦わら帽子をかぶっている。
「家の中ならいいよ」
ベッドに腰かけた僕は、読んでいた本に再び目を落としながら、ため息と共に答えた。夏休みに入ってからというもの、ほぼ毎日、このやりとりを繰り返している。
「だから、ここはもう全部知ってるの! 知らないものを見つけるから探検なんだよ!」
彼女はそう言って胸を張った。首から下げた、ラジオ体操のスタンプカードがふわりと浮かぶ。様々な色のスタンプがびっしりと押されたそれは、彼女の勲章だった。
「それなら僕も探検中だよ」
手元の本から目を離さずに答えた。小学校の図書館で借りてきたのは、どこかの国の小説を訳して絵本にしたものだ。黄金で覆われた王子の像と、小さなツバメのお話。
「外で探検すると、レベルアップするんだよ! 病気にも強くなるかも!」
どうやら、前に一緒にやったゲームに影響されているようだ。身体をかがめて、ベッドに座ったままの僕の顔を覗き込む。大きな黒目が、視界の端で輝いた。
「いや、また風邪引いちゃうよきっと」
連日彼女に付き合って外を連れまわされた僕は、もうへとへとだった。カレンダーによると今日からお盆で、もう夏休みは折り返し地点を過ぎようとしている。読みたい本が色々あるし、宿題だってそろそろ進めたい。
「そしたら、また看病してあげる」
そう言って彼女は笑って首を傾げる。肩までで短く切りそろえられた黒髪が柔らかく揺れた。
「……わかったよ、行こうか」
思わずため息をついた。過程の違いこそあれ、こうしていつも押し切られる。どこまでも、彼女の方が上手だった。
「やったね! じゃあお昼ご飯食べたら秘密基地に集合! 作戦会議だー!」
じゃあねーという声が騒々しい足音と共に遠ざかっていく。お邪魔しましたーという声と共に玄関のドアが開閉する音がして、そのすぐ後に、窓の向こうからただいまーという元気な声がくぐもって聞こえた。
それを聞き届けた後、本をぱたりと畳んで脇に置き、上体を倒し、ベッドに大の字になって寝転がった。これまで何度となく僕を苛んできた思考が、再来する。
生まれつき病気がちで、学校を休むことが多く、上手く周囲に溶け込むことができなかった僕と、明るい性格で話をするのも上手く、運動神経も抜群で行動力もある、絵に描いたようなクラスの人気者の彼女。
幼馴染とはいえ、そんな彼女がどうして僕を気にかけてくれるのか、僕にはずっと分からなかった。僕よりも一緒にいて面白い人は、たくさんいるだろうに。きっと彼女はみんなにとっての太陽で、その光は分け隔てなく降り注ぐ。僕も、その内の一人なのだ。
そこまで考えて、やはり栓のない思考だと打ち払い、ベッドから立ち上がった。学習机の引き出しの一番上を開くと、あらゆる小物が所狭しと詰め込まれている。その中から、必要なものを揃える。マスク、文庫本サイズの植物図鑑、絆創膏と消毒液。最後のは、よく転んだりして怪我をする彼女の処置用だ。
それら全てを肩掛けカバンに押し込んで、彼女との探検に思いを馳せた。妙な気恥ずかしさから、不服そうな態度をとりながらも、結局僕は、彼女と過ごす時間をたまらなく楽しみにしてしまっていた。
ふと気が付くと、僕は変わらず、路地を抜けた田園地帯の手前に立っていて、日は彼方の山の陰へと姿を隠し始めていた。
思い返す。今のは、幼い頃の記憶だ。彼女と過ごした、夏の思い出。
一体どれだけの時間、こうして立っていたのだろうか。慌てて周りを見回してみても、彼女の姿はどこにもない。どうしたものかと途方に暮れかけたその時、何となくではあるが、彼女が居る方向が分かることに気づいた。まるで、自分も一緒にそこにいるような、言いようのない奇妙な感覚だったが、ひとまずそれに従って道を歩き出した。
