第二部 プロローグ 全ての発端
チェルトベリー子爵領があるグランドール王国の北西側に、その国、ブロージアはある。
その日、グランドールとブロージアにある国境付近、つまりブロージア王国の南の農地では、農夫が畑仕事に精を出している所だった。春の気配を感じる晩冬とも、初春ともつかない季節、空はまだ冬の名残を残している。農夫は、霜まじりの土を丁寧に耕そうと鍬を握っていた。麦の植え付けの準備をしているのだ。
ざくざくと土を掘り返し、作物が育ちやすいように地面を柔らかく耕す。まだ空気は冷たく、吐き出した息は白く凍る。
男は少しばかり疲労を感じて、ふと作業の手をとめ、鍬を片手に空を見上げた。その視線の遠い先には、高い山脈がそびえ、山の頂にはまだ名残雪が残っている。その山の向こうには、グランドール王国があるのだ。
グランドールと国交は断絶されたのは、男が生まれるよりずっと遙か前、数百年前にまで遡る。その時から、国境付近には、ブロージアの魔術師が張り巡らせた結界がそびえたち、何者も行き来することができないようになっているのだ。
その結界は、薄いシャボン玉のような色を反射しながら、まるでオーロラのように空から地面へと続く。
隣で作業していた農夫の息子も疲れたのか、ふと作業の手をとめ、ぼんやりと結界を眺めている父に話しかけた。
「あの結界、向こうの国から誰も来れないように作ったんだろ?」
「ああ、そうさ」
「いつくらいから、あれはあるんだろ」
今更ながらの質問だったが、結界がそこにあることに慣れきってしまい、息子は考えたこともなかったのだろうと、農夫は思う。
「そうさな、何百年前から、#あれ__・・・__#はあそこにあったさ」
それは何百年も前の時代にまで遡る。人々の間でぽつりぽつりと魔力が使えるものが出始めた頃の話だ。
しかし、魔力と言っても、彼らが使う魔力はほんの些細なものばかりである。蒔の着火のために、ほんの少し炎が出せるとか、その程度であった。
グランドールの教会は、魔力を持つ人間を異端として厳しく弾圧した。さらに、グランドールの教会は、異端を忌み嫌い、何が何でも絶滅しようとグランドールの王族へと働きかけたそうだ。
その頃は、ブロージアとグランドールは、まだ国交があったと農夫は聞く。
ブロージアは極寒の地だ。労働力が常に慢性的に不足していたこともあって、グランドールから逃げてくる人々を快く受け入れていた。処刑を免れた人間の報復を恐れ、グランドールの教会はさらに異端を厳しく追及する。
その手は国を超えて、ブロージアにまで及んだ。もちろん、それをブロージアの王族はそれを激しく拒んだ。他国の教会の権力下に置かれるなど、ブロージアにとっては屈辱的なことだったのだろう。
グランドールは魔力を持つ物を忌み嫌い、ブロージアは貴重な労働力を確保したい。
結局、すったもんだの交渉の結果、二つの国は相反する利益のために、国交を断絶することにしたのである。その後、ブロージアには魔力を持つ人間が突出はじめ、魔道師なるものが存在することになった。
もともと魔力の素養のあるもの同士が、交配した結果なのか、他の原因があるのは不明だが、とにかく今では、ブロージアには、魔力をつかう#呪師__まじないし__#が定着する文化へと発展した。
そんな昔話を農夫は息子に語ってやっていた。
「じゃあ、あの結界はその時からあるんだね」
息子が向けた視線の先、遠く見える山の手前には、前の宮廷魔道師が張った結界がカーテンのように国境線を護っていた。
「そうさな」
「あんなの作るの#大事__おおごと__#さね」
以前、この結界が張り直されたのはいつのことだったか、よく覚えていない。ただ、時折、結界を張り直す作業が必要なことは、農夫も知っていた。
そんなことを考えながら、二人は手を止めて遙か向こうに広がる結界を眺めていたが、それが突然ゆらゆらと揺れ始めた。
「父さん、あの結界、何かおかしくないか?」
息子が怪訝な声を出している。
「ああ、なんか変だな」
そのまま眺めていると、ゆらゆらと揺れていた結界が突然、緩み始め、所々、裂け始めていた。
「・・・結界が消えかかってるなんてことないよな?」
「まさか。そんなことあるめえ」
「いんや、父さん、ほら、だって、あれ・・・」
息子が指さした部分をみると、確かに結界に亀裂が走っていた。
そして、二人が見ていると、結界全体がブルブルと振動しはじめ、そして、瞬く間に ──
── 跡形もなく消えた。
「なんてこった。結界が消えた」
「・・・け、結界が・・・」
息子は腰を抜かすほど驚き、農夫は、大変な事態になったと顔を蒼白にして、息子を振り返る。
「大変だ。村長を呼びにいってくる。お前は家に帰って、母さんと一緒にいろ」
農夫そう言い放って、鍬を放り出して、慌てて村長の家に走った。男が村長の家に向う途中、他の村人も当然ながら異変に気がついていた。
「結界が、結界が消えたぞ」
農夫は村長に結界が消えたことを伝え、村長は、国の文官へと伝書鳩を飛ばす。ブロージアは魔法の国なので、鳩はあっと言う間に、国の中央へと到達した。ブロージア王国の中央省。ブロージア王国の権力の中枢へ。
「あれは・・・緊急連絡用の鳩ではないのか?」
白いローブを着た文官がそれに気づき、鳩をそっと招き入れる。
壮麗な宮廷の窓に見慣れぬ鳩がやってきたことに、文官は眉を顰めながら手紙を取り出した。こんな形で鳩が来たことはよほどの緊急事態か。
文官は、丁寧に折りたたまれた文を開き、素速く目を通す。そして、次の瞬間、血相を変えて、大声で部下を呼んだ。
「結界が消えたそうだ! 至急、緊急部隊を発令しろ。国王と外務大臣に結界が消えたと伝えろ。
のんびりしたブロージアの宮廷もにわかに慌ただしくなり、国をあげての一大事に、文官、武官ともに蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていることを、グランドールの人間達はまだ知らなかった。
◇