溺れた男
「誘ってきたのはね、あの女の方なんですよ」
真夜中過ぎ、年季の入った屋台のカウンターに突っ伏して、その男は訊かれてもいないのに喋りだした。
小さな丸イスに浅く腰掛けて、居眠りをする学生のようにカウンターに突っ伏したまま、男は器用にちくわぶを箸でつまんでは離していた。さっきから一口も食べていない。
「その、すごく……いい女だったんですよ……」
くたびれたスーツを着た男は、上目遣いにこちらを見遣った。俺は「はぁ」と気のない返事をして、おでん種を菜箸でつついた。女の話をしたがる客は多い。そしてそれは概ね妄想や見栄で飾り立てた、下らない話だった。
だが、どんな客でもいないよりはマシだ。誰か一人でも客がいると、他の客が寄ってくるからだ。もっとも今夜は随分とまぁ、シケた福の神のようだが。
男は箸先でちくわぶを穿ちながら、ぼそぼそと呟いた。
「すごく……あの、美人さんでね。肌とかも真っ白なんですよ。真っ黒い眼でね、私をジッと見つめるんです。まるで吸い込まれそうな綺麗な眼でね、彼女がにこって笑うんですよ。あれは……本当に綺麗だった……」
男はぼんやりと虚空を見上げた。元々は目立って良くも悪くもない容姿だったろうが、今や危うげな眼の下のクマは濃く、無精ひげは得体の知れないもので汚れていた。スーツは着ているものの、とてもサラリーマンには見えない。男は虚空を見上げたまま、いやらしい笑みの形に唇を開いた。
「まるで夢みたいでしたよ。彼女の方からね、『いいよ』って言ってくれたんです。はぁ……驚きましたよ。今まで、そんなことを言ってくれた子はいませんでしたから。はじめは美人局じゃないかって疑ったくらいですよ。でもね……」
ひっ、と男が引き攣れた声で笑った。
「ここだけの話。ええ、内緒の話ですけどね。そんな綺麗な子がね、その、なんです……布団にくるまって言うんですよ。裸のまんまでね、私にね、『ねぇ貴男、きっとまた来て下さる?』ってね。ああ、その……恥ずかしそうな横顔がね、もうたまらないんですよ。
私はね、同じ女のところには二度と行かねぇって決めてたんですけどね。あまりにね、その……ああ、そうなんです。あまりにも彼女がね、だから、その……つい、破っちまったんですよ。
今思えば、そもそもそれがその、良くなかったんです」
男はコップ酒に口につけたが、上手く飲めずにカウンターに溢した。「ああ、すいません」と男は呟くと、慌ててスーツのポケットからしわくちゃのハンカチを取り出し、丁寧にカウンターを拭いた。
最後の一滴の痕跡が消えるまで、男はカウンターを擦っていた。その几帳面さは綺麗好きというよりも、まるで酒を惜しんでいるかのようで、俺には酷く下卑た吝嗇くさい所作に思えた。
男は両手で包み込むようにコップ酒を持ち上げ、音を立てて酒を啜った。そして、濡れた唇に薄い笑みを浮かべた。
「次の晩にね、もう……その、早速行きましたよ。へへ……その、なんです、これがまた嬉しそうに出迎えてくれるんですよ。美人さんがね、細い腕で私の首にきゅっと抱きついてくるんですよ。もちろん、その……へへ、下着なんてナシでね。スケスケの薄いのを一枚こっきり、身につけたっていうほども隠れてなくってね。へへへ……うふ、そいつがきゅってしてくるんですよ。ね。ふふ……イイでしょう?」
なんだ商売女の話か、と俺は内心思っていた。そりゃ商売女なら美人も多いだろうし、こんな冴えない親父相手にだって愛想くらい振りまくだろう。バカな親父だ、と俺は半ば興味を失っていた。が、その酔客は、帰る気も黙る気もないらしい。
男は震える手でグラスを掲げ、俺に言った。
「お兄さん、もう一杯注いでくれませんか?ね」
親父の顔は青白く、酔っていないようにもみえた。が、半ば焦点の合わない視線と、ふらふらした手元から、相当酔っているようにも見えた。顔に出ないタチなのだろうと思いながら、俺は言った。
「今夜はもう、そろそろ……体に悪いですよ」
男は困ったような泣きそうな顔で笑った。まるで悪戯を咎められた少年のような顔だった。が、そんな表情はほんの一瞬で立ち消えて、時の垢にまみれた厚顔な親父の顔になる。
「ええ……ああ、そんな野暮なことはね、言わないでくださいよ。その……ね、お願いしますよ。もう一杯だけ、ね?」
ねっとりとした声で媚びてくる小汚い親父に、仕方なく、俺は水で薄めた焼酎を注いでやった。こんな男でも客は客だ、と自分に言い聞かせながら、早く帰れと心の中で罵倒する。
「へへっ……すいませんねぇ……」
男は短く礼を言い、グラスに吸い付いた。ズズッといやらしい音を立て、酒を吸う。また溢しては、ハンカチで擦る。