歩き続けているとやがて、細い路地が血管のように入り組んで走る住宅地に出た。どこからともなく、食欲を掻き立てる香りが漂ってくる。窓の開け放たれた家からは、一日のニュースを伝えるテレビの音や、家族で談笑する声が耳に届いた。ぼんやりと、自分はもう、この輪の中からは外れてしまったのだな、と思った。
一つの家の玄関先から、灰色のか細い煙が立ち上っているのが見えた。前を通りがかる時に覗くと、少し底の深い、黒い陶器の皿が置かれ、その中で、細く切られた木片が燃えていた。隣には、胡瓜に四つの木片を刺し作られた、馬を模した飾りが添えられている。
お盆の時期には、亡くなった家族や、先祖の魂が帰って来ると信じられている。こうして焚かれている迎え火は、その魂を迷わないように導き、迎え入れるための目印だ。火は小さく、静かに燃え続け、立ち上る煙は、風に揺られて溶けるように流れていく。その光景を眺めていると、胸の奥がじんわりと、温かくなるような気がした。
感じていた彼女の気配が、いよいよ近づいてきた頃、ぽつぽつと、地面に斑な染みが広がり始め、寸刻の間に、視界が煙るほどの大雨になった。家路を辿っていたらしい少女達が、悲鳴を上げ合いながら駆けていく。自転車を漕ぐ年配の男性は、もはや開き直ったらしく、ペダルをゆっくりと踏んで進んでいく。大半が錆びついたトタン屋根で守られた、ぽつりとあるバス停では、買い物袋を提げた一組の男女が互いに寄り添い、雨に煙る道路を眺めていた。そんな様子を眺めるともなく眺めていた僕は、別段雨に濡れることもないようだった。雨粒があちらこちらを打ち付ける轟音を聞きながら、ただ一心に歩き続けた。
いくつかの分かれ道を過ぎた頃、強く見覚えのある家が二つ並んでいるのが見えた。僕と彼女がそれぞれ生まれ育った家だ。彼女の家の玄関の隣にはプランターが置かれていて、花を落としてなお、強く葉を伸ばした紫陽花が夕立に打たれて揺れていた。彼女の、好きな花だ。
この中に彼女がいる。玄関のドアノブを握ろうとして、手がすり抜けることに気付き、思い切って目を瞑りながらドアに頭を突っ込んでみると、見事に家の中に入ってしまった。お邪魔します、と控えめに呟きながら身体を滑り込ませる。玄関の様子は、記憶にあるものから変わっていない。彼女があまり靴を綺麗に揃えないことも。直してやりたいが、今の僕の状態では徒労に終わるのは目に見えている。小さくため息をつきながら、階段を上った先にある彼女の部屋を目指した。
久しぶりに見る彼女の部屋は、少し物が減ったところはあるが、ほぼ記憶の通りだった。淡い蛍光灯の明かりが照らす部屋の中では、彼女が学習机に向かい、何かのノートを広げて眺めている。時折そのページを捲る音が、窓を叩く雨音の隙間に挟み込まれていた。
少し部屋を見渡してみると、部屋の隅に、発する色をころころと変え続けているものが映った。ベッドの脇に置かれた、銀色の小さなデジタルフォトフレームが、休むことなく、彼女の思い出の写真の数々をスライドショーで流し続けていた。その内の一枚に、目が留まる。絢爛なシャンデリアが照らすホールで、眩しい白のドレスに身を包んだ彼女と、きっちりとタキシードを着込んだ僕が、沢山の人に囲まれ、満面の笑顔を浮かべている。僕たちの結婚式での一枚だ。
――思い出す。
この時既に、彼女の体調は思わしくなかった。
