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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

息と青春 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と、内容についての記録の一編。


あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。

 このお店も、喫煙スペース席を作ったんだね。ほっとしたよ。

 僕はどうも、昔から副流煙が苦手でさ。両親がバカスカたばこを吸う人だから、慣れているんじゃないか、と思われることもあったけど、全く逆に育ったね。厳密には、煙だけじゃなくて、臭いも苦手なんだ。服に染みついたのも、口や鼻から吐き出されるのも。前のバイトも、喫煙者が多くなったっていうのが、辞めるきっかけの一つだったよ。

 息って、本当に大切なんだと思う。その人が出し得る臭いで、簡単に好き嫌いが決まってしまうから。声や見た目と同じ、その人を真っ先に印象付ける、要素だから。

 ゆえに、僕は苦手だ。そんなことに囚われず、相手の内側を見ることができたらと、よく思う。

 けれどダメだ。肺も頭も拒むんだ。遮ってしまう。深く踏み込もうとする脚を、心を。ごく自然に、本能で。あの臭いは、服にも肉にも心にさえも、まとわりついてくる。

 息って、一つの呪縛かも知れない。そんなふうにさえ、僕は考えてしまうよ。だから、色々と、息をケアするものが生まれてきたんだろうな。

 ……そうそう、息について、興味深い体験をしたおじさんがいるんだ。ちょっとその話を聞いてみないかい?

 

 口臭予防として、年配の方々の間で知られているのは「仁丹じんたん」だと思う。明治末期に発売されたこの丸薬は、売られ始めた当初から、消化や毒消し効果を前面に押し出し、当時、高い致死率を誇ったコレラを防ぎ、身を守るものとして広まっていた。

 今でも使う人はいるけれども、口臭対策に関しては、用途を同じくする別商品たちが次々に販売されたことによって、若年層での知名度は高くないかもねえ。

 でも、それだけ大量に売られて、買う人がいるっていうことは、この時代はもはや、吐息が一つのステータスになっている証明だと思うんだ。

 

 僕のおじさん……とは言っても、まだまだ若いんだけど。高校生の時に、クラス中がやけに清涼な匂いで満たされていたというんだ。

 特に女子。休み時間がくれば、口臭サプリ。香水だったら母親もしていたし、男子でも清涼スプレーをしていたから、理解があるおじさん。しかし、口臭サプリという、まだ慣れていないものに関しては、「お菓子か、何かか?」と本気で思っていたらしい。しかも、えらく香りが強い。

 おかげで窓を閉めざるを得ない日などは、「人工的でさわやかな」バラの香りが、教室中に充満するのだとか。それにミントやシトラスの臭いが混じって来ると、もうお手上げらしい。抗議しようにも、先生たちまでもが消臭に気をつかっている状態では、反対派の立場は非常に悪い。


「息だけで、相手が変わるもんじゃないだろ? それに臭いよりははるかにましだと思うぜ」


 そういう男友達も、口からかんきつ系の香りを吐き出しながら、弁護する始末。ほとんどいない味方に、おじさんはほぼ諦めモードに入っていたとの話だよ。

 いっそのこと、自分を隔離した空間に入れてくれ、と言い出したかったけど、高校も共同生活の場。どうしても距離を縮めざるを得ない時がある。学校行事だ。

 クラスに慣れ始めた頃、体育祭が行われる。

 

 もともと体育会系だったおじさんには、ありがたい話でもあった。通常授業では体育の時くらいしか、香りから解放される機会がない。それが、体育祭に向けての練習という名目で、外に出る時間が多めに確保されるんだ。

 飛び散る汗。舞い上がる土ぼこり。湧き上がる気勢に、おじさんはふつふつと身体が燃えて来る。

 これだ。運動は現実の姿を照らしてくれる。記録、結果、得点。厳然たる事実がさらけ出される、残酷な世界であるがゆえに、報われた時の快感もひとしお。

 やはり、この「泥臭さ」がたまらない。あんな、どこか作られた教室の空気などより、よっぽど居心地がいい。

 

 色々な競技があったけど、おじさんは大縄跳びが一番好きだったんだ。みんなで力を合わせて勝ち取る、という実感が最も湧く競技だかららしい。

 おじさんの立ち位置は、縄の中ほど。前後を女子に囲まれたけど、さして気にしていなかったようだ。息も香水も、汗と疲労の前に、すっかり元の色を失くしてしまっている。これなら爽やかに臨めそうだ、と思った。


「息を合わせて、せーのっ!」


 回し役の掛け声で、みんなは一斉に飛び始める。「一回、二回」と全員で声を出し、リズムを合わせながら。

 後ろで飛んでいる子の、息づかいも聞こえる。ちょうどここは、どちらの回し手を見るかが分かれるかどうかという地点。おじさんも彼女も同じ方を向いている。

 肩に彼女の吐息がしきりにかかってくるが、運動中のおじさんに、雑念や煩悩はない。むしろ、努力しているのが感じられて、「頑張れ、頑張れ」と心の中で励ますくらいだった。

