第09話
森田慎治が全てを失ってから約四カ月が過ぎて、―――彼だけが住む山奥の小さな村には、ゆっくりとした時間が流れていた。
彼はその村で小さな畑を耕して、空いた時間はPCで読書をする、―――いわゆる晴耕雨読の生活を続けていた。
ひょろひょろだった体には少しばかりの筋肉が付いて、規則的な生活で体調も良くなり、健康的な生活を送れている。
二週間に一度程度、桑田が生活に必要な物資を運んでくれているし、それ以外は自給自足の生活なので、慎治は何の不都合はなかった。
そんな彼が住む家は、昔ながらの平屋建ての日本家屋で、30年ほど前に全面的にリフォームされた古い家だ。
だからといって、すきま風が吹くような家では無くて、ソーラーパネル付きのオール電化で水道も完備されてはいるが、今は電気以外は開栓せずに、水は井戸水をモーターで汲み上げて生活している。
部屋数も一人で住むには広すぎるから、掃除に手間が掛かるのが難点なくらいだろう。
この四カ月間には、様々な出来事があった。
彼に対する世間の批判は完全になりをひそめ、新聞紙上では彼を取り上げる記事もめっきりと減っていた。
結局マスコミは、骨の髄までしゃぶりつくした彼をわざわざ取り上げるより、新たな生贄を求める方がメリットがあると思ったのだろう。
今となれば、そんな事は彼にとってはどうでもよかったが……。
そんな慎治をよそに、彼の親しい者たちの戦いは続いているようだ。
桑田は、森田研究所を解散させて、思考プログラムを扱う、新しい小さな会社を立ち上げている。
慎治の社会復帰を一番信じているのは、間違いなく彼だろう。
研究所の元部下達も、新たな研究所を紹介されて、自らの使命や目標を果たそうとしていると聞いている。
九門弁護士は、被害者達への救済活動や、プロテクト社に対する民事訴訟を受け持って忙しくしている。
慎治個人に対する民事訴訟が国内外で一件も起こらなかったのは、決して寄付した金額だけの問題ではなくて、彼の力によるものが大きいだろう。
その他の雑事も彼の信頼する友人達が動いていると聞いているが、謹慎中の彼の立場では、それを遠くから見守っている事だけしか出来なかったし、それで充分に上手くいっていた。
里香を襲った三人の犯人は、指名手配された後、一ヶ月も経たない間に全て捕まった。
奴らはただのチンピラで、思想的な背景など無く、―――どうやら金で雇われた実行犯に過ぎなかったようだ。
背後関係はこれからだが、一部の新聞報道を信頼するのなら、カーン神聖教と呼ばれる悪名高い新興宗教の元女性幹部が関わっているらしい。
慎治が見るに、かなりいいかげんな記事だったが、それが本当かどうかは以前から指名手配されている女を捕まえれば、おのずとわかるだろう。
いずれにしても、里香を襲った理由は不明だから、これから開かれる裁判の様子をチェックして、黒幕の存在を推測するしか彼には出来ないだろう。
それに、金の流れを追えば、主犯格は必ず捕まるはずだ。
国民総背番号制度が浸透していて、何をするにも国民番号が欠かせない、高度に情報化された日本社会では、犯罪人が金を動かすのは難しいはずだから。
里香の回復の様子は、慎治は詳しくは聞いていない。
桑田が慎治の代わりとばかりに、週に一度はお見舞いに行ってくれてはいるが、隆二さんとの約束通り、彼から動くつもりはなかった。
ただし、気を使った桑田から、―――里香は度重なる手術にも耐え、今もまだ入院中だが、必死にリハビリをしていると聞いている。
彼女が頑張っているのなら、会えないなんて事は、大した問題でもないだろう。
それに、最近一度だけ、彼の携帯に彼女からの連絡があった。
その時、彼女は泣いていた。
慎治の母親の死を知り、ショックを受けて、葬儀に立ち会えなかったのを悔やんだからだ。
『母さんは怒っていない。回復すれば、一緒に墓参りに行こう』
『…うん、慎ちゃん。うちがんばる。一日も早よう節子さんに謝りたいから』
