2 もうひとりの存在
優月は自転車を走らせていた。
自転車のカゴには薬が入った袋が揺れている。
雨上がりの湿った空気が森林浴をしているかのような香りを漂わせている。
途中、白樺並木の下にあるバス停を横目に優月は微笑んだ。
そして、雨上がりの薄いブルーの空を風に向かいながら見上げた。
神様…もし叶うなら、彼にもう一度会わせてください。
優月の瞳に薄いブルーの空が映っていた。
3年前、彼に初めて会った時から神様に何度もお願いしていることだった。
自分の心の中だけに秘めた想い。
高校1年生の時、初めて男性と付き合った。
同い年のサッカー部の彼氏だった。
告白は彼からで優月もずっと気になっていた存在だった。
田舎だから派手な付き合いをした訳ではなかったが、放課後に寄り道をしてアイスクリームを食べたり、夕陽を眺めながら話をしたり…。
なんとなく付き合いを始めたものの一年半と長くなり、卒業を迎えた。
「俺、卒業したら東京に行くんだけど…一緒に来ないか?」
ある日の帰り道、突然そう言われた。
優月は、驚いたけれどその言葉が嬉しかった。
でも優月は、この地を離れられなかった。
離れたくなかった。
生まれ育ったこの街を出てしまうと自分自身が変わってしまう気がして怖かったからだ。
数日後、彼に返事をした。
「ごめんなさい。一緒には行けないの…」
それが彼との別れになった。
絶望した彼の顔は今でも忘れられない。
優月は自分が情けなくなり、何日も泣いていた。
意気地無しの自分が許せなかった。
その別れから優月はもう二度と恋愛はしないと心に決めていた。
この地を離れたくないという理由でもあったが人の心を傷つけるのが怖くなったからだった。
もう誰かを絶望させるのが嫌だった。
そう誓ってから3年後、優月が今まで感じたことがない感情を経験することになった。
あんなに胸が震えるほどの高鳴り、自分の心臓ではないようなあのドキドキ感。
だけどその相手は、どこにいるのかもわからない人。
診療所を出てから森の中の道を下って来ていた。
小鳥が囀る脇道に入ると自転車から降りた。
爽やかな優しい風に吹かれて、木の葉がカサカサと擦れ合う音が耳に心地良い。
さっきまでの雨が嘘みたいな木漏れ日が降り注いでいる。
その時だった。
風と共に美しいピアノの音色が微かに聞こえてきた。
そう、優しい音色が…。
優月は辺りを見回した。
数十本の木々の間に一軒の建物が見える。
白い壁と灰色の窓枠、横に細長い平屋でモダンな造りのお洒落で新しい家だった。
緑が眩しい、陽当たりのいい場所に大きく構えている。
優月は手元の地図を確認した。
父が記した地図の家はその家に間違いなさそうだった。
自転車をついたまま家の入口らしき方へと歩き出した。
ピアノの音色は、その家から聞こえていた。
入口の門で優月は足を止めた。
木で出来た手作りの立て看板にはローマ字で“Koshiba”と彫ってある。
優月は改めてその家を見上げた。
平屋だが立派な造りでこの辺りでは珍しいモダンなデザインの建物だった。
「別荘かな…お金持ちなんだろうなぁ」
優月はそう呟くと肩をすくめて、ゆっくりと入口から続く階段を昇り、玄関の呼鈴を鳴らした。
その呼鈴と共にピアノの音色が途切れた。
建物の中から誰かが玄関の方に歩いてくる音が微かに聞こえる。
鍵を開ける音、そして扉が開いた。
優月は目を疑った。そして息を飲んだ。
ゆっくりと視線を上げたその先には、3年間ずっと会いたいと願い続けた彼、その人が立っていたのだ。
「こんにちは、診療所の方ですね」
彼は優しく微笑みながら軽く会釈しながら挨拶をした。
低音で優しい、落ち着いた大人の男性の声。
優月は頭の中が真っ白になり、言葉を失った。
そして、やっと声を絞り出した。
「…あ、あの、お薬を…お持ちしました」
顔が赤くなっているのが自分でもわかり、恥ずかしくなった。
信じられない。ずっと想い続けた人が目の前にいるなんて。
彼は扉を目一杯開くと優月を中へと誘った。
その紳士的な仕草に優月の心はまた揺れ動いた。
その時だった。
突然、彼が言った。
「あれ…優星ちゃん?」
優月はその名前に驚いた。
優星…。
彼はジッと真剣に優月を見つめて、不思議そうな顔をしている。
優月は顔を下に向けた。
動揺を隠せない優月に彼は慌てて言った。
「人違いかな…よく似ているけど雰囲気も違うし、感じも随分と違う…ごめんなさい」