大学生活最後の年、就職活動が佳境を迎えた頃、これまで風邪もめったに引かなかった彼女が、時折不調を訴えるようになった。食欲がなくなったり、少しの距離を移動するだけで疲れることが増えていた。それでも、平気だと言って頑張り続ける彼女を見かねた僕は、半ば無理やり、彼女を連れて近くの大きな病院に行った。そして、沢山の検査を終えた後、医師から、彼女の腎臓の状態が悪化していることを告げられた。不要な物質の排泄だけでなく、血液のバランス調節も担う臓器。別に彼女の生活習慣が悪かったわけでもない。何も、悪いことなんてしていない。納得がいかなかった。
――原因不明ってなんだよ。
それからすぐに、通院での治療が始まった。決められた薬を飲み、食事内容に気を付ける生活。彼女の懸命な努力は実を結び、わずか数か月の間に、通常の生活を送れるまでに回復した。お互い就職を無事に済ませてからしばらくして、仕事に慣れて落ち着いた年の六月に、僕たちは式を挙げた。彼女の好きな、色とりどりの紫陽花を会場全体にあしらった式は、雨が壁を打つさざめきに包まれた、静謐を感じさせる美しいものだった。あの時の少し痩せた彼女の笑顔を見て、この人を幸せにしたいと、そう強く思った。
容体が悪化したのはそれから一年が経とうとした五月のことだった。穏やかな日常の下でなお、病魔は密かにその手を伸ばし続けていた。小さい頃から遊びにスポーツに、ずっと活動的だった彼女は、病院から出られなくなった。彼女が一人病院のベッドで眠るとき、声を殺して泣いているのを知っていた。それでも、僕がいる時には明るく振る舞い、側に座る僕を元気付けるように笑うから、僕の胸は余計に締め付けられた。なんとかして彼女の力になりたかった。
そして僕が選んだ選択肢は、治療説明の際にドクターが最後に提示していたもの、夫婦間での腎移植だった。
血液型も違う二人の間の移植を可能にする医療技術を用いて行われるこの移植は、成功例も多く、片方の腎臓を提供したドナー側の健康もほぼ損なわれず、普段通りの生活が送れるようになるという。僕はこの手術についてとことん調べ、彼女に提案した。
「少し怖いけど、二人でまた、色んなものを見に行きたい」
彼女がそう言って受け入れてくれたことが、僕にはとても嬉しかった。僕たちは、望む未来を叶えるため、共に手術に臨んだ。そして――
はたと気が付くと、僕は依然として、彼女の部屋の真ん中に立っていた。多くの情報が一度に流れ込んできたせいか、ひどく頭が重い。ずっと響いていた雨音がもう聞こえない。どれだけ時間が経ったのだろう。そして、彼女はどうしているだろうか。
ふと、先ほど彼女が座っていた机の方に目をやると、彼女は座ったまま、机に顔を伏せていた。密かにすすり泣く声が、しんと静かな部屋に響いている。小さな背中が、震えている。そっと机に近づくと、彼女が広げていた、一つのノートが目に入った。覗き込むとそれは、昔に彼女自身が付けた日記のようだった。開かれたページの左上に浮かぶ日付は、あの手術をした年の六月。
「私の手術は成功した。でも、彼が死んでしまった」
「無事手術が終わった後、しばらくして、急に容体がおかしくなったらしい」
「色んな機関が調べてくれたけど、手術は全て、ちゃんと手順通り行われていて、何も不備はなかったそうだ」
「それが確かなら、なんで彼は死んだの?」
「――どうして、私は生きているの?」
そうだ。
僕たちが望んだ、二人が揃って再び歩む未来は、やって来なかった。
僕は、あの手術が終わった後の夜、急に身体が苦しくなって――
その先はもう、思い出せなかった。
ふと、この夏、僕が初めて気が付いた時の事を思い出す。
――ごめんなさい
あの墓前で、彼女はそう呟いた。
