逃亡
僕は居酒屋にやってきた。
ここには何度か来たことがあるけど、自分の足で来るのは初めてだから不思議な気持ちになった。
この居酒屋の店主のおじさんはとてもいい人だ。
僕がここにいる時にはいつも何も言わずにご飯を食べさせてくれる。
別に食事は必要ないんだけど、おじさんの気遣いがうれしかったな。
それが、僕の唯一の食事の機会だ。
お店は賑わっていた。
いかにも常連さんらしい人たちで店全体が盛り上がっている。
一際騒いでいたのはカウンターにいた人たちだった。
綺麗な女の人がなんだかすごい勢いで横に座っている男の人に絡んでいた。
周りの人もタジタジって感じの空気だ。
絡まれている人が可哀相だけど僕には助けることなんてできないし、なんだか近寄っちゃいけない気がしたからカウンターには行かないことにする。
でも、おじさんはカウンターの中にいるから近づかないと話しかけることができない。
お金を持っていないから普通に食事をすることはできないんだけど、ちょっとだけ空いている席からお店の中の様子を観察させてほしかった。
プレイヤーの人が何をしているのか、どんなことを話しているのか調べてみたかったんだ。
おじさんに頼めばそれくらいは許してもらえると思ってここに来たんだけど、近づけないから頼めない。
どうしていいか分からずに困っていると、居酒屋にいたプレイヤーの人が僕の方を見ているのに気がついた。
あ、あの人はこの前、僕に何十回も話しかけてきた人だ。
僕に何度も何度も話しかけてきて、それにあわせて僕はいつものセリフを何度も何度も返していた。
なんでこんな時間の無駄をしているんだろうと思ったけど、しばらく僕に話しかけ続けた後、あの人は満足そうな顔をして去っていった。
全く意味は分からなかったけれど、満足してくれたのならそれでいいと思った。
その人が驚いた顔で僕の方を見ている。
「あれ?
あれってファスタル君だよな。
なんでこんなところにいるんだ。
今日は外出禁止日じゃなかったはず。
もしかして、ついにイベント発生か。
だったら、ラッキーだぞ」
そんなことを言いながらすごい勢いでこっちに近づいてくる。
「こんばんは、ファスタル君。
こんな所で何してんの?」
どうやら、ファスタル君というのは僕のことを言っているらしい。
その人は興味津々な様子で僕のことを観察している。
あまりの勢いにちょっと気圧されてしまう。
「こ、こんばんは。
こ、ここは始まりの都市、ファスタルの居酒屋だよ」
半ば条件反射的にいつものセリフを返した。
二回も噛んだけど。
そんな僕の様子に、その人は目をキラキラさせている。
「やっぱ、いつものファスタル君じゃないじゃん。
なんだよ。
仕様変更か?
そんなアナウンスなかったけどな。
こんな所で何してんの?
ってファスタル君に聞いても仕方ないか。
俺が知らない情報となると、未公開情報とかか。
サプライズイベントとか。
そんなの今までなかったけどな。
うーん」
プレイヤーの人は一人でブツブツと何か言っている。
別に嫌なわけじゃないけど、自分から話しかけておいて僕のことを無視して一人で考え込むのはどうかと思う。
それに僕に聞いても仕方ないって。
……まあそれは今までの僕の行動を考えると確かに仕方ないけど。
「僕はファスタル君なんて名前じゃないです」
僕はちょっと抗議の気持ちを込めてそう言った。
すると、そのプレイヤーの人は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした後、すごい笑顔になった。
「おいおいおいおい。
ファスタル君が普通にしゃべったよ。
マジかよ。
そんなの聞いたことないぞ。
これはいよいよ何か起きるか。
今日はたまたまここにいたけど、これは運命か?」
勝手に興奮している。
僕のことを言っているみたいだけど、僕自身のことは眼中にないんじゃないかな。
自分の世界に入っているような感じだし。
これだけ僕のことを無視しているんだから、僕もこの人を無視しても問題ないよね。
それに、僕はファスタル君なんて名前じゃないって言ったのに、またファスタル君って言われたし。
店主のおじさんに話しかけたかったけど、今度でいいや。
そう思って、僕は居酒屋を出ることにした。
居酒屋を出て、ファスタルの街を歩いた。
僕にこんなに関心を持ってくれたのは、エスクロさん以外では初めてだ。
でも、僕に関心があって話しかけてきたみたいなのに、僕のことを無視するというのはどういうことなんだろう。
おかしいと思う。
ちょっとだけ、ムッとしている。
そういえば、僕は怒るのはこれが初めてかもしれない。
今までも僕の反応を見て、すごくガッカリする人はいたし、露骨に馬鹿呼ばわりされることもあったけれど、腹が立ったことはなかった。
なぜかは分からないけど、自分の役割だけをこなしていて、それに文句を言われても気にならなかったんだ。
でも、今は僕は役割で動いているわけじゃない。
だからかな。
よく分からないけど、やっぱり僕はちょっと変わったみたいだ。
とりあえず、行くところがなくなったから、これからどうしようか考えていた。
すると、後ろから走ってくる人の足音が聞こえた。
「おーい、ファスタルくーん。
悪かったってー。
待ってくれよー」
さっきのプレイヤーの人だ。
すごい大きな荷物を抱えて走ってきている。
自分の世界から戻ってきたみたいだ。
ついてこなくていいのに。
「なんですか?
