1話「理不尽な暴力」
閉じた瞳の向こうの世界が急激に暗く冷え切ったのを感じた。寒さ、ついで臭さも襲ってくる。なんだか得も言われぬ臭いが辺りに充満している。目を開けて見ると、暗い中に枯草の山と簡単な仕切りの向こうに繋がれている馬の数々が目に入った。時間帯は夜であろうか。
どうやら俺は馬小屋に転移したらしい!
やたら寒い。が、この寒さと臭さと、目に入る全ての光景がこれは現実だと訴えている。俺は本当に異世界に来てしまったのだ! いや、異世界かは分からないが転移したことだけは確かだ。
しかし、神だか何だか知らんがあの偉そうな声は何だったのだろうか。
寒さに両腕をさすりながらとりあえず小屋の出口を探す。木戸の簡単な錠を内側から開けて外に出ようとすると、途端に外の冷たい空気が入り込んでいた。冷たい風は首や二の腕辺りを刺すように刺激するので、慌てて扉を閉めた。冬だろうか。雪は積もっていなかったようだが、外も暗くてよく見えない。きっとまだ夜なのだろう。
俺は枯草の山に体を突っ込んで、とりあえずの時間を過ごすことにした。慌てなくともいい。多分、ここは念願の異世界である。
夢と冒険に満ち溢れた憧れの異世界に俺はいるのだ。不安に思うことは何もない。転移した俺に特別な力が開花することだってあるかもしれない。
そう考えると少し安心して、俺は目を閉じた。
*****
「おい!」
体への強い衝撃で目が覚めた。不快感を伴った吐き気と痛みが胃の辺りを中心に広がる。見ると男が2人、横になっている俺の前に立っていた。どちらも粗末な服を着ている。目の前にある男の靴が、俺の胸元を蹴ったらしい。馬小屋には光が差し込んでいる。日は既に高く昇りきっていた。
「お前、勝手に馬小屋に入り込んで、何者だ?」
ははあ、この世界の住人か。話している言葉は明らかに日本語ではなかったが不思議と理解できた。やはりここは異世界で、当然のように言葉の壁も乗り越えていた。
しかし、いきなり蹴りをくれるとはこいつらは何考えてんだ。しかも何やら険悪な雰囲気である。
「俺は……」
自己紹介をしながら立ち上がりかけたのだが、男の一人に足をかけられ、俺はすっ転んだ。尻の辺りを強く打つ。
なにすんだ!と、怒ろうとするとその男が俺の方を顎でしゃくった。
「見ろ、こいつは教会の人間だ」
「本当だ。ご立派な十字をお持ちだ」
十字? 何のことだと自分を顧みると、いつのまにか首から銀色の十字の装飾品が垂れ下がっていた。細いが丈夫そうな糸に通され、意外と重量がある銀の十字だ。どうして俺はこれに今まで気が付かなかったのだろうか。昨夜枯草の山で眠った時にはあったか? いや、なかったような気がする。いつの間に……誰がやったのだろうか。
考えていると、尻もちをついたままの姿勢の俺の腹部に、突然強烈な蹴りが加えられた。鋭い痛みに思わず腹を抱える。一瞬、息が詰まった。
「お前ら教会のせいで、こっちは散々な生活だ」
丸まった俺の背に、更に踵が落とされた。背骨の辺りに鈍い痛みが広がる。なんだこれは? これが、異世界?
「物乞いの信者か? いいご身分だな、お得意の神様は助けてくれないのか?」
首、頭、頬と次々と男の蹴りが加わる。口の中に鉄っぽい味が広がり、俺は男の蹴りから逃れたくて、思わず丸まった姿勢のまま頭を抱えた。
「お前もやっとけ! こいつは『アレ』を使えないらしい。こんなチャンス滅多にないぞ!」
「でも、後でヤバいんじゃ?」
「教会の奴だぞ? 今やらないでいつやるんだ! ここで殺しちまえばいい!!」
そんな空恐ろしい言葉が聞こえる。あまりの恐怖に身が竦んで動けない。こいつらは何を言っているんだ? どうして俺は殴られるんだ???
