異世界の夜明け
――朝だ。
気持ちのいい朝というのは二種類ある。一つはまどろみの中で、日の出と共に迎える朝。
吸血鬼なのに日の光を語るなんておかしいと思うかもしれないが、そもそもそれが誤解だ。確かに我ら吸血鬼は夜行性だが、日の光を浴びて灰になったり、極端に弱りはしない。
そう、大抵の吸血鬼は。
「……」
ベッドから起き上がり、薄暗い部屋を歩いて洗面所へ向かう。この部屋を薄暗くしているのは別に俺が日の光に弱いからではなく、俺がこういう静寂に閉ざされた朝も好きだからというだけだ。
矛盾するようだが、まだ空が目覚めていない時間にこうして一人眠る地面を踏みしめるのも悪くないと思っている。
「……」
洗面所で顔を洗い……ああそう、吸血鬼の弱点の話だったか。改めて言うが、吸血鬼の弱点というのは結構な部分で誤解されている。
日の光に弱いだの、十字架を見せられたら怯えるだの、心臓に杭を打たれると……いや、最後のは普通の生物なら死ぬと思うのだが。
そういったもろもろは、実はほとんどの吸血鬼には当てはまらない。俺は別に日の光を浴びても平気だし十字架を見せられても気にならないし、心臓に杭は……。
「……ん?」
さて、今日は妙に静かだ。
いつもならこのくらいで『おはようございます、我が君』と声がかかり、本日も麗しくとかそんな前置きで一日が始まるのだが、今日に限っては誰もいない。
……そういうわけでもう一つの気持ちのいい朝は『たまには一人でのんびりできる朝』だ。吸血鬼の当主なんてやっているから、予定は一日にたっぷりと詰まっている。これでも忙しい身なのだ。
ふむ、今日はたまたま従者が寝坊でもしたのか……まあ、そんなことで怒りはしない。珍しく気持ちのいい朝になったのだから。
折角だから話を続けようか。
有名な弱点『日の光に弱い』吸血鬼なんていうのはほとんどいない。が、ややこしいことに、恐らく過去にはいたのだろう。
ほとんどの吸血鬼は、と前置きしたのはこういう事情なのだ。これほど有名になった弱点だ。我々が本来夜行性というだけでは説明がつかない。
だから過去、人間と接触した吸血鬼がたまたま日光に極端に弱いという弱点を持っていたのだ。
勘のいい者ならここで気づくだろう。
そう。我ら吸血鬼は、一人一人弱点が皆違うのである。
「服……」
伝承とはいい加減なものだ。
日の光に弱い吸血鬼が一人いたならば、我ら吸血鬼を知らぬ人間は『全ての吸血鬼は日の光に弱い』などと誤解する。
そうして吸血鬼と接触する度違う弱点が伝承されていくのだから、現代の吸血鬼はあれもダメこれもダメと随分とデリケートな生き物になってしまったのだ。
中には流石に人間の創作なのではないかという弱点まであるが、真意のほどは我ら吸血鬼にも定かではない。実際いたかもしれないのだから。
それに、俺達吸血鬼と『弱点』が切っても切り離せない関係なのは事実だからな。
「……」
パジャマを脱いで白いシャツに袖を通す。アイロンの効いた、新品のようなまぶしい白さが肌を滑る感触が気持ちいい。
すらっとしたズボンに、特注の、赤い装飾を施したベスト。我が家に代々伝わる宝玉をあしらったブローチタイを巻き、鏡の前に立つ。
自前の銀髪が光り、白い肌に浮く赤い瞳がこちらを真っ直ぐに見つめる。
そういえば鏡に映らないなんていう弱点もあったか。実際そんな弱点を抱えていたら、毎朝の髪のセットも大変だろうなと同情する。
まあ、そんな弱点でも俺のと比べたらどっちがいいのか分からないがな。
「……さて」
支度は終わった。
益体のない話もここまでだ。
また今日も忙しい一日が始まるだろう。
俺は薄暗い、まだ眠る部屋のドアを開け、照明のついた廊下へと出て……。
「……え?」
思わず、声が出た。
目の前に何かがあった訳じゃない。そこはいつもの、絨毯の敷かれた見慣れた我が家の廊下。
問題は、何もなかったことだ。
「……誰も、いない?」
それは、明らかにおかしな光景だった。
俺の部屋の前に普段からついている護衛がいない。俺を出迎える腹心の部下もいない。誰もいない。
そうだ、そもそもがおかしかった……俺の従者が寝坊で俺を起こさない事なんて、今まで一度だってあったか?
ここにきてようやく、俺は『何か』が起こったことに気付いたのだ。
「何、が」
思わず神経を研ぎ澄まして周りを探ってみるが、誰の気配もない。聞こえてくるのは空調の音だけ。
まるで人っ子一人いないような……。
「ッ!? まさかっ!」
この突然の状況の一変、まさか、いつものアレが発動したのか!?
いや、そんな筈はない! いつもの感じはしなかった! それにアレが発動していたとしても関係なしに……これは異常事態だ!