彼女は婚約解消の事については何も触れなかったが、彼は優しく励ました。
その時の彼女の声が、以前と同じように美しかったのが何よりの救いだった。
彼女がどれほどの情報を知っているかは、彼にはわからない。
ただ、香川家の人々の生活は問題ないと桑田からは聞いているので、慎治はそれほど心配していなかった。
そうであるなら、隆二さんに任せておけば、きっと自分が関わらなくても娘を支えてくれるはずだから。
後は、里香と隆二さん達の判断で、どうするかを決めればいいだけだと考えていた。
いま、彼の周りにはSP警護は付いてはいない。
そもそも、桑田以外は彼がどこに住んでいるかも知らないはずだ。
色々と考えて、それが一番いいと判断したからだ。
この家は桑田の名義だし、引っ越しにも気を使ったし、住民票の住所も実家にしているし、表札や電気の使用者名も桑田の名前にしているから、そう簡単には見つからないはずだ。
慎治は、この家だけでなく、この村を心から気に入っていた。
人が住んでいないから静かで、夜になると星が満天の空を照らす。
朝は日の出が遅くて夜は冷え込むが、薪を拾って囲炉裏で暖を取る生活は悪くない。
電話とネットは衛星回線で繋がっているので、世間の情報を得るにも支障はない。
他人が見ると完全に世捨て人のような生活だが、彼はそれで満足だった。
彼は今、暇な時間を使って小説でも書いてみようかと考えている。
小学生の時、独りぼっちだった彼を助けてくれた恩返しの為にも、無料でネット公開してみるのもいいだろう。
人の心を打つ作品を書く自信はなかったが、彼は様々な物語を読んでいる。
もし、たった一人でも彼の作品で救われる心があるのならば、それは素晴らしい事だ。
好きな事を書いて批判されたって構わない、―――それは慣れているから。
色々と酷い目に会ったが、それでも人との関わりは、人である以上は持っていなければいけないと彼は思っていた。
そんな穏やかな日の午前中、―――実家から持ってきた仏壇の前で、両親の位牌に手を合わせていると、かすかに車のエンジンの音が聞こえる。
桑田が来たのかと思ったが、いつもより時間が早すぎる。
―――用心に越した事はないだろう。
護身用のスタンガンを持った彼は、玄関で聞き耳をたてて外の様子を確認する。
しばらくすると、郵便受けが開けられる音がして、その後、車が立ち去ったようだ。
郵便受けの中を確認すると、電気の使用量を知らせる紙が入っていた。
どうやら、電力会社の検針だったようで、―――ホッとしつつも、同時に笑いがこみ上げる。
考えてみれば、今さら彼を襲うなんて奴は、ほとんどいないだろう。
外国からの報道でも、森田慎治は神による報いを受けたとされていて、問題視されていないように思える。
もう世間からの反感も見られず、目立つ事さえしなければ、彼を襲うメリットも、その必要性もないはずだ。
あれから思考プログラムにも新しい問題は発生しておらず、あくまでもゆっくりとしたペースでだが、世間に受け入れられているとネット上には書かれている。
つまり、油断は出来ないが、それほどの心配はない。
今は、そんな状況だった。
それからしばらく経って、時刻はお昼前くらいの事、―――慎治の携帯に桑田からのメールが届いた。
それは、今日の夜に会って話したいとの内容だった。
前に会ってからすでに十日くらい経っていたので、生活物資を運んで来てくれるのかもしれないが、週の真ん中に来るなんて少し意外だ。
この村から、彼が住む街までは車で二時間近くはかかるから、往復には四時間以上はかかる。
―――何か、急用でもあるのかもしれない。
まあ、本当の急用ならば電話してくるはずだから、『了解、待ってる』とだけ返信して、昼食を済ませてから畑に出かける。
家を出て空を見上げると、今日もいい天気だった。
家から少し離れた小さな畑では、季節の野菜がたくさん実っている。