男は酒臭い息を吐きながら、顔を上げた。
「それでね……その、彼女の話なんですけどね。彼女の方からね、毎晩求めてくるんですよ。私はもう可愛くて可愛くて仕方なくって。ええ、だって、その、なんです……痛いじゃアないですか。きっと、ええ、いや……私は知りませんけどね。でも、きっと痛いと思うんです。私の、結構太いんですよ。痛がって暴れる女だって多いんです。直におとなしくなるにしても、最初はみんな痛そうで、かわいそうで……だからね、でもね、その……彼女は一言も痛いって言わないんですよ。ポロポロって涙をこぼしながらね、私をきゅうって抱きしめるんですよ。なんとまぁ、いじらしいじゃないですか、私はもう、もう、駄目ですよ……」
バカか、と俺は思った。生娘でもあるまいし、痛がる商売女なんているわけがない。さてはこの親父、よっぽど“下手”なんじゃないか、と俺は心の中でだけせせら笑う。
親父は嬉しそうに酒を舐めながら、続けた。
「彼女はね、本当によかった……。あんなに気持ちのいい思いをさせてもらったことはない。その……彼女はね、もっともっとって、せがんでくれるんですよ。いくら若いからって限度ってモンを知らないんだから、へへ……困ったものです。あんまりにも、その、ね……彼女がさ、“おねだり”するんで、私もついつい調子に乗ってしまうんですよ。もう、死んじまうんじゃないかって焦ったことも度々でね。うふふ。……しかし、やっぱり、なんです、その……女ってのはいいもんですね。あったかくって柔らかくって、情が深い。やっぱりああいうのは情がなきゃアいけませんよ。ね、お兄さん?そうでしょう?ふふ……まぁ、あんたには、わからないでしょうけどねぇ」
そう言って、男は俺を見た。揶揄うような澱んだ眼の奥に、陰鬱な闇が燻っていた。俺だって女くらい知っている。バカにしているのかと俺が口を開こうとした瞬間、男はひっひっと嗤った。
「わかるわけがねぇ……。兄ちゃんはね、知らないんですよ。本当の女の味ってヤツをね」
そう言って、男は汚れた指先でグラスを擦りながら酒を啜った。商売女に入れ込んで、こんなところで若造相手に自慢をしている。俺は、この男が哀れに思えてきた。
男はしばらく「女の味」を思い出しているかのような恍惚とした表情をしていたが、やがてグラスを置くと、再びカウンターに突っ伏してボヤきだした。
「ええ、私が悪いんですよ……。その、私が彼女のことをちゃんと考えてやらなかったから、駄目なんです。あのこがどんなに縋ってきたって、ねだってきたって、私が拒まなきゃアならなかったんですよ。そう、そうなんです……私があのこの体のことを考えてやらなきゃならなかったのに。私が……私の方が夢中になって、毎晩あのこを――……ぅ…うぅ……」
男は突然泣き出した。これは流石にやめてほしい。こんな親父が背中を丸めて泣いていたら、寄ってきた客も逃げてしまう。
夜よりも朝に近い時間、今更立ち寄る客も少ないかもしれないが、それでも期待を抱きたくなるのが自営業の性というものだ。なんとか男を宥めようと俺が口を開いた瞬間、男が顔を上げた。
「違う。違うんだ。私は悪くないんですよ。ええ、ええ、私はやめようとしたんです。その……ええ、信じてくれなくたっていいんですけども、でも、これが、その……本当のところなんですよ。
あのこがだんだん痩せていって、白い肌が青くなってって……指先なんて骨だけみたいになってって。だからね、あの、私はやめようって言ったんです。ね、なのに、あのこは私を欲しがるんだ。もっともっとって……その、ねだるんですよ。それがどうにも可愛くってね、ダメだ、ダメだと思っていたのに……あのこは、痩せても、弱っても、あったかかったんです。その、だから夢中になってしまったんです。仕方が無いんです。私は温もりに飢えてた。そこを、あのこは、あの女は付けこんできたに違いないんです。ええ、そうなんです、全部、あの女が悪いんですよ」
男は俺の方を見ていたが、俺のことは見てなかった。こいつはヤバい、とさすがの俺も思い始めていた。時計を見ると、もうすぐ夜が明ける時間だ。俺は早々に店仕舞をしようと心に決めた。
「お客さん。ね、呑み過ぎですよ。そろそろ――」
「わかってるよ」
あっさりと男は言った。ほっとしたのも束の間、男の口から立て板を流れる酒のように、言葉が溢れ出した。
「兄ちゃんだって、俺が悪いってんだろ?そうさ、悪いのは俺だよ。あいつは悪くない。あいつを殺したのは俺だ。そうだ。殺したんだ。俺が、俺が、あいつの体のことをちゃんと考えていてやれば……俺がもっと、自分を抑えられていたら良かったんだ」
