設立
「犬好きに悪いやつはいない」と最初に言った人間は誰だったのだろうか。宇喜多は今日もハローワークへ足を運び、職探しをする。半年前まで勤務していた飲料メーカーを解雇された。デスクに愛犬の写真を飾る上司はその日も犬の毛を背広の裾にぶら下げながら私を呼び出した。
「お前、いま何歳だっけ」
「30です」
「30ならまだこれからもあるよな。まあ、働き口に関してはきっと見つかると思うからさ」
上司はぼかしていたが、当時新発売商品の異物混入が発覚してから会社の業績が悪化し解雇という痛ましいイベントが流行りだしていた。
しかしなぜ自分が解雇なのか。自分は営業としての成績は良いわけではなかったが悪くもなかった。それに周囲の同期や先輩でももっと業績の悪い人はいるはずだ。
「なぜ、私なんですか」
「同期の山本はお前よりずっと成績が悪い、しかし彼にはまだ幼い6歳の息子がいる。お前より社歴の長い福元は業績は最悪だが病気をもった娘がいる。体の弱い妻と共働きしながらがんばっているんだよ。宇喜多、わかるだろ」
こういわれてしまうともう宇喜多は反論できなかった。自分には、守るべきものがない。家庭どころか恋人すらいない。家族は幼いころにすでに亡くなっており、親戚も自分が年齢を重ねるにつれてこの世を去っていった。
結局宇喜多は首を縦に振った。相手が要件を聞き入ったとたん、哀れな捨て犬を見つめるかのように眉間にしわを寄せて「いやあ、お前ともっと働きたかったんだけどな」と肩をたたく。
ハローワークに曜日は関係ない。今日も相談窓口には黒ずくめの同志たちが頭を抱えて座っている。それに対し顔なじみを慰めるかのような面持ちで話を聞く職人たち。宇喜多もまた、使用済みの履歴書コピーをもって順番を待つ。
「宇喜多さん」
ふと横を見ると、最近このハローワークで知り合った猪尾がいた。
「あ、どうも」
「最近調子はどうですか」
「まあ、ぼちぼちですね」
少し間があって、猪尾が口を開いた。
「実は、先週から猫を飼い始めたんですよ」
「猫…」
猫を飼い始めた、ということよりも、そんな精神的余裕があることに驚いてしまった。
「もともと実家で猫を飼っていたんですが、うちに来た子がたまたまそっくりで。まあどこにでもいるような三毛猫なんですけどね。」
「そうですか」
無意識のうちに猪尾の背広を見回してしまう。ズボンの裾に猫の毛がついていた。半年前に自分を切った上司の顔が浮かぶ。
「かわいいですよ。会社を首になって嫁と子供にも出ていかれて、もう死んでしまおうかなと何度も思ったんですけど、家族がまたできた感覚です。」
「それはいいですね」
「宇喜多さんもいかがですか。おすすめですよ」
「僕はいいですよ。動物が苦手で」
「そうなんですか」
それを聞くと猪尾は少し残念そうに顔をしかめた。
宇喜多の父は宇喜多が小さいころ、保健所の犬に殺された。
保健所で勤務していた父は、毎日おびただしい数の犬たちを葬り続けた。精神的に追い込まれた父はその後自宅マンションのベランダから身を投じた。
「宇喜多さん」
いやな記憶から逃れるように、名前の聞こえるほうへ向かう。
新品の履歴書と封筒を買い、家に帰る。自宅は家族連れが集う住宅街の隅に建てられた小さなアパート。妻子に家を出られた猪尾とは違い、リストラをされても自分の部屋はたいして変わり映えもない。失ったものといえば、生活のハリくらいだ。
あとどれくらい、今の生活が続くのだろう。もともと自分に自信があるほうではなかったが、面接官の言葉が刃となって心をそぎ落としていき、しまいには体も精神も古木のようにやせ衰えてしまうのではないかとも思った。人を求めているのに人を滅ぼしかねない就職活動のシステムに嫌気がさしてくる。もし今月中に就職先が決まらなかったら、厚生労働省に刃物を持って立て込んでやろうかとも思ったが、こんなものに人生を振り回されるのも嫌だったのですぐにその考えは消えた。
ふと、宇喜多は足を止めた。
音が聞こえる。いや、声だろうか。低くて鈍い音が、たった今宇喜多が歩いている道の横から聞こえてくる。男の声だ。もしかしたら誰かが強姦にあっているのではないか。宇喜多の中で様々な妄想が頭をめぐる。こういう時、宇喜多は無駄に正義感が強かった。小学生の時も、
声のするほうへ向かうと、住宅街の中の公園から聞こえていた。今は夜の何時ごろだろうか。街灯は宇喜多の頭上のもの一本しかついていなかった。外套の光が、着古した背広をうっすらと照らす。
例の声は宇喜多がいるところとは向かいの茂みの奥から聞こえていた。しかし、不思議なことに人影はない。もしかしたら声の主は人的なものではないのかもしれないと、宇喜多は鳥肌が立った。近くにあった頼りない木の枝をつかみ、少しずつ向こうの茂みに近づく。しかしここまでくると好奇心はさらに高まる。日ごろ何も楽しみがなかった宇喜多は不安よりも何か期待の気持ちの方が大きかった。
茂みにたどり着くと、枝葉をつかみ、思いっきり開いた。「わあ!」とか、「誰だ!」とか、何か言ってみた方がいいのかとも思ったが、その考えはあっけに終わってしまった。
そこにいたのはただの犬だった。
宇喜多は一気に顔面蒼白になった。記憶が再びよみがえる。
しかし、暗闇の中でもはっきりとわかるくらい、犬は弱っていた。具合が悪いのか、傷があるのか、犬はうずくまっており、枝をもって飛び込んだ宇喜多に対しても飛びついたりしなかった。
強姦魔を捕まえ何かを得られるのではと、少しでも思った自分が 馬鹿らしく思えた。それでも宇喜多の中で、正義感と恐怖心が葛藤する。
宇喜多は犬のもとに近づいた。犬は戦力も失っているにもかかわらず、宇喜多が近づいたところで少しも怖気づいたりはしなかった。むしろ冷静だった。「なおしてくれるんですか」とでもいうようにこちらをじっと見つめている。持っていた携帯の画面で犬の足元を照らすと、両足首から少し血が出ていた。水飲み場でハンカチを濡らし、犬の血をふき取った。右足の傷が深く止まらない様子だったので、そのままハンカチを足首に巻いた。
自分はいったい何をしているのだろう。父が倒れたあの時の自分がもし今の自分を見たら。なにをやっているんだと叩くか、早く逃げようと泣き喚くか。しかし宇喜多は無我夢中で犬の汚れを水で落とした。なぜこんな夢中になっているのか、自分でもよくわからなかった。光の当たらない場所でうずくまる姿が、今の自分と重なっていたからかもしれない。それでも、この犬は自分とはまるで違って冷静だった。来るかもわからない明日を、平然となるがまま待っている様子だった。
「治療をしてやってるんだから、お礼くらいいってみたらどうだ」
犬の余裕の表情に向かってつぶやいた。ことばは独り言となって闇に消えた。