彼は、作物の状態を確認しながら、草むしりを始める。
畑を耕したり、野菜を収穫したり、草むしりをするのは楽しい。
自分一人が食べる為だけの物だが、土に触れる喜びは、生きている事を実感させてくれる。
一時間ほど集中して畑仕事をしていると、突然、彼を背後から呼ぶ声がする。
人の気配や車の音に全く気付かなかった彼は、驚いて背後を振り返る。
「森田さんですよね? 私は、毎朝新聞の者です。少しお話を伺えませんか?」
有名新聞の記者だと名乗る男は、慎治が見る限り、少し胡散臭かった。
記者というよりは、神経質そうな公務員という感じで、少し疲れているように見える。
何だか、切羽詰まっているように見えるから、下手に怒らせない方がいいだろう。
「私は確かに森田ですけど、もう新聞記者さんにお話しする様な立場の者ではありませんよ。せっかくですけど仕事がありますので、失礼します」
少し申し訳なさそうな様子で慎治は答えてから、草ぬきを続ける。
内心では、ここを嗅ぎつけられた事に舌打ちをしたかったが、ある程度は覚悟はしていた。
あまりしつこいようなら、九門弁護士に報告して対応してもらうつもりだが、まだ判断するには早すぎるだろう。
そんな彼の心を知らず、男は話しかけてくる。
「新世界の神と呼ばれた方が、土いじりの仕事ですか? それはあまりにも悲し過ぎます。私共、毎朝新聞は、あなたの復権にご協力したい。あなたほどの人が、このまま一生を埋もれて過ごすなんて、とても許されません。僭越ですが、あなたを救って差し上げたいと私共は考えています」
慎治は、農作業の手を止めてから彼に向き直る。
「…お気持ちだけ受け取っておきます。人にはそれぞれの幸せがあります。私は今の生活に満足しています。取材はお断りしますので、どうぞお引き取り下さい」
これ以上、話す事のない慎治は、家に帰る事に決めた。
鍬を片手に、慎治が畑から出て家に向かうと、彼はその後ろを付いてくる。
「話だけでも聞いてくれませんか? …あの、出来れば電話を貸していただけると助かります。実は、この村の手前で、車が故障してしまって困っているんです。この村は、携帯が繋がらないから連絡も取れません」
「今どき、衛星電話をお持ちじゃないんですか? 一般人ならともかく、記者にとっては必需品でしょ?」
「経費節減の折です。サラリーマンには、衛星電話はぜいたく品ですよ。それに、国内で通常携帯が繋がらない場所なんて、めったにありませんからね」
(…なるほど、一応筋は通っているな。それにしても、世知辛い世の中だ)
彼は会社勤めをした事はないから、一流新聞社の社員がどれくらいの給料をもらっているかはわからない。
案外、全てが嘘で、家に上げてもらう手段かもしれない。
どうしようかと思ったが、このまま村に居座られても困る。
だからといって、いま彼が持っている携帯を貸す訳にもいかない。
個人情報の宝庫だから、新聞記者に中を見られる危険を冒すなんてとんでもない。
家の固定電話を貸すしかないだろう。
「…付いて来て下さい。取材には応じられませんが、家の電話くらいならお貸しします」
「助かります。…あの、一言でもいいんですけど?」
それを無視して、慎治は家に帰る道を歩く。
いくら一流新聞の記者でも、マスコミは嫌いだ。
特に、四か月前の出来事で、その気持ちは更に強くなった。
それからは、二人は無言で歩く。
一分ほどで家の門まで到着すると、彼は玄関先に鍬を置き、鍵の掛かってない玄関扉を横にスライドさせて中に入る。
振り返って「どうぞ、上がってください」と言うと、
「お邪魔します」と、神経質そうに記者は答える。
それから、家の中に一つだけある洋室の居間に彼を案内し、「電話はこの中です。使い終わったら帰ってください」
そう言った瞬間! 彼の体を衝撃が襲う。
あまりの痛みに廊下の床に倒れて身動きが出来ない彼を見て、男はニヤリと笑いかける。
その手に持っているのは、真っ黒なスタンガンだった。
