最後の夜
人里離れた山奥に、その屋敷はあった。
「こいつっ!? なんて再生力っぐあああっ!」
「バカなっ! 切り飛ばした腕がっああ!」
「魔法がっ、妖術が、きか、な……」
現代の文明の光も及ばぬ深い森の奥地。そこに彼らは住んでいた。
この国の『妖』や『化け物』と呼ばれる、人間とは異なる姿かたちをした異形。
怪物たちが住まう、その一角。
「お頭! どうか逃げて、ぐぶあっ!?」
「これが最後だ」
俺は今しがた殺した烏天狗の副官を踏みにじり、慈悲も憐憫もなく問いかける。廊下を進む際に飛び掛かってきた奴らを束ねる、この館の最奥の間に鎮座する、目の前の男に。
「降伏する気はあるか」
「……恐ろしいやつよ。そのような年端も行かぬ姿でこの力。我ら日ノ本の妖とは一線を画すか。西洋の妖が、これほどまでとはな」
奴は、この山奥の森を統べる大妖怪はそう言って立ち上がり、すらりと刀を抜く。それが奴の示した答えだった。
「そなたを放っておけば、いずれこの国の裏の世界が全てそなたの手に落ちる。いや、それだけでは済まぬであろう。そなたは表の……人の世までをも手にかける」
黒髪を流すように後ろで一本に結んだ、見た目は年若く、背の高い美しい優男。そいつが古風な和服姿で、時代錯誤な刀を構えている。
人の世との交わりをはるか古来で断ち、ずっと静かに暮らしてきただけの、けれど強大な力を持つ『人ではないモノ』。
「それだけは看過できぬでな」
男は決意の光を瞳に宿し、俺に飛び掛かってきた。
「ふっ!」
寸分の迷いもない、頭上から迫る見事な一太刀だ。
奴の剣……鋭く速く、風切り音がしない。それは空気によるロスがないことを意味している。この一刀だけで、コイツがどれほど凄まじい使い手か伝わってきた。
その一撃が俺の髪を数本持っていく。バックステップでかわし、さらに数撃続く剣閃を避け、刹那に交差する視線。その視線の先で、何故か男は薄く笑みを……。
「ぐっ!?」
「悪いが」
気づいたときには、光が俺の胸に吸い込まれていた。
先ほどまでの会心の攻撃が……ああ、あれほどの剣閃が、単なる陽動に過ぎなかったと気づいたときには、流石に驚いたさ。
「二刀、流!」
「そなたの命、俺が貰い受けッ!?」
「……見事、だ」
剣の達人が見れば、お前を称賛しただろう。
太刀の攻撃は、魂のこもった確かなものだった。本来、陽動などというつまらない小細工と片付けていいものではない。
そして今の連撃は、そんな剣閃を以てしても狩りとれないほどの強敵を屠るための技。まるで二つの魂を乗せたかのような、鮮やかすぎる連撃。ああ、そうだな。言葉をどれだけ尽くしても褒めたりないさ。
俺の胸に深々と刺さった銀の短剣は、確実に俺の命を散らしていただろう。そう……。
これが、俺以外なら。
「ば、かなッ……な、ぜ……死、なッ!」
「先ほどは西洋の妖、と俺を呼んでいたな」
俺は、刺し違えるように突き出した右手を引き抜く。
奴の胸に深々と穴をあけた、血まみれのその手を。
温かな血が、熱が。命と一緒に、音を立てて零れゆく。
「生憎だが、そんな伝承など当てにはならん。我らのルーツも、別にある」
世に知られているところのソレとは、俺たちは少し違う。
銀の短剣では、俺は殺せないのさ。
「そ、うか……そな、た、黄泉、の……」
俺の胸に刺さった短剣がずるりと引き抜かれ、崩れる男と共に床に転がる。一撃は確実に奴の方が速く、けれど、倒れたのは向こうだけ。
理不尽と、呪わば呪え。
「俺たちのルーツは『魔界』だ。黄泉に行くのは、お前の方だ」
「ふっ……すま、な……」
俺に腹を貫かれた男は、そのまま笑みを残して息絶えた。
「終わりか」
