1話
『ごめん、やっぱり君とは結婚できない。僕は真実の愛に目覚めたんだ。』
そんな無責任な置き手紙だけが部屋に残されていた。
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ルースパウダーを乗せたパフにふんわりと鼻頭を撫でられ、アスティアラはくしゃみをしそうになった。
「くしゃみが出そう。」
「もう少しで終わりますから我慢してください。」
侍女のリタにそう言われ、アスティアラはくしゃみを我慢した。目の前の大きな鏡にはエンパイアラインのドレスに身を包んだアスティアラが居る。フリルが切り返した胸下を華やかに緩やかに伸びていくスカートに繊細に丁寧に縫い付けられている。
アルラシラ王国の公爵令嬢、アスティアラ・オウァルトの結婚式は盛大に挙げられる。国中の貴族が招待され、国外からも貴賓が招待されている。そして王族までもが出席するのだ。
「アスティアラ様、出来ました。」
リタはアスティアラ前から退く。鏡には美しいウェディングドレスを纏ったアスティアラが映っていた。
後ろから侍女達の感嘆が漏れる。アスティアラから見ても今日のアスティアラは美しかった。
「ありがとう、みんな。」
侍女全員を嫁ぎ先に連れて行けるわけではない。ついて来るのはリタだけだ。だから、これからあまり会えなくなる侍女達は涙を流していた。アスティアラも泣きたいのに涙が出ない。
ヒューゴーは侯爵令息でアスティアラの婚約者だ。この結婚は政略結婚だが、それなりにいい関係だとアスティアラは思っている。
そこに恋愛感情は無いが、お互いを大事に思っているのできっといい夫婦になれるだろうと思っていた。
「ヒューゴー様、遅いですね。」
リタが不安そうに呟いた。中々アスティアラに迎えが来ない。式が始まる予定の時間はとっくに過ぎている。
その時、アスティアラのいる部屋の扉がノックされた。やっとか…とアスティアラは椅子から腰を上げる。
扉の前にはいつも威厳のある父が申し訳なさそうに立っていた。
「アスティ、結婚は中止だ。」
「え?」
訳がわからず、『完璧令嬢』『淑女の鑑』などと言われたアスティアラもこの時だけは間抜けな声を発した。
「ヒューゴーが…どうやら駆け落ちしたらしい。侯爵夫妻から謝罪があった。また後日正式に謝罪しに来る予定で後慰謝料と式などにかかった費用を全額負担するそうだ。」
「そんな嘘よ。」
アスティアラは無意識にヒューゴーが居るはずの部屋まで走っていた。部屋には紙がポツリと置かれていただけだった。
『ごめん、やっぱり君とは結婚できない。僕は真実の愛に目覚めたんだ。』
「ふざけないで。」
アスティアラは紙を握りしめた。ヒューゴーと仲は悪くなかったが所詮政略結婚だ。悲しくはない。……多分。
ただ、ヒューゴーが無責任にも逃げ出したせいでアスティアラには結婚式直前で婚約者に逃げられた令嬢というレッテルが貼られる。
その後、アスティアラは父と一緒に招待客に謝罪した。頭を下げたアスティアラは屈辱で震えていた。
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色んな感情がごちゃ混ぜになって吐き出せない。完璧令嬢アスティアラが弱音を吐くことは許されない。皆、婚約者に捨てられたアスティアラに同情していたが中には婚約者に捨てられる程魅力の無い女と思われているかもしれない。
(真実の愛…ね。)
アスティアラにはヒューゴーの駆け落ち相手に全く心当たりがなかった。
(私、全然ヒューゴー様のこと知らないじゃ無い。)
これから夫婦になる者同士だったのに。アスティアラは『結婚』と言う肩書にしか興味がない事に気づいた。
完璧令嬢たるアスティアラがまさか行き遅れになる事なんてあり得ない。身分も容姿もしっかりしている人の妻になるはず…と。
(多分次はこれ以上の良縁は望めないな。)
ヒューゴーのことを知らなかったと後悔したアスティアラだが、やっぱり結婚というものにしか興味が湧かなかった。もうヒューゴーはアスティアラの中では過去の者。気にする余裕などなかった。
その時、アスティアラは廊下で誰かとぶつかった。
「あっ、申し訳ございません。」
考え込みながら歩いていたので、下を向いたままだった。バッと顔を上げるがアスティアラはまたすぐに頭を下げた。
「申し訳ございません、王太子殿下。お許しください。」
ぶつかった相手は王太子だった。
(そう言えば王族の方も来ていたのよね。もう帰られたかと思ったのに。)
「いえ、こちらも悪いですから。気にしないでくださいオウァルト嬢。」
王太子マクシミリアンにも今日の恥ずかしい場面を見られたのか…とアスティアラは頭の中で項垂れた。
王家の次に権力を持っているとされるオウァルト公爵家の令嬢であるアスティアラは王太子とも交流があった。一時期はアスティアラがマクシミリアンの婚約者候補だった事もあった。ヒューゴーと結婚する事になり、その話は無くなったが。
「…その、残念でしたね。オウァルト嬢と王家の遠戚でもあるリーベルス侯世子との結婚式、楽しみにしていたんだけど。」
「申し訳ございません、殿下。」
「オウァルト嬢が悪いわけではないよ。全ては、リーベルス侯世子が。」
「ヒューゴー様を引き留められなかった私に至らぬ点があったからです。それに、もう気にしていません。」
そこに元々愛などなかったのだから。そして完璧令嬢として男性を立てることも忘れない。
「そうか、それなら良かったよ。」
マクシミリアンは柔らかい笑みを浮かべた。
「こんな事、今のオウァルト嬢に言うべきじゃないんだろうけど傷心中じゃなさそうなら言わせてもらうよ。」
「何でしょう。」
「妃になって貰えないかな?」
ヒューゴー以上の良縁は望めないと思っていたアスティアラだが、これはもしや…とんでもない良縁が望めてしまうのではないだろうか。