生々しい痛みが全身を襲い、当然俺の秘められた力が目覚めるなどと言うこともなかった。ただ、体験したこともなかった暴力が襲ってくる。
今度は、首から下げられていた十字の装飾品ごと胸元を蹴られた。十字が胸に食い込んで焼け付くような痛みを覚えた。さらにこの時からもう一人の男も攻撃に参加し始めた。
あちこちが蹴られる。頬を蹴られたとき、奥歯が何本か外れた。指が踏み潰されて焼けるような痛みが襲った。なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ! 誰のせいだだこれは! 俺じゃない! あのクソみたいな声がここに送り込んだせいだ! クソ! クソ!!!
途中から蹴りだけでなく、鉄の棒のようなものが持ち出され本格的なリンチが始まった。頭を叩かれた時には視界が歪んだ。顔面を蹴られた時に鼻の骨が折れて、垂れ流れる大量の血により鼻での呼吸ができなくなった。口でひゅーひゅー息をしていると、腹を蹴られて呼吸が詰まった。頭が割れるように痛い。
違う! 違う! 俺はお前らのことなんか知らない!
「何が違うだ! そんな十字を見せびらかしておきながら!」
「もっと泣けよ! 苦しめ! 死ね! 屑どもが!! 」
「お前たちは選ばれた人間なんだろ!? ほら、祈ってみろよ。いつもみたいに!」
俺のすすり泣きを耳にして、男たちはますます激昂したようだった。鉄棒の先端をヤリのように振り下ろして何度もふくらはぎを刺され、俺はそのたびにあまりの痛みに悲鳴をあげて気を失いかけた。
断続的に意識を失い、悲鳴をあげる気力すらなくなってくると、ようやく男たちはリンチをとりやめた。体を雑に運ばれると、どこか暗くてかび臭い、牢のような空間に投げ捨てられた。牢にはまた枯草の山が積まれていた。やがて、扉が閉められ、馬の嘶きと共に揺れ始める。牢が揺れるなんておかしい。ここはどこだろう。
朦朧とする意識にまともな思考もできなかった。俺は、こんな世界に俺を放り込んだ闇の声の主を恨んだ。
*****
体が地面に叩きつけられた衝撃で再び目を覚ました。どうやら俺は捨てられたらしい。肺の辺りを打って、その衝撃で体中の痛みが呼応して動きだす。遠ざかる馬車が視界の端に映る。そうか、俺は牢ではなく馬車の荷台に運ばれてこの場所に捨てられたのか。遠ざかる馬の蹄と車輪の音にひどく安らぎを覚えた。
またリンチが始まらなくてよかった。
目の前に広がる土はじめじめと湿気ていて、丈の長い雑草があちこちに生い茂っている。悲鳴のような鳥の鳴き声が耳に聞こえる。森だろうか。木々の葉が空を覆い尽くし、辺りは暗く日光は地面に横たわる俺の元まで届いてはこない。
寒い。何分経ったか、体は以前として釘を刺されたような痛みをあちこちから発し、もう腕の一本も動かすのが苦痛であった。こんな得たいの知れない森に捨てられてしまえば、死ぬのは時間の問題だろう。
どうして俺がこんな目に遭うのだろうか。どうして俺が……
気を失う寸前、首から下げられた十字が光った……ような気がする。
――――
『先生! どうしてですか! これだけあれば何人の貧しい人達が救えるでしょう! この女がしたことは……! 先生!』
『――彼女は私のためにしてくれた。あなたたちはいつでも彼らと一緒にいる。だが私とは、いつも一緒にいられるわけではない。いつまでも一緒にいられるわけではない――』
なにが先生だ! 結局この人はいつも訳の分からないことを言って煙に巻くだけだ。あの時もあの時も! 俺達を騙していたんだ!
そうさ、騙したんだ。だが誰も気づいてない。知ってるのは俺だけだ。こいつは俺達を騙したんだ!