202.芙蓉
暗い空間を落ちて行く。
右近が乗っているだろう、白い石の裏側は梵字らしきものが、渦を巻くようにびっしり彫り込まれていた。結界の中は、その石を黒い霧が押し上げようとしているのか、その石の渦に黒い霧がうねらされているのか、どちらか判別できない光景が広がっていた。だが今は、それもすでに視界にはない。
『浮遊のサイハイブーツ』に装備替えしようかと思ったところで、そもそも『浮遊』は種族特性にあることを思い出す。髪に埋もれていた羽根を広げると、ばたばたと音を立てていたローブの裾もおさまり、落下が緩やかになる。
マップに念のためマーキング。
ステータスのチェック。
10%の能力の低下。
HPMPは特に変化無し。
酒呑が昼の世界で食らったような種類のダメージ――さすがにもっと軽いだろうが――を予想していたので、能力の低下とスリップダメージが入るのかと思っていたのだが、どうやらスリップダメージは無いらしい。私の場合、恐ろしいことに自然回復量が上回っているのかもしれんが。
尖った針のような石がところどころ突き出る灰色の地面に降り、『結界符』を使用。思った通りステータスの低下がなくなった。もっとも低レベルの【結界】なせいで、敵の攻撃を受けると消えてしまうという、戦闘中の効果は期待できそうにもないものだ。
「紅梅、酒呑、紅葉」
「御前に」
「応よ」
「あれ、うれしや。ぬしさまのおそばに」
『閻魔帳』を出し、名を呼べばすぐに三人が現れる。
「九尾がいる場所はどこか知っていたら教えて欲しい」
「こっから真っ直ぐ北の芙蓉宮が根城だぜ」
酒呑が正面を指差す。
「ホムラ様、まさか行かれるおつもりですか?」
「ああ」
「その【結界】では【傾国】は防げますまい」
紅梅の言葉に、【結界】を上げて行けばいずれは【傾国】を防ぐものも入手可能だと理解する。たぶんその結界の符を使っての攻略が正規の方法なのだろう。
「試したいこともあってな」
【眼】が【眼】で防げるように、【傾国】同士をぶつけて防げるか確かめるつもりだ。
「ぬしさま、男どもが惹かれるは【傾国】のせい。狐は見るほどの価値もなき容姿、わざわざ行くことはございますまい」
紅葉は九尾を見たことがある様子。九尾の見た目はもふもふ的に、たいそう気になるが、今回はそうではない。それが目的ではない。違う。違いますよ?
「式に【傾国】は有効か?」
召喚獣には私の【傾国】は効かないと言われたのだが、式はどうだろう? 白は召喚獣だからではなく単純にMIDが高いからな気もそこはかとなく。
「主人持ちは他の魅了系・従属系のスキルに多少強くなりますが、残念ながら九尾を前に正気でいられる自信はありません」
「あー。気合いでなんとかすると言いてぇが、紅梅より俺のほうがやべぇな」
酒呑がバツが悪そうに頬を掻く。
「ほほ、男どもの頼りにならぬことよ」
いや、むしろ異性の紅葉がかかりまくりそうで怖いのだが。
「白峯様すら狂われた。九尾の前に多くを相手にすることでしょう。それまではお供を」
黙礼を送ってくる紅梅。白峯、雨月物語か。また大物をモデルに……。そのものずばりな名前を出さないのは日本ではなく、『扶桑』だからか。単に運営が恐れ多いと思ってるだけだったりして。
「おう! 俺がそっち方面で危ないと感じたら強制帰還させてくれ。自覚がねぇらしいからな」
戦っている最中にかかっているかどうか、見分けるのは難易度が高そうだ。
「その前に、三人に契約者の撒き散らす魅了とか精神操作系の効果は有効か? もしくはかかった後に、聖水的なものをかぶって、祈祷やら聖句を唱えられるのは平気か?」
九尾の【傾国】の話題を修正する。
「契約による束縛が優先されます。名前を呼んで個別にかけるなどしない限り、上書き・重複は起こりません。ただ、敵から【魅了】された場合、不本意ながら敵に回ります。先ほども申し上げましたが、九尾を前に正気でいる自信は……」
「水ぶっかけられるのはいいけど、祈祷は勘弁だな」
「ほほ、男どもの情けなきことよ。ですがぬしさまも男、好奇心はあぶのうございますよ?」
何か会話が軽くループしかかっているが、要するに三人は九尾の元に行くことを遠回しに止めているらしい。
「戻ったら、かかったかどうかに係わらず、聖水かぶって祈祷を受けるさ」
友人をあんな部屋に閉じ込めるのは御免被る。右近に、国を見捨てるか、自分を捨てるかの二択しかないなら、選択肢を増やすだけだ。
