護りし者の役目と証
真っ暗な灯りのない部屋の隅で、リタは右手を胸に抱いて止まる事のない涙を流していた。
ラキュバスが謁見の間から退出した後、リタはイザベラに助けのような救いの手を求めて、右手を差し出した。
だが、その手を握られる事はなく、ほぼ反射的にイザベラから手を払い除けられ、宙を彷徨った。
拒絶にも似たイザベラの視線は、リタに向けられる事はなくスッとそらされた瞳には溢れて止まらない涙が線を作っていた。
イザベラに払い除けられた右手はジンジンと熱を持っている。
痛みはとうの昔になくなっている筈なのに、右手の痛みは引かなかった。
母を呼べば呼ぶ程に、振り返らなくなったイザベラの背中を思い出す。謁見の間にいる全ての人間から向けられる視線はこれまでに感じた事のない冷たさを持ち、リタに容赦なく突き刺さった。
後方に控えていたシュアに支えられ、何とか部屋までは帰って来たがそれから暫くして、外が騒がしくなった。
リタが王子ではなかった事が、王宮内に広がったのだろう。
どの国のどの時代でも、他人の悪い噂など好奇の目にも耳にも入る。
リタはただぼんやりと起こった出来事に付いていかない頭でこれからの事を考えていた。
カコッと部屋の隅で何かが抜ける音がした。
壁から僅かに漏れる光を、リタは滲む視界に写した。
「…王子。」
「シュ、ア?」
「…良くお聞き下さい、時間がございません。」
部屋の暗闇よりも黒い身なりで、いつもそばにいたシュアがいつもとは違う、ピリピリとした空気を纏ってリタの前に現れた。
「もうじき、あなたは牢獄へ移されます。これは先程、元老院より通達され、外もその様に取り計らっております。このままでは、貴方は捕まり、打ち首となる事は逃れられない。王子、私は貴方が生きるために…生き残る為に全てをかけてお守り致します。どうか、苦しい今を考えず私の背を追いかけて下さい。…それが今、貴方に出来る王子としての最後の鍛錬です。」
「…何を…僕が、打ち首?……僕は王子だぞ⁈ オルタリアの第一皇子で父上様の後を任される為に生まれて来た…僕はっ」
パシンっと、乾いた音が部屋に響いた。
リタの目から流れていた涙は途端に止まり、たった今起きた出来事に思考もピタリと止まった。
「…申し訳ありません。ですが、今の城内には貴方を敵とみなす者しかおりません。その証拠に、ここに戻ってから誰一人として貴方の側には居なかったでしょう…それが今の状態なのです。…王子、選択肢は2つ。ここで死ぬか、ここから生き延びるか…2つに1つです。」
すくっと立ち上がったシュアは、上からリタを見下ろし、バサリと黒いローブを投げて寄越した。
リタは、投げられたローブの重みをズシリと感じたが、それを持ち上げるにはまだ現実が受け入れられずにいた。
シュアは動かないリタに痺れを切らした様に、ぽっかりと穴の空いた壁に向かって体を動かした。
「あっ」
ほぼ反射だった。むしろ本能だろう。
リタは置いていかれる事に恐怖を感じてローブを持って立ち上がっていた。
薄暗い部屋の中で白金の綺麗な髪だけがハッキリと認識できる。
振り返ったシュアは、落ち着いたらリタの髪の毛の色をどうにかしなければ…とぼんやりと考えていた。
「王子、こちらへ。ローブを目深に被って、下を向いていて下さい。」
「この階段は…」
「反乱の多かった時代に、先々代の国王が作られた通路です。今は使われておりません。その頃の文献は何者かにより破棄されておりました…それが功を奏した。といった所ですね。」
ボソボソとしたシュアとリタの声と、階段を下りる音が微かに反響している。
音の具合からするとかなり深い様だ。
「…どこまで続くん」
「っし!」
ピリリと空気が張り詰める。
この階段を下り始めてから、もう数回こんな感じで立ち止まっている。
リタには聞こえない、微かな足音が壁の向こうから聞こえているのだ。
「……地下深くの埋葬階にまで達していると聞き及んでおります。ただ、そこまで降りてしまうと外に出る為に一度王宮内の通路へ戻らねばならなくなります。途中で水路へ通じる扉に出ますので、そこまで向かいます。」
シュアは先程より声を小さくして、囁く様にリタへ伝えると後はひたすらに下へと続く階段を下った。
階段の幅は、人が一人通れる程度のものだ。
ここへ鎧を身に付けた衛兵たちは入っては来れないだろう。この通路はそういう風に造られているのだ。
王家の者とその側近のみが緊急時に命の危機から脱するための後戻りの出来ない最後の希望の通路として、城の一部になっめいる。
リタは仄暗く続く階段の先をぼんやりと見つめながらシュアの後を着いて歩いた。
どれくらいの時間降り続けたのか。
シュアが後方のリタに手を伸ばし、歩みを止める様促した。
「王子、少し身を屈めて。」
有無を言わせぬその指示に、リタは素直に体を折り曲げて背中を丸めた。
キシキシ、と木の軋む音がした後、ギィーっと扉が開く音がした。と同時だっただろう。
ビュッと空気を切る音がリタとシュアの頭の上を掠めた。
リタは生唾を飲み込んで視線をすぐ上、頭の上で風の音をさせた筈のものを視界に移した。
「こ、れは…」
「見ての通り、矢です。この通路は王家の血筋とその方々をお護りするごく僅かな者にのみ知らされる通路です。ですが、それ以外の者が通らない、という保証はどこにも無いのです…ですから、この通路を知る者の証としてこの仕掛けがあるのです。よかったですね、私がこの通路を知っていて。」
シュアは青い顔のリタに、ニヤリと笑って皮肉を一つ言ってみせた。
そこに居たのはいつものシュアだった。
リタを護りつつも、突拍子も無いイタズラや失敗をしてしまうリタに、ほんの少しの皮肉をかましてリタの負けず嫌いな性格をうまく操る。
シュアノーマとはそういう男だ。
リタは今のシュアに先程よりも確かな安心を抱いたのか、微かに口角を上げた。
だが、いつもの挑戦的でお調子者のリタはまだ見えずにいた。
仄暗く続くこの階段の先、出た事見た事もない世界で何がリタを待っているのか。