柔らかい風が優月の栗色の髪を揺らした。
優月は顔を上げて、目の前にいる彼を見つめた。
そして、無理に微笑みながら答えた。
「優星は…双子の姉です。優星をご存知なんですね…」
優月のその言葉に彼は驚いた表情をした。
「なるほど…とても似ている理由がよくわかりました」
彼は優しく微笑んだ。
優月は、双子の姉である優星の話をするのが苦手だった。
理由は、優星のことをあまりよく知らないからだった。
「ちょうど珈琲を入れようと思っていたところなんです…お時間に余裕があれば一緒にどうですか」
彼はまた優しく微笑みながら誘った。
優月は断る理由が見つけられず、玄関へと一歩足を踏み入れた。
「どうぞ」
彼は優月にスリッパを用意し、中へと招き入れた。
家の中はまだ新築の木の香りが漂う、優しい空間だった。
白い壁に木のフローリングの床、彼と同じ優しい色合いの室内。
前を歩く彼は、真っ白のワイシャツをラフに着て、白いジーンズを履いている。
優月が思っていたよりも背が高く感じた。
初めて出会った日の彼の印象とはまた違って見えた。
案内されたリビングは正面が窓一面で外には広いバルコニーがある。
そこからは緑が萌える森が一面に広がり、リビングの中央には黒いグランドピアノが置かれていた。
白いローテーブルに黒いソファ、シンプルな色合いで揃えられた空間は、彼と同じ落ち着いた大人の雰囲気そのものだった。
彼は背後のキッチンで珈琲を用意し始めた。
「どうぞ…そこへ、お掛けください」
彼はソファを手で案内した。
優月は、ゆっくりと腰掛けると広いリビングを見回した。
なんて、お洒落な空間なんだろう。
キッチンで珈琲の用意をする彼をジッと見つめた。
3年も想い待ち続けた人が今、目の前にいるのだ。
夢を見ているのかもしれない。
それとも想い焦がれて、おかしくなり、ついに幻を見てしまっているのかもしれない。
彼は二人分の珈琲を持って、テーブルのところへ来た。
優月の前に珈琲を置いた。
「どうぞ」
彼は短くそう言うと向かい側に腰掛けた。
「ありがとうございます…」
優月は軽く頭を下げると小さな声で言った。
「あ、そうだ。名前…まだ聞いていませんでした」
彼は真っ直ぐに優月を見ながら言った。
優月は視線を合わせられない。
「雨宮優月です…」
小さな声を振り絞った。
「雨宮優月さん…じゃあ、診療所の先生の娘さんですか?」
彼はにっこりと微笑んだ。
その笑顔に優月の心がふんわりと温かくなり、緊張が少し和らいだ。
「はい…そうです」
そう答えた優月は、自分が白衣で来ていたことに気がついた。
こんなことなら、着替えて来ればよかった。
優月の顔が赤くなった。
「私は、小柴柊雪です」
彼が言った。
ずっと知りたかった名前だった。
小柴柊雪…優月の心の中で何度も響いた。
「珍しい…お名前ですね」
遠慮がちに優月は言った。
「でも、とても素敵なお名前です」
優月のその言葉に柊雪は照れ笑いをした。
ソファに腰掛け、膝に手首を乗せて両手の指を組み、少しうつむきながら微笑む柊雪を見て優月の胸がチクリとした。
また、初めてバス停で出会った時と同じように胸の鼓動が激しくなった。
ふと柊雪は視線を優月に戻した。
「優月さんは、優星ちゃんとは正反対ですね」
珈琲を一口飲むと柊雪はカップを置いた。
「優月さんは、随分落ち着いているし…それに優しい雰囲気ですが、優星ちゃんは逆だったから」
再び、柊雪はうつむいた。
優月は、首を横に振るとその言葉にまた顔が赤くなった。
こんな風に男性から褒められたことはなかったし、少なくとも柊雪が自分のことをそう感じてくれている。
嬉しかった。
幸福に満ち溢れた気持ちになった。
柊雪は3年前、雨の降る中バス停で出会ったことを覚えているだろうか。
優月は、ふとそう思った。
自分の心の中にある大切な記憶。
同じ記憶が柊雪の心の中にも生きているのだろうか。
「優星ちゃん、お元気ですか?」
柊雪の言葉に我に返った優月は表情が固まった。
その様子を見て、柊雪は優月の顔を覗き込んだ。
優月は真っ直ぐに柊雪を見つめた。
「優星は…去年の夏、事故で亡くなったんです…」
優月は躊躇いながら言った。
柊雪の顔が凍り付いた。
「…え?亡くなった…まさか」
事実を受け止めることができないという顔だった。
森の木々が風に揺れてざわめいた。
まるで二人の心を掻き乱すかのように。






