万年筆のインクが切れた
万年筆のインクが切れた。
原稿用紙の上、カリカリと言の葉を刻み付け続けた万年筆がぱったりと。夜空を切り取ったように艶やかで、僕の名前の刻まれた万年筆。かすれつつも悪あがきをしていたのだが、とうとう息絶えてしまったようだ。小さな丸机の端に置いたインク瓶は、すでに空っぽ。開けっ放しの空洞から、インク独特の心地よい匂いだけ。
「あぁ、くそっ……」
気持ちよく酔っていた頭に冷や水を浴びせられた気分だった。僕の妄想が、僕の世界が、急速に紙の向こうへ消えていく。
彼女と手を取り合い、綺麗な自然を背景に楽しげな、二人の愛だけがあふれる世界。目があえば笑い、手が触れあえば自然とつなぐ。甘い甘い、飴細工みたいな関係性。
色彩溢れる非現実は、いまや二百を越すかという原稿用紙の底。まだまだ薄っぺらいはずのその厚みの中から、取り返せなくて。モノクロじみたワンルームに、僕は置いてけぼりだ。
執筆中ずっと目に入るとこに置いていた写真を手に取って倒れ込む。一週間前に本当の持ち主を失ったクッションが僕を受け止め、懐かしい匂いがふわり、漂った。隙間風みたいに吹き抜ける喪失感を埋めるため、丸い蛍光灯に写真をかざす。
そこに映っているのは、さっきまで僕と愛し合っていた彼女と、彼女を独占する憎き男。
あぁ、くそっ。じりじりとした苛立ち。
若者らしく髪を染め、ファッション誌に手を突っ込んで引っ張り出したみたいな服装。大量生産品に過ぎない俗物が、何故彼女と笑っている。
身長百五十二センチ、体重四十三キロ。胸のサイズはAカップで、ウエストヒップはそれぞれ平均より五センチほど下回る、痩せ気味の彼女。大学生だというのに化粧は薄く、けれど特別綺麗なわけでなく。ただ、とても僕と一個違いだとは思えないほほ笑みで、写真越しにでも僕を誘惑してやまない。
そんな彼女と、なぜこんな凡百が。
「楓さん……」
くしゃり、と言わないまでも、写真が歪む。慌てて指で挟んで折り皺を伸ばした。けれども直している内に、やはり手つきは乱雑になって。今度こそ僕は写真を机の上に置きなおし、勢いよく寝返りをうった。
「インクが欲しい」
その呟きは、クマのキャラクターの顔の形をしたクッションに吸い込まれた。
僕なら彼女をもっと幸せにできるのだ。彼女が実は活動的なことも、博物館を意味もなくぶらぶらするのが好きなことも、そのたび、変わり映えもしない入館券をコレクションしていることも。きっとあいつは知らない。僕だけが知っていて。
僕なら、僕なら――
……あぁ、この感覚だ。
俗物に彼女が汚されていると思うほど、僕の想像力は加熱する。ひどく矛盾した、それ故にこの上ない、昂り。
思い浮かぶあれも、それも、これも。奥手の僕にはとても無理だから。文字にして残そうとして、インクがないことを思い出す。
でも、僕は万年筆のインクを買ったことがない。コンビニで売ってないことぐらいはわかるけど、じゃあ近所の文房具屋に置いてあったろうか。
ただでさえ貰い物の万年筆なのだが。必要の度、インクも買ってきてもらっていたものだから、そんなことすら自分ではままならない。
「もう、いいか」
インクがないんじゃ仕方ない。この愛を紡いでいいのは、この万年筆だけだから。
僕はのそりと起き上がり、簡易の化粧台と化して久しい棚から、茶封筒を取り出した。半分しか使わせてもらえないクローゼットから、灰色のトレンチコートを取り出して腕にかけ、机の上の原稿を整えてから、丁寧に封筒にしまう。
スマホを取り出して、GPSで彼女の位置を確認。どうやら、そう遠くもないらしい。少し広く感じるようになった玄関の扉を開けた。吹き込む冬の風に、出不精の身体が引き締まる。
◇◆◇
ちょうど、喫茶店から出てきたところだった。
冬の斜陽も沈み始めて、どこか世界の終わりじみた空模様の下で、楓さんは常と変わらず綺麗だ。淡いベージュのダッフルコートに毛糸のマフラーを巻いて、その上を流れ落ちる黒髪が艶やか。コートの裾からのぞく脚はデニールの高いストッキングに包まれ、もこもこのブーツが冷え性の彼女らしい。
トレンチコートの襟をそばだてる。そんな彼女をあの俗物は、この後どこへ連れていく気か。裸の茶封筒を片手に下げて、僕は悠然と二人の前に歩みでた。都心でもなく、田舎でもなく、中堅といった街並みの、まばらな客入りの喫茶店前。たじろぐ二人。
「どうしたの、悟くん……」
「楓さん」
久しぶりに会えた彼女に爆発しそうになる歓喜を、ぎりぎりで抑え込む。それでも、多少声が上ずったけれど。
彼女はそんな僕に対してやはり、訝しげ。一体僕は今、どんな顔をしているのか。彼女の瞳に聞こうとして。しかし、邪魔が入る。
「君、二年生の四十万悟だね?」
「――そうですが、何か御用ですか? 堂島貫先輩」
気取った足取りで僕と楓さんの間に割り込む俗物の、敵意を隠すつもりもない言葉。僕は冷ややかに返した。