男はぶつぶつと呟きながら、虚空を見つめ続けていた。男の話を聞く限り、どうやら女は既に死んでしまったらしい。おそらくそれで、男は今夜ヤケ酒を煽っているのだろう。
「だって、仕方がない。仕方がないじゃアないか。あいつは俺に惚れてた。間違いない。俺に惚れてたんだ。心の底から俺に惚れてた!だから、あいつは俺に命をよこしたんだ。嘘じゃない。俺が殺したんじゃない。俺は殺してないんだ。あいつが俺に命をくれたんだ。俺に惚れてたから、そうだ。俺はただ、あいつの言うとおりにもらってやっただけなんだ」
男はおそらく、病気か何かで弱っていく女を毎晩犯し続けたのだろう。確かにそれは女の命を縮めたかもしれないが、男の言葉通り、それが女の望みだったのなら仕方がないのではないだろうか。生活費が必要だったのかもしれないし、と俺は冷淡に思う。
「俺はただ、あいつの言うとおりにしただけなんだ。俺は全部、いつだって、あいつの言うがままにしてやっていた。なのに、なんだ、あいつは。あいつはなんだって、俺を苦しめる?こんなにも追い詰める?こんなにも……俺は愛してるっていうのに。そうだ、俺はあの女を愛していた。惚れちまった。なのに、なのに……なんで……もうだめだ……だめなんだ……俺も死ぬ。このまま、俺も死ぬ」
それだけは勘弁願いたいと心の中で思いながら、俺は思い切り溜息をついた。悔恨にまみれたこの男はどうせ気付きはしないだろう。
俺は不愉快なこの男を無視して、店仕舞いの準備を始めた。男は相変わらず、おでんには口をつけずに、酒ばかりを啜っている。ずるずると下卑た音を立てながら。
「なぁ……あいつは幸せだったんだろうか。俺に抱かれて、俺に殺されて。俺を、俺をこんな風にして、幸せだっていうんだろうか……。あいつは俺に惚れていたんだ。俺はもう、あいつなしじゃあ生きていけねぇんだ。そうさせたのはあの女だ。あの女が悪いんだ。ああそうだ、あいつは端から俺をはめるつもりだったんだ。そうに違ぇねぇ。あいつだ。あいつが悪いんだ」
延々と繰り返される男の譫言を、俺は最早聞く気もなかった。ただ早く帰らないだろうかと思いながら、前客の汚した皿をバケツで濯いでいた。澱んだ水に、昆布の切れ端が浮かんでいた。
「あの女のせいで、俺は何も食えねぇ。このままじゃ、死んじまう。飢えて、飢えて、死んじまう。なぁ、兄ちゃん……腹減ったよ。俺はもう、腹が減って仕方が無いんだ……」
時計を見ると、もうだいぶいい時間だった。東の空が白み始めている。今夜はこの親父のおかげでさっぱり売れなかった。まったく、とんだ厄病神だ。
俺はもう一度、溜息をついた。
「ああ、腹が減った。腹が……腹が……ああ、これがお前の望みだったのかい?ああ、そうか。そうだね。お前は言っていたね……『私以外の女の血は吸わないで』って。そうかい。そういうことかい。お生憎様だ、もう、吸う気にもならねぇよ。どうにもマズくってなぁ……。俺は、お前さん以外だめだ……もうだめなんだ……俺が欲しいのはお前さんの血だけだよ。だから――」
ゆっくりと日の光が射し込んでくる。俺は洗い物用のバケツを土の上に下ろすと、景気よく中身をぶちまけてやった。屋台の下から、男の裾が少しだけ濡れるのが見えた。いい気味だ。
「お客さん、店仕舞いだよ」
ようやく言えた一言に俺は満足しながら、男の方を見遣った。が、男の姿は既になかった。
まさか食い逃げか、とも思ったが、それにしては逃げ足が速すぎる。俺は呆然としながら、男が座っていた方を覗き込んだ。
朝日が照らされた丸イスの上に、灰まみれのスーツが掛かっていた。それは確かに親父が着ていたものに酷く似ていた。
――このまま、俺も死ぬ。
親父の台詞を思い出して、ぞっとした。
一式の衣類と一握の灰だけを残して消えた。あの男は一体何者だったのだろう。俺は男が話していた内容を思い出そうとして、やめた。そこに答えがある気がしたからだ。
俺は丸イスから十分な距離を取った上で、爪先でスーツを蹴落とした。
ぱっと灰が舞い散る。埃にも似た、さらさらとした灰だ。朝日に照らされて、些細な風にさらわれて――それは跡形もなく、消えた。ほんの一瞬、美しいと思ってしまった。俺は自分を恥じた。
まったく、莫迦莫迦しい。まったく、これだから真夜中過ぎの客にはロクなのがいない。
以来、俺は店仕舞いの時間を早めることにした。
いかがでしたでしょうか。
当作品は、LUNASEAの Vampire's Talkと
太宰治の駆込み訴えへのオマージュとして綴りました。
オチになってしまうので、後書きで書かせていただきましたが、
お気づきの方はいらっしゃいましたでしょうか^^;