僕に何か用ですか?」
「ああ、だからごめんって。
別に喧嘩を売るつもりはなかったんだよ。
あまりにも珍しいもんが見れて興奮しただけなんだ。
俺、君のファンなんだよ。
それでちょっと我を忘れちゃって。
俺の名前はワビスケだ。
それで、ファスタ、じゃなかった、君の名前はなんて言うんだ?」
なんだかすごく興奮している。
僕のファンって、言っている意味が分からないんだけど。
「僕はエイシって言います。
ワビスケさんはなんで僕なんかを追っかけてきたんですか?」
「ああ、さん付けはいらない。
敬語もいらない。
その代わり俺も呼び捨てで呼ばせてもらうし敬語も使わない」
なんだか強引というか、マイペースな人だな。
「で、俺がなんで君、エイシを追いかけたか、か?
それはな、俺は君にとても興味があるからだ。
ぶっちゃけ、君が何か大きなイベントに関わっていると睨んでいる」
「はい?
頭大丈夫ですか?
僕は何も関わってないですよ」
いきなり何か言いだした。
この人大丈夫かな。
僕は今日初めて自分で動いたんだ。
それが何かと関わっているなんてありえない。
ちょっと怒っていたせいで失礼な言い方をしてしまったけど、この人相手なら別にいいでしょ。
「ああ?
馬鹿にすんな。
俺はこう見えて古参プレイヤーの一人だぞ。
何も考えずに言ってるわけじゃない。
君はこの世界でかなり珍しい存在なんだよ。
そもそもこの世界の人間はかなり高度な知能を持っていて、それぞれ独立して色々動いている。
それなのに、君だけは……」
聞いてないのに、勝手になんか語り出した。
本当にマイペースな人だと思う。
と、そこへ何人かのプレイヤーの人が駆け寄ってきた。
「ワビスケさん、なんか急いで出て行きましたけど面白いことでもあったんすか?」
居酒屋にいた人たちだ。
この人を追いかけてきたらしい。
「ああ。
まだ細かいことは分からないけどな。
何か起きてるのは間違いないらしいぞ」
ワビスケさんが答えている。
そのプレイヤーの中の一人が僕に気づいた。
「あれ?
その子っていつもファスタルの入り口から動かないキャラじゃないの?
何があってもあそこにいるって話なのに」
「あ、ホントだ。
なんでこんなとこにいるんだ?」
「おい、君、なんかあったのか?」
「もしかして、なんかのイベント?」
プレイヤーの人たちが口々に何か言いながら僕に寄ってくる。
みんな好奇心に満ちた目で僕を見ている。
すぐに囲まれてしまった。
僕は何も言っていないのに、どんどん話が進んでいるみたいだ。
「告知なんてなかったよな?」
「昨日までは普通に入り口の所にいるのを見たぞ」
「おい、誰かすぐに調べろって」
「ていうか、このキャラってなんか設定あんの?」
怖い。
今まで、何百人、何千人というプレイヤーの人と会ったけど、こんなに囲まれたのは初めてだ。
いつも何かに一生懸命取り組んでいる人たちだというのは知っていたけど、それが自分に向けられたことはなかった。
僕のことを話しているはずなのに、僕に関係なく会話が進んでいる。
それに、プレイヤーの人たちの勢いはどんどん増していく。
数も最初に寄ってきた人たちだけじゃなくなっている。
周りにいたプレイヤーの人も集まっているみたいだ。
今ではもう、ちょっとした騒ぎになっている。
それで余計に、人が集まっているんだと思う。
みんな口々に何か言っているけど、もう会話が早すぎて僕には何の話をしているのか分からない。
ワビスケさんが止めようとしているのがチラッと見えたけど、こんなの止めようがない。
逃げた。
僕は怖くなって逃げた。
プレイヤーの人たちを怖いと思ったのは初めてだった。
どこに行けばいいのか分からなかったけど、とにかく逃げた。
後ろからはプレイヤーの人たちが追いかけてくるのが聞こえてくる。
大通りは真っ直ぐだから、そこを走っていても逃げきれないと思った。
だから、すぐに裏通りに入った。
暗くておっかないけれど、追いかけてくるプレイヤーの人たちよりはマシだった。
裏通りに入っても、しばらくは追いかけてくる人は途切れなかった。
でも、僕は止まらずに逃げ続けた。
僕自身どうやって辿り着いたのか分からないような場所まで逃げた頃、追いかけてくる人はいなくなっていた。
僕は一息つく。
怖かった。
まだちょっと怖い。
プレイヤーの人たちがあんな風だなんて知らなかった。
もうあんまり関わりたくない、そう思った。
でも、ファスタルにいたら嫌でも関わることになるんだよな。
ファスタルにいる人は多分みんな僕のことを見たことがあるだろうし、これからもこんなことが続くのかな。
それは、僕にとって動けるようになった喜びを奪い去るのに十分な事実だった。
そして、もう一つ嫌な事実に気づいてしまった。
こうなることは分かってはいたけど、やっぱり今いる場所がどこなのか全然分からない。
つまり、迷った。
周りは真っ暗でほとんど先が見えない。
別に帰る家があるわけでもないから、どこにいてもいいんだけど、だからと言って、こんな気持ち悪い場所にいたくはない。
僕はとにかく一度大通りを目指すことにした。
大通りでプレイヤーの人に会うのは嫌だけど、隠れて行動すればそんなにすぐに騒ぎになったりはしないと思う。
今日それなりに街をうろついたけど、問題になんてならなかったわけだし。
要は、目立たなければ僕なんてどこにでもいるファスタル市民の一人なんだから、人に紛れてしまえばいいんだ。
少し落ち着いた僕はそう割り切ることにして、大通りを目指して歩き出した。