僕は思わず、机の上で握りしめられた彼女の手に重ねるように、そっと自分の手を置いた。相変わらず、感触はないけれど、彼女の喉から漏れる嗚咽が、穏やかな寝息に変わるまで、ずっと、そうしていた。
部屋の隅では、フォトフレームが相変わらず、二人が映った写真を流し続けている。色鮮やかな、たくさんの幸せな思い出が、少し画の粗い画面に浮かび上がっては消えていく。
それを眺めているうちに、僕は思い出していた。彼女に、伝えたかった言葉を。
六月を迎えられずに、行き場を失った想いを。
この町ではお盆の最終日の夜、年に一度の夏祭りが開かれる。町の企業や資産のある家を巻き込み総力を挙げて取り組む、最終日に上がる花火は、全国誌に載る程の豪華さであり、県外からの見物客も多い。客足の多さに比例して、並ぶ屋台の数も多く、普段はぽつぽつとある街灯の明かりを映すだけの川面が、立ち並ぶ屋台の色とりどりの光を宿して揺れる景色が、僕は好きだった。
例年通り開かれた祭りの屋台通りを彼女は歩いていて、僕は後ろからそれを追いかけていた。あれから、彼女と意思疎通を図るため、様々な策を講じてみたが、どれも失敗に終わった。途方にくれた僕は、ぼんやりと彼女の背中を追い続けていた。背後霊とは、こういうものなのだろうか。想像して、自嘲が漏れた。
彼女は熱を巻く祭りの空気とはかけ離れた面持ちで、脇目も振らず、真っすぐに道を進んでいく。やがて、屋台の並ぶ華やかな通りを外れ、街灯もないあぜ道へと抜けた。薄く届く祭りの明かりだけが、道筋を幽かに照らしている。足場の悪い道を、彼女は迷い無い足取りで進んでいく。一体どこを目指しているのか僕には見当も付かない。僕はただ、時々大きめの石に躓きそうになりながら、彼女の後を追いかけた。道の最奥には小さな赤い光がいくつかぼんやりと浮かんでいるのが見えた。
祭囃子が小さくなるにつれて、赤い光の輪郭がはっきりと見えてきた。光の正体は、赤い提灯だった。小さな山に作られた石段の両端に沿って吊るされ、行儀よく並んでいる。石段の入り口には、褪せた赤色をした控えめな大きさの鳥居があり、隣には神社の名前が刻まれたボロボロの石碑が寄り添っていた。
この場所には覚えがあった。僕達の家から近い、町の外れに位置した、参拝する人をあまり見かけない小さな神社で、町の学生たちの間では、肝試しのスポットとして話題に挙がることが多い場所だ。
彼女は鳥居の前でふと立ち止まり、石段の奥を見上げた。提灯のぼんやりとした明かりが群れをなし、誘うように揺れている。少し目を閉じた後、石段に足をかけ、登り始めた。
――何を思っていたのだろう。
遠くから、何度も反響してぼやぼやになった放送の声が小さく聞こえる。どうやら、もうすぐ花火が打ち上がり始めるようだ。
彼女は軽快な足取りで石段を登っていく。対照的にぼくは彼女のスピードについていくのが精一杯で、息切れが酷かった。全く無駄に人間的だ。顔を上げれば、ひたすらに進む彼女の背中が見える。思えばこの数日間、彼女の背中を追いかけ続けていた。そしてそれは、昔から変わらなかったように思う。しかし、今の彼女の姿はあまりにピンと張り詰めていて、触れたら壊れてしまいそうな危うさを感じた。
石段を登り切った先には狭い境内とあまり手入れされた様子の無い社があった。彼女はそちらには目もくれず、社の脇の、木や草が生い茂る中へとかき分けて進んでいった。
僕は急いで後を追った。背の高さほどの草や枝に阻まれて視界はとても悪かったが、彼女のいる場所は僕の身体が教えてくれていた。転げ落ちるような勢いで、彼女のいる方へと急いだ。不思議に思ったのは、これだけ外れた道にも関わらず、足元の土はしっかり固められていたことだった。まるで、よく人が通っているかのように。