「誰かッ! いないかーっ!」
少し大きめに声を上げても、誰も答える者はいない。
俺は不安の中駆けだした。
俺の部屋がある七階から、六階、五階、廊下を一通り駆け回りながら降りていく。
「四階までもぬけの殻なのか!?」
三階、二階ときて、とうとうロビーのある一階にたどり着いてしまった。
「何が、どうなっている?」
俺は困惑するままに、玄関のドアに手をかける。
ひょっとすると皆外にいる、そんな淡い期待で、ドアを開き……。
「……」
ドアの向こう、そこは見慣れた、人間たちがせわしなく暮らす街ではなく。
荒涼とした大地の広がる、別世界だった。
「……」
一回ドアを閉める。
で、開ける。
「……変わってないか」
まあ、変わるわけないのだが。
「一体、なんだ、これは?」
地平線の向こうまで続く渇いた大地と荒々しくそびえる山々。点々と背の低い草が生えた、やせこけた大地。見覚えのない、景色。
空はまだ目覚めていない。今の俺の不安と重なるように薄暗く立ち込める空だが、もうすぐ目を覚ますように、地平線の向こうは白み始めている。
「これは……あれか」
人間たちが我ら吸血鬼に侵略される前に自ら滅びたのか? ほら、核戦争とか第三次大戦とかなんかそういう。
「……笑えないな」
現実逃避したがそれだとこの城に誰もいない説明がつかない。
ここまで降りてくるのに誰とも会わなかった。どこにも争った形跡すらない。どんなに取り繕おうとも、血の一滴でも漏れていれば吸血鬼の鼻はごまかせない。
その血の匂いすらしなかったという事は……。
「何らかの形で……魔法や呪術で城ごと別の場所に転移? いや、それは不可能な筈……」
俺がいる限り、そんなことはできる訳がない、のだが……。
「なんにせよ情報が足りない」
俺は一度外から視線を切り、城の中を探索すべきかと踵を返そうとした。こういう時は悩んでいても仕方がない。何が起きているにせよまずは現状の……。
「ん? 何だ? 何か迫って……」
視界を切る直前、地平線の方から何かがこちらにやってくるのが見えた。吸血鬼の視力でも細かい部分は見えないが、人型が、群れを成して迫ってきているように見える。
「人間、か……ん!? いや、あれは……」
見慣れた人型のシルエットに自然と人間を連想したが、その予想を裏切るように徐々に大きくなっていくそいつらは……。
揃いもそろって、皆灰色の肌をしていた。
手にはその身の半分ほどの、こん棒、のようなものを担いで。
「おいおい……本当に、何処なんだここは?」
あれなのか? 小説や漫画で流行の異世界というやつか? 妙にファンタジーな風貌の、いや、吸血鬼の俺が言うのもおかしいかもしれないが、物語に出てくるモンスター的な何かが闊歩している世界なのか?
……まあ、いい。
「情報が向こうからやってきてくれるとはな」
別に、誰がいくらかかってこようと問題ではない。
向こうに害意や悪意があるかは分からないが、あれは多少手荒なことになっても構わないという手合いだ。むしろ好都合というもの。
なら、容赦なく……。
「ぐっ!?」
そう、一歩踏み出そうとした。
「なっ!? く、まさかっ!? こんな時にっ!?」
踏み出した足がぐらつく。
視界が急にぼやけて、途端に力が入らなくなってくる。
「ま、ずっ、い、いま……はっ……!」
部下達が誰もいない中、マズいと思いつつもどうしようもなく。
襲い来る、強烈なソレに、俺は抗う事などできない。
――吸血鬼には、それぞれ固有の弱点がある。
かつてあるものは日光を恐れ、あるものは川を渡れないと嘆き、あるものは鏡にも映らなかったという。
全てがそうなっているとは言えないが、その強さに比例するように、弱点もまた大きく重いモノになっていく傾向がある。
俺はたった16歳の身で吸血鬼達の頂点に立ち、尊敬と羨望を欲しいままにしてきた。
家名と、そしてこの身の丈に合わない『圧倒的な強さ』によって。
そんな俺の弱点は、融通の利かない、そして何とも分かりやすく……厄介なものだった。
「せ、めて……ドア……閉め」
膝が崩れて、意識が遠のく。
あれこれ考えようとしてももう何もやる気が起きない。
とどめに、あくび。
「お……やす……さい」
『強制睡眠』。
突然降りかかる、抗えない眠気の前に力は屈する。
そう、俺は最強ではあっても、無敵では、な……い……。
光が空を満たし、朝日が昇る。
俺はあの時、見知らぬ世界の扉を開き、一歩を踏み出した。そう、踏み出したのだ。
その一歩の先にはどんな世界が待っているのか、それは分からない。だが、確実に一つ、言えることがある。
俺の第一歩は、どうやら足踏みで止まってしまったらしい。
今日もまた、一人深く暗い夢の中へと沈みゆく。
そうして俺は、人間どもの支配を目前にして、全てを白紙に戻されて。
――物語が始まるのは、それからおよそ90日後である……。
<現在の勢力状況>
部下:???
従者:???
同盟:???
従属:???
備考:カイの弱点『強制睡眠』が発動中
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