 自分自身もかなり熱を帯びてきている。だが、それがとても気持ちよい。その日は時間いっぱいまで、大繩跳びの練習にあてられたんだ。

 けれど、着替える段になって、おじさんは驚いた。

 おじさんは学校指定の体操着姿だったんだけど、そこの肩の部分が破れて、肌が見えていたんだ。よく観察すると、破れた縁の部分が黒ずんでいる。汚したかな、とその時はさほど気にしなかった。

 だが、家に帰って母親が見たところ、黒い部分の繊維がボロボロとこぼれ落ちたんだ。

「これ、焦がしたんじゃない?」と、母親は話していた。

 

 それからというもの、体育祭の練習でおじさんの体操着は、何着も傷つくことになった。

 焦げらしきものはもちろん、繊維がごわごわに固まって脱ぎにくくなったり、紫色に染まり、そこに触れると、しびれるような痛みが走ったりすることがあった。

 練習を重ねるたび、これらの異状はひどくなっていく。かといって、どう先生に説明したものか、判断に困った。

 体調ではなく、体操着の心配をするなど、ささいなこと、と切り捨てられるかもしれない。でも、このままでは、運動に打ち込める自信がなくなりそうだ。

 悩んだ末、ある日の練習終わり。おじさんは先生に相談することにしたんだ。

 ジャージ姿でコーンを片付けている、クラス担任であり、若い女の先生。その動きは、今朝から続いた全体練習のためか、少しやつれているように感じたみたい。少しためらったけれど、おじさんは声を掛けてみた。

 振り返り、「どうしたの?」と返してくる先生。口臭サプリの効果が切れたのか、いつもしているバラの香りがない。どこか、緊張してしまう、甘ったるい臭いの息……。


 とたん、おじさんはその場で立ちすくんで、動けなくなった。顔も手足も何もかも。かすかにぶるぶる震えるばかり。視線すらずらせない。口もパクパクさせることすらできない、半開きのままで、固まる。

 その様子を見て先生は青ざめる。「しまった!」と片手で口を押さえつつ、もう一方の手で、ジャージのポケットから分厚いマスクを取り出して身につけた。

「ちょっとの間、辛抱して」と、細い両腕で、筋肉質なおじさんの身体を軽々と抱きかかえると、校舎へと走り出す。

 周りの景色が、滑るように後ろへ飛んでいく姿を見ながら、ほどなくおじさんの意識は、ぷつりと途切れた。


 目を覚ました時、おじさんは保健室のベッドで寝かされていた。

 眼球。動く。手足。動く。指先。動く。

 周りを覆う、水色のカーテンのすき間から外をのぞくと、担任の先生が、椅子に腰かけた女の保健の先生に、何度も頭を下げている。


「あなたの……は、危険……もっと気をつけ……」


 声が途切れるが、「危険」と聞こえて、ちぢこまるおじさん。

 やがて担任の先生が、マスクをしたまま部屋を出ていき、保健の先生が椅子から立ち上がる。おじさんはとっさに、眠っているふりをしたそうだ。

 

「大丈夫? もう身体は動かせそう?」


 おじさんはいかにも、たった今気がついたとばかりに、閉じたまぶたをびくびくと動かしてから、ゆっくり目を開く。先ほどと同じような動きをしつつ、「平気そうです」と告げる。


「そう、よかったわ。けど、念のため。じっとしていて」


 言うやいなや、保健の先生が、一気に掛け布団をはぎ取った。おじさんの思考が停止した一瞬で、先生は大きく鼻から息を吸い込むと、口を開いて、一気におじさん目がけて吹きかけた。その勢いは、ベッドの上にかけていた絵が、ずれ落ちるほどのもの。ちょっとした嵐めいていた。

 布団がすっかり吹き飛ばされたベッドの上で、おじさんはガタガタ震えていたけど、その口を保健の先生が、左手でそっと閉じると共に、自分の口にも、人差し指を立てながら、右手をあてがった。

「内緒にしましょ」の合図。おじさんがコクン、コクンとうなずくと、にっこり笑って手をはなす先生。おじさんは起き上がって、運動前より、身体が軽くなっていることに気づく。まるで丁寧に全身マッサージをされたみたいだった。


「気持ちいいでしょ? けれど、これは副作用も強いの。先生もあまりやりたくない。どうか、惑わされないでね」


 そうつぶやくと、先生は白衣の外ポケットから錠剤の入ったビンを取り出す。よく見たことはないが、クラスのみんなが使っている口臭サプリに、似ている気がした。

 部屋の水道で、紙コップに水を汲み、錠剤を飲み下す先生。その姿を見て、おじさんは急に胸が高鳴るのを感じたのだとか。


 翌日から、教室に漂う口臭サプリの香りは、いっそう強くなった。それだけでなく、体育祭の練習でも、おじさんの好きな土の匂いに負けないほど、バラの香りが辺りに漂っていたらしい。

 そしておじさんは、保健の先生を見かけた日は、胸が痛くなって、一晩中、悶々として過ごしたらしい。そんな日が三年間、ずっと続き、他の女子には見向きもしなかった。

 卒業式の後。二人きりの保健室で告白したけど、想いは届かなかったらしい。

 フラれて思わず、その場で男泣きしたおじさんだけど、保健の先生はそれ以上に大泣きしながら、告げたんだって。


「あの日の息で、君の心を、人生を、狂わせてしまってごめんなさい」と。


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