長い歳月。
気の遠くなるようなその年月を、この森の奥地に君臨していた大妖怪の、あっけのない最期だった。
「……逆らわずにいれば、もっと長生きできたものを」
俺は手に残る血を名残惜しむようにぺろりと舐め、その味に悠久の時を歩み続けてきた男の生涯を思う。
降伏を勧めても一向に屈せず、今しがたも『人の世』などと奇妙な事を言っていたが……。
「何にせよこれで、この地は制圧」
「……ぁぁぁぁあああああああああっ!」
「ッ!?」
そうしてさっと踵を返そうとした瞬間だった。
突然、何もないはずの空間から響いた叫びに、思わず目を見開く。
「なっ、今までどこに!?」
「お前っ! お前えええええええっ!」
目の前に現れたのは、一人の少女だ。
場違いにセーラー服を着て、どこか古風な髪飾りを付けたセミロングで黒髪の、今泣きながらめちゃくちゃに刀を振り回す……。
恐らくは、ただの人間。
「よくもっ! よくもおおおおっ!」
「……そういう訳か」
この大妖怪が最後まで俺たちに降伏しなかったワケ。
それが目の前のこの少女。
「あがっ!?」
「お前、あの男を愛したか?」
「ッ!」
首根っこを掴みあげ、溢れるほどの涙を流すその瞳に、問いかける。
その瞳から返ってきた途方もない悲しさと、そして、それすら焼き尽くしてしまうのではないかと思われる怒りの炎が、雄弁に語っていた。
成程、俺達が表の、人間の世界をも手中に収めようとするのに対し、奴は止めなければならなかったのだ。
俺の手におさまった少女。
奴の言う『人の世』を、守るために。
……ああ、この瞳の奥で燃える火は、消えんな。
「うっ!?」
「悪いが、見せしめだ」
「ひっ!? このっ!」
セーラー服を力任せに引き裂いて、そのまぶしい素肌をさらさせる。ただの人間の少女の抵抗など、俺達の前ではそれこそ児戯に等しい。
「お前なんかにっ! ぐっ!? あっ! ぎゃあああああああああああっ!」
首筋に牙を突き立て、その血を思うままに貪っていく。
「あああっ、ああっ! あああああああああああっ!」
ああ、清い血だ。
怒りに沸騰し、けれどその熱い血潮の中に、これでもかとあの男への愛しさを込め……。
「ぐぶっ!?」
「あっ」
「おまえ……には、やら……ん」
なん……だと!?
一瞬。目の端に映る閃光。
まさか、と、思うよりも速く。
光は彼女を掴んでいる俺だけを、俺の首だけを、綺麗に通り抜け……。
「これ……さい、ご……」
天地が、ひっくり返る。床が、俺をめがけて落ちてくる。視界の端に、同じく床に倒れ伏す大妖怪の笑みを見て。
ゴトリと俺の首が落ちるのと、奴が今度こそ力尽き崩れ落ちるのは、ほぼ同時だった。
「あ……あああっ! そん、な……さ、まっ……!」
あとに残された少女は、首のない俺に首を掴まれたままで、力なく、嗚咽を漏らしている。全てが終わったのだと、本能的に悟ったのだ。
もう死んだはずの体で、この大妖怪は、彼女の言葉に命を吹き込まれたように、最後に一閃を放った。
目を離していたとはいえ、俺に気付かれることもなく、俺が掴んだ彼女を傷つけることすらなく。
全く、俺は何度この男を称賛することになるのだろうか。
「あっ! くっ、うううっ、わ、たし……え?」
そうしてある種尊敬の念すら抱きながら、俺は少女の目の前で、落ちていた俺の首を拾う。
「……なん、で」
拾い上げた俺の頭を定位置に乗せ、ふうと一つ息を吐く。こうして息を吐けるのは、体と首がつながった証拠だ。
「なんでっ、あんた……死な、な……」
「絶望したか?」
青ざめた顔で、今も俺に首を掴まれる少女は、勘違いをしていたと思いなおしたのだろう。
