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月と星の詩  作者: 星 きなこ
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1 出会い



青く澄み渡る空と芽吹いたばかりの新緑の森。

優しい色合いの森にそよ風が吹き、木々の枝が優しく揺れている。

梢では小鳥が歌い、木洩れ日の中で動物たちが顔を出す。


ここは高原にある小さな街。

都会の喧騒から離れた穏やかで静かなゆったりとした時間が流れる場所。


扉のベルが素敵な音を奏でる小さなパン屋、オープンテラスがあるお洒落なカフェ、まるでおとぎ話に出てくるようなかわいい花屋、いかにも森の中の建物らしいログハウスや石造りの家が森の中に点在している。


そのひとつに小さな診療所がある。

診療所は築60年で二階建ての古い建物で雨や風にさらされた木の壁は年季が入り、手入れが行き届いた緑がいっぱいの庭によく似合っている。

赤い屋根に白い窓枠の出窓。入口の大きな両開きの扉は深い緑色。

石を積み上げた塀に囲まれ、アーチ型の門には薔薇の木が巻き付いていて、玄関へと続く道は曲がりくねった石畳の道になっている。

その傍に随分と古くなってはいるが辛うじて読める木の看板。

『森の診療所』と書いてある。


診療所の一番大きな出窓には鉢植えのデイジーがたくさん咲いている。

その横で彼女は頬杖をついたまま大きな溜め息を吐いた。


彼女は診療所の院長の娘、雨宮優月あめみやゆづき

長い栗色の緩やかなウェーブの髪と色白の肌、丸い大きい瞳に小さい鼻、ふっくらとした唇。

まだ幼さが残る顔立ちだが24歳になる。

白衣を身に纏っているが看護師ではなく診療所の受付をしている。


「雨が降りそうだね」

突然、優月がぽつりと言った。

背後でカルテ整理をしていた看護師の小宮恭子こみやきょうこが出窓の方に来た。

「そうね…先生、その前に往診から帰れるといいんだけど」

恭子は心配そうな面持ちで窓越しに空を見上げた。


小宮恭子は診療所で20年も働いている看護師だ。

年齢は48歳、独身。

綺麗に整ったボブヘアーで目鼻立ちがはっきりとした顔をしている。

診療所の院長の下で唯一、看護師として働く恭子はテキパキと仕事をこなし、怖いものは何もないというような強い女性である。


母親がいない優月にとって恭子は、幼い頃から知る母親のような存在であり、同僚であり、なんでも相談できる良き友のような人だ。


さっきまでの青空は押しやられ、灰色の雨雲が空を占領している。


優月は、ぼんやりと窓越しに空を見つめた。


まもなくして窓にポツポツと雨粒が打ち付けられてきた。

庭の木や花たちにも恵みの雨ともいえる大粒の雨が降り注ぎはじめた。


大地が雨で湿る匂いが漂って来た。


その時、診療所の入口の扉が勢いよく開く音がし、同時に恭子も直ぐに入口へと急いだ。

「先生、大変でしたね。ビショビショじゃないですか!」

恭子の大きな声をぼんやりと聞きながら、優月は過去の記憶を蘇らせていた。


3年前、ちょうど今日と同じ…雨が降りはじめた時のことを思い出していた。


その日、隣町まで外出していた優月は出先に傘を置き忘れて来たことを後悔していた。

駅から家までの道を急いで走っていた。

高原の天気は変わりやすく、優月はどこへ行くにも傘を持ち歩いていた。

その傘を置き忘れて来てしまったのだ。


今にも雨が降り出しそうな灰色の空。

案の定、乾いた地面に水玉模様を描くように大粒の雨が降りはじめた。

優月は走り、少し先の白樺並木の下にある木で造られた小さなバス停に飛び込んだ。


小さなため息を吐いて、優月はハンカチを取り出し額や腕を濡らした雨粒を拭った。


大地が湿る匂いと樹木が湿る匂い。

優月はこの香りが昔から好きだった。


2、3人しか座れない木のベンチが置かれた小さなバス停。

随分と古く、天井の一部からは雨漏りがしている。

壁に開いた小さな穴からはバス停の裏に広がる森の緑が見える。


優月は目の前の道の向こう側に広がる広大な森を見つめた。

葉に落ちた雨粒が集まりそれが大きな雨粒になり、葉の上を滑り落ちて大地に染み込んでいく。

そんな当たり前な動きを見つめながら微笑んだ。


雨は止む気配がない。


しばらくすると誰かが走って来る音が聞こえて来た。