しばらく走って茂みを抜け切ると、少し開けた場所に出た。足元の傾斜は先ほどまでが嘘のように緩やかで、シロツメクサの花が月明かりを受けながら、どこまでも広がっていた。彼女はその中に座り込んで、何かを待つように空を見上げている。悪い予感は、杞憂だったらしい。
ほっと胸をなでおろし、息を整えながら彼女の隣に腰を下ろして、彼女の視線を追う。空は明々とした星に満ち、それらを率いるように満月がぽかりと浮かんでいた。少しだけ出ていた黒雲が月に差し掛かり、映画が始まる前のように辺りが暗くなる。
その時、高い音を鳴らしながら、一筋の光が空に向かい線を引いた。すぐ後に、空いっぱいに広がる光。赤、緑、紫。目に映る度に、思い出す。
この神社の抜け道は、幼い頃に、腕白だった彼女がクローバー探しの途中に見つけ出したもので、他に訪れる人のいないこの場所は、ちょっとした、僕たちの秘密基地だった。二人で何かの計画を立てる時にはここに集まったし、何もすることがない時にも、ここで他愛のない遊びをして、日が傾くまで過ごしていた。
この場所から花火が見えるかもしれない、と考えたのは、僕だった。景色が開けている向きが、花火が打ち上げられる川の方だということに気づいたのだ。毎年、背の高い人ごみに遮られて花火が見えない事にいい加減うんざりしていた僕達は、家から懐中電灯を持ち寄り、初めて夜にこの場所を訪れた。
生憎の曇り空で、月明りもなく、懐中電灯のか細い明かりだけが頼りだった。賑やかな祭りの通りを過ぎた後だったことで、静寂はより深く染み込み、風に揺れる木の影や、葉の擦れる音が、得体のしれない怪物の気配のようで、とても気味悪く感じた。
僕は、いつも溌剌としていた彼女の不安そうな顔を、この時初めて見た。それは、昼間の月のように頼りなく、儚げで、気が付けば、彼女の手を強く握っていた。ヒーローを応援するような心理からの行動だったけれど、掴んだ彼女の手が、僕よりも小さいことに気づいて、僕が守らないと、なんて意気込んでいた。少し俯きがちになった彼女の表情はよく伺えなかったけれど、握ってすぐの時に少し震えていた手は、しばらくして、柔い力で握り返してくれるようになった。
秘密基地に辿り着いた僕たちを待っていたのは、空一杯に広がる色鮮やかな花火だった。あの時光に浮かんだ、彼女の、宝物を見つけたような表情を見て、心底ここに来てよかった、と思った。
それからというもの、特に示し合わせることがなくても、毎年、花火はこの場所で見ることが、僕たちの習わしになっていた。
――あの高校最後の夏も、僕達は、シロツメクサに埋もれながら、花火が始まるのを待っていた。
「こうしてここで花火を見るのも、最後になっちゃうのかな」
彼女が、寂しそうに呟くのが聞こえた。
「大学、県外に行くかもしれないんだよね」
ぽつりと、彼女が問う。
「一応、候補としてはね」
僕は少しの間言葉を考え、そう返した。
「そっか」
消え入りそうな声だった。背中の中程まで伸びた、彼女の黒髪が、夜風を受けて揺れていた。最近彼女がつけ始めた香水の、ほのかな香りが広がる。名前は想像できないが、心地いい花の匂いがした。
沈黙が下りる。ずっと、このままではいられない。そう知っていたから、僕は今日、伝えに来たんだ。僕が君と一緒にいたのは、ただの成り行きじゃないってこと。この先も、なんとかして、近くにいたいんだってことを。
右隣にいる彼女の方を向けないまま、ぐっと声を絞り出す。
「ねぇ」
声が震えていないか、心配だった。
「うん?」
彼女がこちらを向く気配がする。