自分の愛した男の二度目の死すら、無駄だったのだと。
「水が切れないのと同じだ。上位の俺達は、血そのもの」
「あっ、がっ」
そうして俺は、少女の首を掴む手に力を込め、最後に残った火を吹き消すように。
「ごっ!」
少女の首を、へし折った。
二、三度びくびくとその体を痙攣させ、やがて少女は、笑みを浮かべる。
炎の揺らめきが消える瞬間、その瞳には、目の前の俺ではなく、俺の後ろに倒れている愛した男を映して。
「……最後は」
俺は、死体となった彼女を放り捨てる。
俺の後ろ、愛しい女を助けるために蘇った男の所へ。
「共に、いさせてやる」
そうして今度こそ、俺はこの部屋を後にした。
――
「お見事でした、カイ様」
部屋の入り口で、俺の側近と部下達が待っていた。
「他はどうなっている」
「全て制圧しました。捕らえた者の処遇はいかがいたしましょうか?」
「従う気のあるやつは生かせ。それ以外は殺せ」
至極単純な、いつものやり取り。
「それと死体はそのままにしておけ。見せしめだ」
今しがた、俺が殺した奴らを指して伝える。遠ざかる前、最後に一度だけ血の海になったその部屋を振り返って。
「かしこまりました。我らブルーダラクの名も、いえ、カイ様の勇名も裏の世界に一層轟くことでしょう。それにしても……」
俺の側近、背の高い彼女はその赤い長髪をなびかせ、前を歩む俺に続きながらこぼす。
「無様な最期でしたね、あの大妖怪とやらも」
「……」
「カイ様に逆らうものにはおあつらえ向きの末路かと」
美しく端正なその顔を歪めて、それでいて楽しそうに話す。裏の世界に生きる俺たちにとっては、ありふれた顔だ。
「勝算などあろうはずもないのに。おのれの力量も弁えぬ古物が。カイ様の手で葬ってもらえることを感謝してほしいものです」
その言葉に、部下達からは同調の笑みが漏れる。
「ですが気に入らないのはあの娘です。あの古物の妖力で身を隠しておきながら、最後にカイ様のお手を煩わせるなど」
突然何もない場所から現れたアレか。どうやらあの男の力だったようだ。
……きっと最後まで、隠れていることをあの男は望んでいただろうに。
「それにあまつさえカイ様の牙にかかるなど、光栄の極みに感謝の言葉すら残さずに死ぬなんて。やはりあの古物の抱える下劣な女、カイ様にはふさわしくありませんね」
彼女はそう言って、俺に向けて笑みを浮かべる。先ほどの歪んだ笑みとは比べ物にならない、その美しさに見合う上品な笑みを。
「お口汚しでございました。いくら裏の世界にカイ様のお力を示すためとはいえ、あの程度の愚物、我らが蹴散らせればよかったのですが」
「構わん」
あいつらが逆らった相手は俺なのだ。だから、俺が相手をするのが相応しい。
「お口直しを用意しております」
「カイ様」
屋敷を出ると、夜の空気が肌を撫でる。都会とは違う澄んだ風が火照った体に心地よい。
月夜の下、その光すら覆うほどの深い森の前。
そこには大勢の部下たちと、そして、俺の従者の一人である少女が。
「どうぞ。私の血で、そのお体をお慰めください」
そう言って、彼女は着ていたローブを脱ぎ捨てる。
ショートカットの黒髪。幼さの抜けきらない、美しいその顔に笑みを浮かべて。それほど高くない背で、けれど豊かな曲線を描く、柔らかい白い肌をさらし。
大勢の部下……男たちの前で、躊躇なく。生まれたままの姿に。
「……ああ」
そんな姿を見せられては、嫌とは言えないだろう。
……正直、さっきの少女の余韻を消したくないのだが。
「あっ、ああっ……カイさ、まっ! んあっ!」
牙を立てやすいようショートカットに揃えた彼女の黒髪が、ふわっと浮いて。
