散策
看板に僕の役割を任せた。
不思議と心が軽くなったような気がした。
「それで、君はこれからどうするつもりなんだい?」
「とりあえず、ファスタルの街の中を見てみようと思います。
今まで入り口と居酒屋しか行った事がないから他の場所も見てみます」
「そうか。
うん、そうだね。
最初はそれがいいかもしれないね」
プレイヤーじゃない人は何か頷いている。
「僕も君と一緒に行動したいところなんだけど、色々やらないといけないことがあるから、これで失礼するよ。
がんばってね。
さっきも言ったけど、君には期待しているから」
どうやら行ってしまうらしい。
こんなに長時間他の人と接していたのは初めてだから、少し寂しい。
勝手に親近感を持っていた、というか慕っていた。
だって、色々手伝ってくれたし。
でも、僕の予定に付き合わせるわけにはいかないよね。
まあ、予定なんてあってないようなものなんだけど。
「あの、ありがとうございました。
このご恩はずっと忘れません。
いつか、お返しします」
「うん、僕のことは覚えておいてね。
お返しはいらないよ。
君が外の世界を精一杯楽しんでくれたらそれでいいんだ。
どうせまたすぐに会うことになると思うけど、その時に君が成長した姿を見せてくれたら、それで十分満足さ」
この人は僕の何に期待しているんだろう。
僕には特に目的も何もない。
今はとにかく色んなものを見てみたいだけだし。
まあ、楽しんだらいいと言ってもらえるのはありがたいよね。
難しいことを言われたって、できっこないし。
お言葉に甘えて楽しむことにしよう。
「あの、お名前を聞いてもいいですか?」
「ああ、そういえば名乗ってなかったね。
僕は、そうだね。
うーん…。
エスクロって呼んでくれたらいいよ」
どうして自分の名前を名乗るのにちょっと悩んだのかは分からない。
何か事情があるのかもしれない。
別に気にはならないけど。
「エスクロさん、ですね。
本当にありがとうございました」
「別にさんはいらないんだけど、まあいいか。
君の名前はどうするんだい?」
どうするも何も僕にだって名前くらいある。
「僕の名前は市民Aですけど」
「うん、それは知っているけど、さすがに市民Aと名乗るのはどうかと思うよ。
何か違う名前を考えたほうがいい」
何かダメなんだろうか。
「そうですか?
別に市民Aで今まで問題なかったですけど」
「今まで人に名乗ったことがあるのかい?」
ない。
それじゃ問題にならないはずだよね。
なんだか人におかしいと言われたら恥ずかしい名前だという気がしてきた。
「いえ。
でも、急に名前を考えろと言われても」
うーん。
そもそも、市民Aでいいと思っていたからな。
自分の名前を考えるっていうのは、それはそれで恥ずかしいんだけど。
ダメかな、市民Aじゃ。
ダメなんだろうな。
でも、僕が考えてもまたおかしな名前にならないだろうか。
あんまり自信はない。
まあ、市民Aは僕が考えた名前じゃないけど。
「なにかいいのないですか?」
「まあ、ないこともないけど。
折角だから自分で考えたほうがいいと思うよ」
そう言われたら、僕もそう思うけど。
どうしようかな。
せめて市民Aにちなんだ名前がいいな。
じゃないと自分の名前って感じがしないし。
しみんえーしみんえーしみんえーし、みんえーしみんえーし、んえーしんえーし、えーしえーし、えーし。
えーし。
A氏。
うん。
氏ってガラじゃないんだけど、響きも気に入ったしこれでいいや。
「僕は、エイシって名乗ることにします」
「エイシ?
ああ、市民Aから取ったんだね。
いいんじゃないかな。
そっちの方が、断然人間らしいよ」
失敬な。
市民Aだって、十分に人間らしい、はず。
言われてみれば確かに変な名前だよね。
今まで考えたこともなかったけど、なんだかどんどん変な名前だと思うようになってきた。
「じゃあ、エイシ。
がんばってね」
「はい。
本当にありがとうございました」
何をがんばればいいのか分からないけれど、がんばってみることにする。
エスクロさんはどこかへ歩いていった。
僕もそろそろ出発しよう。
と言っても、目的地はないから、とりあえずファスタルの街を適当に散策するつもりにしている。
今はもう夜だ。
でも、ファスタルの街は眠らない。
ファスタルは交易都市としても有名で、夜でもたくさんの人が出入りして色んなお店も開いている。
商人の人から聞いた受け売りだからそんな様子を見たことはないけど、確かに夜でも入り口は人通りがあった。
僕は大通りを歩いた。
露天ではおいしそうな食べ物や怪しげなアクセサリーなど、興味を引かれるものがたくさんあった。
僕はお店の迷惑にならないように順番に見ていくことにした。
◇
さっき裏通りに少し入ってみた。
夜の裏通りはとても暗くて出歩いている人なんてほとんどいなかった。
それに道も細くて複雑そうだったから、すぐに迷ってしまいそうだ。
僕はそのまま奥に行くのがちょっと怖くなってすぐに大通りに戻った。
あんなところで迷ってしまったら戻ってこられないかもしれない。
でも、僕は少し冒険したような気分になって、結局はそれも面白かった。
また明るい時に入ってみてもいいかもしれない。
そんな風に色んなところを目的なく見て回った。
どこに行っても、今まで見たことのないものばかりで、見ているだけでも新鮮でとても楽しかった。
本当になんで今まであの場所から動かなかったんだろう。
ただ、僕はお金は持っていないから、何かを買うことはできなった。
でも、何か食べないと死ぬなんてことはない。
僕は今までもほとんど食事をしたことがない。
だから、食事も買い物もする必要はないし、見ているだけでも十分楽しめている。
だけど、折角動けるようになってお店に来られたんだから、何か買ってみたいという気が起きてきた。
僕は役割だけをこなしていた時よりも、ちょっと欲張りになったのかもしれない。
買い物をするなら、当然お金が必要だよね。
となると、やっぱり働かないといけない。
そういえば、研究所の調査員になればかなり稼げるって聞いたことがある。
調査員はこの街のエリートだ。
だから、なりたい人はたくさんいる。
なかなか採用されないらしいけど。
僕には無理だろうな。
まあ、調査員になりたいってわけでもないから、別に構わない。
そもそも僕がやりたいことは面白いことだ。
だから、プレイヤーの人たちがやっていることをしてみたいって漠然と思ってた。
彼らはいつも楽しそうにしているから。
でも、プレイヤーの人たちが何をやっているのかって具体的には知らないんだよね。
僕がたまに飛ばされていた居酒屋にはプレイヤーの人たちもたくさん来ていた。
なんでも、情報収集の基本なんだとか。
よく分からないけれど、あの居酒屋に行けばプレイヤーの人たちが何をしているのか少し分かるかもしれない。
僕は居酒屋に行くことにした。