俗物は、それを鼻で笑う。
「知ってるよ。君、楓のストーカーなんだろ」
「何言ってるんですか? ストーカーはあなたですよ」
呆れた顔で肩まですくめてみせるその仕草より、『楓』と呼び捨てにすることが許せない。思わず語気を強め、睨みつける僕の姿に、楓さんはすっと俗物の影に隠れてしまった。
――本当に、楓さんは演技がうまいんだから。
口元が緩む。俗物が気持ち悪そうに顔をゆがめた。楓さんに比べ、こいつは本心を隠すことすらできやしない。
煮えたぎる腹の奥から、言葉が溢れ出す。
「いい加減、楓さんが楽しくもないところを連れまわすのはやめたらどうですか?」
「はぁ? いったい、何を根――」
「この前、パスタの美味しいレストランに連れて行ってましたけど。あの時の笑顔が、楓さんの本当の笑顔ですよ。わかるでしょう? あなたの前で楓さんがあれ以上の笑顔を見せたことがないって」
「そんなことは」
そんなことはある。
楓さんが前々からあのお店に行きたがっていたことを、僕は知っている。彼はそれを偶然引き当てただけのようだけど。
「僕なら魚類の苦手な楓さんを水族館に連れて行ったりしない。うるさいゲームセンターになんてもってのほかだし、彼女の苦手なコーヒーを勧めたりもしない」
「適当なことばかり」
「適当じゃない。そう思うなら、直接楓さんに聞いてみればいい」
最大級の侮蔑を込めて、吐きつけた。余裕しゃくしゃくで受け止めた彼は、満を持して振り返る。
楓さんと二言三言交わして、そして。
「そんな、言ってくれたら……」
呆然と言葉を漏らしてから、ハッとこちらを振り返った。
言われなけりゃ、気付けないんだろ?
そんな僕の視線に、彼はしばし口をパクパクとさせる。掬い上げられた金魚みたいに無様で、滑稽で。しかし嗤うことはせず、じぃっと視線で突き刺してやる。すると彼は、居心地悪そうに視線を行き来させて、仕切り直しとばかりに咳払い。
「楓さん」
「なぁに?」
そんな俗物は放っておこう。
僕が楓さんを見つめれば、楓さんは彼の影から一歩出て、見つめ返してくれる。いつだって僕を誘惑する、底知れず大人びたほほ笑み。訝しげな調子もなくなった、空気に溶けていってしまいそうな声。
僕は大げさに一息ついて、心を込めて語りかける。
「やっぱり、僕は楓さんがいないとダメみたいだ」
「どうして?」
「これがその証拠」
歩み寄って茶封筒を渡すと、彼女は両手でそれを受け取って、何度も確かめるように握りなおす。そして、小首をかしげて僕を見た。
「いつもより少ないね」
「書きたいことは、まだあったんだけどさ。インクがなかったんだ。楓さんが買い置きしておいてくれないから。いつもどこで買ってきてくれてるのかわからないし。だから……」
「なんだ、そんなこと?」
早口に言い訳する僕を見て、楓さんは本当におかしそうに、くすくすと。つられて、僕も笑ってしまう。
あぁ、これだ。
僕らはたしかに愛し合っている。この瞬間。この瞬間こそが。僕らが最高に恋人である瞬間で。
この時のために、一週間前に彼女は僕の家を出たのだ。
唯一不快なのは、楓さんの前に立つ障害物。ちょっと視線をくれてやると目があった。思い出したように、俗物は顔を急速に赤らめる。
「おい、何だよこれ……」
「ごめんね? 堂島君」
「何で……何で楓が謝るんだ! それじゃ、まるで!」
「うん、そうだよ。堂島君とは、今日でお別れ」
「っ!」
「それと、呼び捨てにするの、もうやめてよね。ただこの日のために、私、ずっと我慢してたんだから」
絶句とはこのことだろう。目を白黒させて、再び物言わぬ木偶の坊に戻る。きっと彼は、まるで最初から仕組まれていたみたいだと言いたかったのだろうが。それがどうした。
とっ、とっ、とっ。軽い足音で僕の隣に来た楓さんは、ごく自然に僕の腕を抱く。ふわり、懐かしい匂いがした。
「ほら、悟くん」
「うん」
インクを買って帰ろう、と。足取り軽く歩きだす。久しぶりに玄関に僕と彼女の靴が並ぶと思うと、胸が弾んだ。化粧台もキレイに掃除してあるし、いつもどおりが帰ってくる。勝手にクッションを使ったことは、怒られるかもしれないけれど。
そうして、緩慢な幸せを満喫して、僕は彼女への愛を小説という形に残して。
ほどなく、僕の想像力が切れたなら。
またきっと、彼女はインクを買いに行ってくれる。
「それにしても、今回はちょっと物足りないよね」
「ごめん。僕のせいで」
「ううん。謝ることないのよ。だって悟くんは――」
大事そうに茶封筒を抱く楓さんが、こちらを見上げる。
見つめ合った。それだけで僕たちの時間は濃密になって。
「いつも私を奪ってくれる、素敵な人だもの」
それは、僕たちだけが共有できる、僕たちだけの、愛の世界なんだろう。
堂島貫→どうじまぬき→どじまぬき→ドジマヌケ