「な、…なにを…する」
慎治は床でうめき声をあげながらも、何とか小声で言葉を絞り出す。
その質問に答えず、男は再び彼にスタンガンを当ててスイッチを入れる。
悲鳴も上げられずに痙攣し、彼の体は完全に身動き出来なくなる。
その男は、無言でポケットから小型の注射器を取り出すと、慎治の首筋に注射針を突き刺した。
急に慎治の体から痛みが消えるが、とても良い兆候だとは思えない。
多分、薬のせいだし、眠気まで出てきたので抵抗出来ない。
続いて、男は持っていた鞄から手錠と足枷をを取り出すと、慎治の両手両足を拘束した。
非常に慣れた手つきで、全てを実行し終えた男は、最後に慎治のポケットからスマートフォン型の携帯電話を取り上げると、床にたたきつけて完全に破壊した。
「…さて、眠るまでの間、少しお話しましょうか? せいぜい五分という所でしょうね、森田教授」
男の口調が、明らかに変わる。
爬虫類のような視線で、男は床に寝ている慎治を見る。
その目には、何の感情も宿っていなかった。
「し、新聞…記者というのは…うそか?」
「当然でしょう。神の使徒である私が、そんな愚かな職業に就くはずはない。心配せずとも、あなたは神の国に旅立てます。ですがその前に、儀式をする必要があります。あなたの神気を私に取り入れなければいけませんからね」
「…な…んだって? 『しんき』って…何だ?」
「神気とは、神の力ですよ。あなたは、この世に現れた、新たな現人神だ。…だから、私があなたと交わって、その力を取り入れて、―――私が新たな神になる」
慎治は、この男の口調を聞いて、唐突に思い当たる。
顔は全く違っているが、以前、テレビによく出ていた人物としゃべり方がそっくりだ。
こいつはカーン神聖教の元幹部で、名前は確か、村田浩二、―――今は、新たな新興宗教を立ち上げて、教祖の座におさまっていると以前に新聞に書いてあった。
カーン神聖教は、オカルトじみた儀式をする事でも有名だから、恐らく間違いないだろう。
慎治の優れた頭脳は、ある仮定を導き出す。
指名手配されている元女性幹部では無く、―――彼こそが、里香を襲った犯人達の黒幕かも知れない。
「…カーン神聖教の…元幹部が、…な…ぜ、里香を…襲った」
「…ほう、さすがは現人神だ。私が指示したと気付きましたか?」
完全に鎌かけの質問だったが、悪い予想が当たったようだ。
(こいつが里香を、…許せん!)
感覚の無いはずの彼の体が、怒りで泡立つようだ。
今まで感じていた強い眠気は吹っ飛び、彼の思考に芯が入る。
「答えろ、何故だ! 何故、里香を襲った!」
彼の怒りとは対照的に、首から下は完全にしびれていて、全く身動きが出来ない。
恐らく、先ほど注射された薬のせいで、脊椎が麻痺しているので感覚が無いのだろう。
それなのに、強い口調ではっきりとものを言う慎治を見て、少し感心した様子で村田は話す。
それは、熱に浮かされた病人の口調に似ていた。
「彼女に神の子を生まれては、とてもまずいからですよ。…それは、とてもとてもまずい。この世に許された現人神はたった一人で、それは神の摂理です。もしそれを破れば、神気が分散するかもしれません。…それは、とても恐ろしい、…もう、人は救済されなくなる。そうなれば、この世は地獄です」
慎治は、すぐに気が付く。
この男は、正気では無い。
慎治は脳内バイオチップ内にある、一度見ただけの新聞記事の内容を検索して、頭の中に浮かび上がらせる。
村田浩二、48歳。
精神修行の目的で、大学生の時に、カーン神聖教に入信。
よく回る口で、多くの信者を獲得して、幹部にのし上がる。
教祖が逮捕された後、―――教団に貯えられていた金の一部を着服したとも伝えられているが、その真相は不明。
その後、カーン神聖教は解散、―――教祖は獄中で死亡。
彼は新教団を立ち上げたが、精神的に不安定になり精神科への入退院を繰り返す。
その記事を読んだのが、約二年ほど前だったはず。