水溜りを蹴る音…徐々に近付くにつれ、その足音の主も同じバス停で雨宿りをすることを悟り、少しだけ端に寄った。


優月はゆっくりと視線を向けた。


視界に現れたのは、長身で身体付きがしっかりした男の人だった。

このバス停や森の景色には似合わない、白いワイシャツに青いネクタイをしている。

年齢は40歳位だろうか。

寂しげで優しい目元、スッと通った高い鼻、落ち着いた雰囲気。

雨に濡れた髪がすごく印象的だった。


何故かその瞬間、優月の胸が急にドキドキと高鳴った。

自分の心臓じゃないみたい…。

どうしたんだろう、私。


彼は小さなバス停へ雨宿りのために入って来た。

優月は身体を小さくした。

手の指先が痺れて、感覚がなくなっていた。


もう一度、彼を見たくて優月は横目で顔をみた。

少し日焼けした肌、とても優しげな瞳、落ち着いた雰囲気が大人の男性を物語っている。


優月は痺れた指でハンカチを握り締めた。


バス停の裏から雨垂れが一定の不思議な音を奏でている。


優月は息を大きく吸った。


「よろしければ…使ってください」

そう言って差し出した、優月の震える手には薄紅色のハンカチがあった。


彼は少し驚いた顔をしたがすぐに優しく微笑んだ。

「ありがとうございます」

そう言うとハンカチを受け取ってくれた。


優月は恥ずかしそうに俯くと嬉しさでいっぱいになった。


なんて優しい笑顔なんだろう。

それにとても耳に心地よい低い声。

優月はチラリと彼を見た。


まだ胸がドキドキしている…。


雨がずっと降っていればいいのに…そうしたら、もっと長くここにいられる。


そんな優月の心とは裏腹に雨脚が弱まってきた。

森の一部では陽が差している。


「天気雨…ですね。雨、結構好きなんです」

彼はそう言うと微笑みながらハンカチを優月に返した。

「助かりました。ありがとうございました」

優月は震える手でハンカチを受け取った。


そして彼の瞳を初めて真っ直ぐ見つめた。


息が止まりそうだった。

時間が止まったような感覚に陥った。

言葉が出てこない。まるで喉に何かが詰まったみたいに苦しい。


彼は雨の様子を伺うとバス停から一歩出た。


「それでは…また」

そう一言残し、優月に軽く会釈をして再び走って行ってしまった。


優月は何も言えないまま、彼が見えなくなるまで後ろ姿を見送った。

胸のドキドキも指先の痺れも足が地面に着いていないような感覚もそこに置き去りにしてしまった。


あの時の雨の音が今でも忘れられない。

彼の顔、声、雰囲気、その時の全てが忘れられない。


あれから3年も経つのに彼には会えていない。

もしかしたら遠くから来た人でたまたまあの瞬間、あの場所で偶然に会っただけかもしれない。


会いたいと何度も願った。もう一度…と何度も思った。

名前も知らない彼に…。


ふと気がつくと出窓の外の雨脚も弱まってきていた。


「優月、お願いがあるんだがね」

院長でもある父の声で我に返った。

相当濡れたのか、タオルを頭から被っている。


森の診療所の院長、そして私の父、雨宮次郎あめみやじろうは今年56歳になる。

この診療所を任されて25年になり、高原の住人に愛される名医である。

名医と言っても医者が一人しかいない場所であるからこその名医ということで父自身は、そそっかしくて、うっかり者で街の人たちとは皆、友人というような朗らかな人柄である。

スタイルはいい方ではないが白髪混じりの短髪に眼鏡とヒゲ、短めの脚がトレードマークになっている。


「往診をしている時に途中で呼び止められてな。診たところ風邪だったんだよ。だから薬を処方したから届けてほしいんだが」

優月は微笑んだ。

「いいわよ、どこまで?」

父の人から頼まれたら断れない、お人好しなところが優月は好きだった。

この診療所兼自宅で二人暮らしのたった一人の家族である。


父は、薬の入った紙袋とメモを優月に渡した。

「新しい建物だ。お洒落でモダンな感じのね」

優月は渡されたメモに書いてある地図を見た。

「そこの小柴さんと言う人に持って行ってくれ」

優月は頷いた。

「地元の人?あまり聞いたことがない苗字だけど…」

優月の問い掛けに父は、微笑んだだけだった。


優月は雨上がりの爽やかな外へ出た。


初夏の雨と共に奇跡が舞い落ちたとも知らずに…








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