強く握りしめた手が、汗で湿っている。口の中はカラカラで、喉の奥はキュっとすぼまって、心音はバクバクとやかましい。今にも上ずりそうな声を抑えるようにして、告げた。
「ずっと、好きでした」
彼女は少し、目を見開いて。
「――うん、私も」
花が咲くように、笑った。
彼女の左手がそっと、痛いほど握っていた僕の右手に乗せられる。その温度が嬉しくて、思わずそちらに目を向ける。昔から変わらない、黒目の大きな瞳が、僕を映していた。目が合って、顔が熱い。あれ、なんか目、閉じてる。これ、そういうことでいいのかな、どうしよう。
直後に轟音。二人ともびくりとして手が離れる。目を向けると、色とりどりの大きな花火。毎年待っていたはずの花火を、邪魔だと思う時が来ようとは。二人で目を合わせて、思わず笑った。花火に照らされた彼女の笑顔は、何にも代えがたいくらいに、美しく思えた。
――ああ、そうだ。
この場所が、僕の時間を動かしてくれたんだ。
だからこそ、この場所で。僕はまた、時間を進めなくちゃいけない。
いつか、彼女に、どうして紫陽花が好きなのか、と聞いたことがあった。彼女は少し恥ずかしそうに、はにかんだ笑顔を浮かべて、僕にそっと教えてくれた。紫と青の紫陽花、それぞれの花言葉と、二つが並んで咲く姿に、自分達を重ねていることを。
ズボンのポケットの中に手を入れる。初めに気が付いた時からずっと持っていた、紫陽花を模した二色の花びらに満ちたバレッタ。六月の僕たちの結婚記念日に、彼女にプレゼントするつもりだったものだ。あの五月を、二人で越えた後に。――もう、二度と叶わないはずだった願い。
隣を見ると、一心に空を見つめる彼女の姿が花火に照らされている。彼女の左手が、何かを探すように揺れるのが見えた。
僕は思わず、その手に向かって右手を伸ばす。懐かしい、彼女の体温があった。目を丸くした彼女の顔が、こちらに向けられる。それは、ずっと願っていた瞬間だった。
彼女は僕に向かって、繰り返し何かを言葉で訴えようとしている。花火の音に遮られて、上手く聞こえない。それでも、分かる。切な表情の彼女の言葉はきっと、何度も繰り返していた言葉だ。
そんな言葉、少しも必要ないんだ。僕はずっと、君の力になりたかった。君が思いのまま生きる事を、僕が支えられているのなら、これ以上に嬉しいことは、世界中探したって、どこにもないんだよ。
彼女の手を取って、手の平を開かせる。紫陽花のバレッタを、そっと乗せた。
驚いたような彼女の瞳が、僕を見る。伝えたい言葉は、一つだけだった。いつも思っていたこと、でも、いつも言えなかったこと。心は、穏やかに凪いでいた。優しく、でも、しっかり届くように、声に出して送り出す。
「ずっと、愛していました」
彼女はいっぱいに、目を見開いて。
「――うん、私も」
バレッタを握りしめた手を胸に当て、泣きじゃくりながら、それでも笑った。その身に露を乗せた、紫陽花のように。
花火の音は止んで、透明な月明りだけが静かに僕たちを照らした。彼女は笑顔のまま、涙を零し続けている。それを拭おうとして伸ばした手は、彼女の頬をすり抜け、空を切った。もう、時間のようだ。
「幸せに、生きてね」
消えつつある僕が口にした言葉が、きちんと空気を震わせて、伝わっていたのかは分からない。でも、彼女は、涙をぽろぽろとこぼしながら、笑って頷いた。
――ああ、この人生は、幸せだった。
綿雪が降り積もるように白んでいく視界の中、また会おうね、と声がした。そうなりますように、と願いながら、僕はそっと目を閉じた。冬の眠りを経て、春のまどろみを越えて。いつかまた、夏の日の君と、笑えますように。