それから今までに、この男に何があったかはわからない。
だが今はそんな事より、彼がどうするつもりなのかを知っておきたい。
「神になって、どうする気だ? 何のために神になる?」
「何のため? クックックッ、さすがに現人神は、言う事が違う。全ての人間は、現人神になる事が最終目的です。それはこの世の真理! 理由など無意味です。
…それなのに、馬鹿どもは現人神の存在を認めない。教祖様は、間違いなく神の化身だった。教祖様亡き後、神の意志は森田教授に宿られた。それは神の気まぐれだとはいえ、…実に嘆かわしい事です」
その時、慎治の家の電話が鳴る。
黙って居間に入り、電話機のコードを引っこ抜いた村田が慎治の前に戻ってくる。
「無粋な電話です。これ以上邪魔されないうちに、儀式を始めましょうか」
完全にキチガイの目をして村田はつぶやく。
こいつがこうなった理由はわからないが、追い詰められて暴走したのかもしれない。
新聞には、大人しく臆病な性格で、凶行に走るタイプではないと書かれていたが、今の状態を見るとマスコミの推測は間違っていたのだろう。
考えてみれば、マスコミの情報なんて、あてにならなかった。
「儀式とは何だ? どうするつもりかは知らないが、お前に逃げ場はないぞ」
村田はニヤリと笑うと、無言のまま、おもむろにズボンを脱ぎ出て、下半身だけ裸になる。
悪い予感しかしなかったが、交わるというからには、…そういうことなのだろう。
身動き出来なかった彼は、黙ってその屈辱に耐えた。
里香の辛さを思えば、痛みを感じない自分が、たった一人くらいは我慢出来るはずだ。
もちろん、もし動けたなら間違いなくぶん殴っていただろうが、それは後に取っておく。
今は時間を稼ぐ事が、何より大事だった。
村田の破壊したスマートフォン型の携帯電話は、破壊されると緊急信号と直前のGPSによる位置情報を発信する装置が組み込んである。
それらの情報は、この家にある衛星アンテナを通じて、慎治の契約している警備会社に繋がるはずで、折り返し電話連絡が来る手はずになっている。
先ほどの電話がまさにそれで、―――もし連絡が付かなければ、警備員がこの家に駆けつけるはずだ。
…だが、それは早くても一時間後の事だろう。
もし近くの警察が駆けつけてくれるとしても、やはり同じくらいの時間がかかるはずだ。
だから、今は時間が惜しい、―――死ぬわけにはいかない。
里香、香川家の人々、桑田、―――彼の大切な人達の為にも、生き伸びなければならない。
まだ、母がいるはずの極楽に旅立つには早すぎる。
無神論者で、生まれ変わりを信じていない彼が、心からそう思った。
―――――――――――――――――――――――――
時間は、数時間ほどさかのぼる。
慎治の親友の桑田啓二は、その日の午前中に里香が入院している病室を訪れていた。
彼は珍しく緊張していた。
今日は、親友の未来を決める重大な日になるだろう。
数日前に里香が受けた検査の結果が出て、―――彼女に子供を産む事が出来るかどうかがわかる日なのだから。
桑田が病室のドアをノックすると、中から元気な女性の返事か聞こえる。
少し緊張が解けた彼が苦笑してドアを開けると、個室の中には、ベットに横になっている里香と、―――その周りには彼女の両親と、兄の卓巳が立っていた。
「桑田さん、来てくれたんやね。うち、不安やったから嬉しいわ」
「ああ、当然来るよ。…それより、今日も元気みたいで良かった」
彼は病室の中に入ると、里香の家族に挨拶をして、ベットの横に立つ。
彼女の左の頬は醜く変形しているが、その目は力強かった。
これからどんな結果が出ても、決して負けないという決意を示すように。
里香は、もうすべての事情を知っていた。
当初こそ精神的に不安な面が見られたが、どこで聞きつけたのか、―――慎治との婚約解消の事実を知ると、肝が据わったかのように見えた。
両親から事情を聞き、―――父親を責めず、現実を受け入れ始める。