顔を見なくても分かる。恍惚に彩られた嬌声をあげ、血を奪われているというのに、歓喜に震えるように体を預けてくる彼女が、今どんな顔をしているかが。
押し潰された柔らかい胸が心臓の鼓動を刻む。他は何もしていないのに、彼女は勝手に盛り上がり、震えて、吐息を漏らす。
「あっ、あっ! んああっ! ああああっ!」
トロトロに蕩けた顔で、感謝を述べようとして動いた唇が、力なく閉じる。まあ言わずとも思いは伝わっている。
その血の味が、こんなにも『嬉しい』と訴えかけているのだから。
……今夜は胸焼けしそうだ。
「皆、よく聞け」
ぐったりとした従者を治療のために預けてから、俺は俺を敬うように見つめる部下達に、呼びかける。
「これで、この国の裏の歴史が一つ幕を閉じた。我々の糧として、その役目を終えた。この血を以ていよいよ、日の当たる場所へと……我らは打って出る!」
「おお!? か、カイ様っ! ついにっ!」
「おおおおっ!」
先ほどの従者の少女と同じ、歓喜に満ちた声が、静かに、地鳴りのようにあたりを覆う。
「暗闇を忘れた人間どもに、我らの牙を存分に突き立てる時だ。各自その日に向け……備えよ!」
地鳴りは、瞬く間に大合唱となって爆発した。
それは静かに眠っていた森を土足で踏み荒らし、蹂躙するさまを見ているようだった。
次にこうなるのは、そう、人間たちの世界だ。
俺の名を声高に叫び続ける部下たちを尻目に、俺は用意されていた車に乗り込む。
後部座席から、俺に向けて大歓声を送るのを止めない部下達と、そう、炎に包まれる屋敷を眺めて。
「よろしかったのですか? 火を放っても」
一緒に乗り込んできた側近の彼女は、俺の表情を窺うように言葉をかける。
「これでは見せしめの死体も燃えてしまいますが」
「構わん」
そもそも最初から、そんなつもりはなかった。
ただ、それ以外に彼らを……あの二人を、静かに弔ってやる口実が見つからなかっただけだ。
敵とはいえ、俺にもそれくらいの情けはある。
「まあ、あんな古物どもなど、見せしめにもなりませんものね」
そう言って彼女は笑う。嘲るように。
「……そうだな」
俺は、複雑な思いで燃える屋敷を眺めていた。
彼女が侮るあの男は、誇り高き大妖怪という触書に相応しい男だった。
人間と、俺達とは別の形で共存を目指し、そして、多くを取らず満足していただけだったのだろう。奴ならモンスターと人間の平和な未来を、或いは築くことができたかもしれない。
だが、勝ったのは俺で、死んだのは奴。
いまだ部下の態度や言動すら御しきれない俺が生き残ったのは、何とも言えない皮肉だ。本当に、勝者の位置にいるべきは……。
――そんな思いで屋敷を眺めていると、俺の思いをくみ取ったかのように、一瞬だけ、炎が不思議な光を放った気がした。
「……」
敵対など、したくなかった。
だが、俺達が進む以上、必ずどこかで立ちふさがるというのなら。
始末しなければ、ならない。
「逆らわなければ、死なずに済んだものを」
そう、俺達……。
「吸血鬼に逆らわなければな」
「ええ、本当に」
彼女も、俺に倣うように燃える屋敷に目を向け、美しい横顔を見せながら言った。
「無能で愚かな連中です」
……彼女は、俺があのセーラー服の少女の血は美味かったと言ったら、少しは彼らを敬ってくれるだろうか。
心の中に少しだけ寂しさを感じながら、この日、俺はこの国の歴史の一つを終わらせて帰路についたのだった。
そう、次は人間どもの歴史に、幕を閉ざすつもりで。
まさかこの一夜が、この世界の最後の一夜になるなどとは、つゆとも知らずに。
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