白い炎が揺らめく『アシャ白炎の仮面』をかぶり、【空翔け】【空中移動】【空中行動】。誰も見ている者がいないのをいいことに、障害物がない最短距離を行く。真っ黒な霧の覆う、夜の世界、空と呼べるかどうかもわからんが。
スピードの割に、ローブの裾は優雅にたなびく。顔も額全開にならずに済んでいる、体の周りはある程度、大気から保護されているようだ。
「ぬおおおお!!」
聞こえてきた雄叫びに、下を見れば酒呑が走っている。手をついているわけではないが、頭を低く、前傾姿勢で走る酒呑は、足の爪が地面を削るのも相まって、一個の獣が走っているようだ。
紅梅と紅葉はと、後方に視線を移せば、こちらは真剣な顔をして飛んでいる。少しスピードを落とすべきだろうか。
酒呑が、地を這う鬼を蹴散らして走っている。空にも敵は出るが、レベル上げで大量に作った『符』をばら撒き、倒れる、倒れないに関わらずスピードを緩めず後にする。INTが乗らないので魔法のレベル相応のダメージしか与えられない。代わりに大量にばらまいているが。
【符術師】や【アイテムマスター】など、相応の職業が使用するのを別として、消耗品の道具の効果は使うもののステータスに左右されない。そこがいいところでもあり、魔法が封じられた状態の今は歯がゆいところでもある。
飛ぶことしばし、湖に平屋を連ねた豪邸いや、内裏が見えてきた。
「ぬしさま、あそこが芙蓉宮、九尾の住まう場所です」
「ホムラ様、決まった順で門をくぐらねば、九尾のいる場所にはたどり着けません」
「ああ」
紅葉と紅梅の案内に、小さく返事をして芙蓉宮の門の前に降りると、すぐに酒呑も隣に並んだ。大きな朱塗りの扉に触れると門が開く。灰と黒ばかりの色を見てきた目には、なお一層鮮やかに見える。
中は、門から正面の大きな建物まで、白砂の道があるのみで、後は水に満たされている。そこここに蓮の花の浮かぶ水が、朱く塗られた柱や白壁にぶつかり、小さな波紋を作っている。
「ああ、芙蓉は蓮のことか」
ハイビスカスみたいな芙蓉の方を思い浮かべていたので大分イメージが違った。芙蓉は蓮の古い呼び方でもある。白に先だけうっすらとピンクがかった蓮が、その葉に負けない数、浮いている。
三千年を経たる狐、藻草をかぶりて北斗を拝し、美女と化する、だったか。気をつけてみればタヌキモの黄色や、紫、白い花が蓮の葉の間から小さく顔を出している。どうやらこの宮は九尾のためのもので間違いがないようだ。それにしても何故タヌキモを選んだのか。
時々水音のする以外、静かな道を歩く。正面のデカイ建物は太極殿だろうか、紫宸殿だろうか。右近の橘、左近の桜があるからには紫宸殿のほうか。建物へと上がる階段の横に植えられた、橘と桜を見て右近と左近を思い出す。そういえば、左近からもらった刀のスキルは【紅葉錦】だった、【桜】でなくてよかったのだろうか。
磨き抜かれた顔が映る板の間に遠慮して、引き続き浮遊したままだ。酒呑はと見ると、一向に気にした様子はなく、カシカシと床に爪で傷をつけながら歩いている。
「誰じゃ、ワシの顔を踏むやつは。ワシの体に傷をつけるやからは」
声が聞こえたかと思うと、部屋の中央の床が盛り上がり、人の形を作る。
「おう、おう。顔に引っかき傷ができたぞ」
自分の顔をつるりと撫でる。
「この部屋はワシじゃ、ワシはこの部屋じゃ。招かれんものを通しはせんぞ」
現れた敵の言動からして、顔の傷は酒呑の爪の痕だろう。あれか、この部屋に足を踏み入れる前に、魔法でも放り込んで、それから戦えば有利だったりするのか?
「やかましい! 床は黙って踏まれてろ!」
考え事をしている隙に、酒呑が先制攻撃というか、喧嘩をふっかけに行ったというか、大太刀を横にないで、敵がのけぞったところに蹴り。いや、踏んだ。
「この場合、足が早いというべきですかね」
紅梅がため息をつきつつ、笏を振ると、敵を酒呑ごと雷が打つ。どうやら、紅梅が符の代わりに、媒介としている道具は笏であるらしい。
「もう少し優雅に戦えぬものか」
紅葉が扇を一振り、鬼火が酒呑もろとも敵を焼く。
「ほほ、火に弱いの」
「建物だからであろうよ」
眼を細める紅葉に、薄く笑って答える紅梅。
「こらぁ! お前ら!! 俺まで狙いやがったな!?」
怒気を紅葉と紅梅に向けながら、敵に容赦のない攻撃を加えてゆく。
「今はホムラ様に喚び出されたモノ同士、私の雷も紅葉の火も効いてはいないでしょう」
「残念なことに」
扇の影から、酒呑に妖艶な流し目を向けつつ心底残念そうに言う紅葉。
「後で覚えとけよ!」
怒りに任せて敵を叩き切る酒呑。
あれ、もしかして油断しているとこれ、私の出番がない?