それからも簡単には行かなかったが、彼女の護衛役だった三上小枝子さんの死を受け入れ、―――慎治の母の死を耐え、―――自らに子供が出来ないかもしれない事実さえ覚悟した。
彼女は慎治が信じていたように、とてつもなく強い女性だった。
桑田は、里香の覚悟をはっきりと聞いている。
例え今日の結果がどのようなものだとしても、慎治と話し合って二人の将来を決めるつもりであると。
そして、その話を病院から動けない自分の代わりに、慎治へ伝えて欲しいと、彼女から電話で告げられた桑田は、二人の橋渡し役を喜んで買って出ることにしたのだ。
香川家の人達と桑田が、雑談を交わしながら病室で待っていると、一人の女性医師が入ってくる。
その人こそが、里香の運命を握る、産婦人科の山本先生だった。
「香川さん、こんにちわ。…お待ちかねのようだから、早速始めましょうか」
彼女は病室の壁掛けモニターを操作しながら説明を始める。
その表情は明るいから、最悪の結果だとは里香には思えなかった。
「香川さんの卵巣の状態は、生体バイオチップでの再生治療の結果、私が思ってた以上に状態が良いわ。卵子も問題ないから、人工授精を使えば子供は産めるはずよ。…確約は出来ないけど、そこまでしなくても妊娠可能だと思うわ。…おめでとう、良かったわね。何か質問はある?」
「…うちは、いつ退院出来るんでしょう?」
「それは主治医の木村先生に聞きなさい」
「慎ちゃんは、以前に精子を調べたけど、異常はなかったって言ってました。そやから、山本先生に頼めば、ほんまに子供が生めるんですね?」
「…香川さん、人工授精でも、100%妊娠するとは限らないのよ。でも、あなたの状態は、他の女性と比べても大きな違いはないの。これは森田研究所が開発した、医療用の生体バイオチップと新しいナノマシンのおかげよ。…あなたの元婚約者は、とても素晴らしい人ね」
「はい、慎ちゃんは、最高です!」
里香の両隣りで、両親は安堵の涙を流している。
兄の卓巳も、目を赤くして涙をこらえている。
桑田は、ホッとした様子で手を握りしめて、胸の前で軽くガッツポーズをする。
里香は、全員の顔をみながら、高らかに宣言する。
「母さん、父さん、卓にい、桑田さん、…うちは、慎ちゃんとの結婚、あきらめへんから。…一日も早う体を治して、絶対にウエディングドレスを着るんや。もううちは、止まれへん! 慎ちゃんと一緒に、絶対に幸せになる!
…桑田さん、慎ちゃんに伝えて。うち、…慎ちゃんに会いたい。もうこれ以上、我慢しとない。だから、うちの代わりに慎ちゃんを連れて帰って来て!」
「わかった、まかせろ。明日の朝にも、ここへ連れてくる。…香川さん、よろしいですね?」
「はい、お願いします。…私は、彼に失礼な事をいいました。それなのに、慎治君は私達をサポートしてくれています。彼は、私達の恩人です。…今さら気付くなんて救いようが無いですが、せめて謝りたいんです。桑田さん、私からもお願います。彼を娘に会わせてあげてください」
隆二は深々と頭を下げる。
桑田は無言で一礼をして、病室から出て行く。
素早く病院の入り口に向かうと、待ちきれない様子で急いで慎治にメールを打つ。
細かい内容は書かない。
最近、良い事が無かった親友は、世捨て人のような生活を送っている。
せめてこんな幸せなサプライズで、気合を注入してから、この街に無理にでも引っ張って来よう。
すると、彼の携帯からメールの着信音が響く。
親友からのそっけない返信を確認すると、彼は唇をほころばせて笑った。
(慎治、待ってろ。今日は素晴らしい日だ。すぐに仕事を片付けて、お前を迎えに行く。今夜は久しぶりに、二人で酒を飲もう。…そうだ、お互いまだ40歳、…朽ちるには早すぎる。お前の居場所は、必ず私が作る。だから慎治、この街へ戻ってこい!)
遥か遠く、山奥の村にいる親友を思い、―――桑田は残りの雑務を済ませる為に、急いで会社に戻った。