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第08話


森田慎治もりたしんじが釈放された日の午後2時45分、―――有名ホテルの広間で、マスコミ向けに記者会見が開かれる。

これは慎治にとっては、森田研究所の所長としての最後の記者会見であり、―――テレビやネットの前の視聴者達に向けて今後の身の振り方を示し、一般人として社会復帰を目指す重要なセレモニーである。


彼が会見場に入って来ると、そこに集まった100社以上のマスコミが、すごい数のフラッシュを絶え間なく浴びせかける。

彼が落ち着いた様子で、弁護団と一緒に長机の前に並んで座ると、―――間もなく司会者役の弁護士の男が、このショーの開催を告げる。


「それでは、記者会見を始めます。まず、この度の不当逮捕で、長期間拘留された森田慎治さんからの言葉があります」


打ち合わせ通りの進行に、慎治はゆっくりと立ち上がる。

その姿は、逮捕時と比べても明らかに痩せており、その顔色も悪いが、―――委細構わずに、再びフラッシュの雨が彼を襲う。

彼は一向に気にせずに、しばらくの間、深く頭を下げ続ける。

静かに席に座り直し、眩しいライトのせいで、ぼやけて見える奥のテレビカメラに向かって話し始める。


「この度は、世間をお騒がせして申し訳ありません。……特に、思考プログラムの不適合者の方、…並びに家族の方に対して心より深く謝罪し、私の出来る限りの償いはします。

 …私が開発チームと共に世に送り出した思考プログラムは、世の中の人々を幸せにする目的のものでした。努力が必ず報われると言うには、人の頭脳は千差万別で、望む職業に就けない方も多くいましたから……。それを埋める為の工業製品が、多くの方々に不幸を与えたのは痛恨の極みです。

 その責任を取って、私は森田研究所の所長を辞任し、全ての研究から身を引く所存です。それが、被害者の方々への償いになるとはとても思えませんが、道義的な責任だけは取りたいと思います。本当に、申し訳ありませんでした」


再び深く頭を下げた彼に、一番後ろに並んでいる一部のフリーの記者から質問が飛ぶ。

彼らは、かなり性質たちの悪い連中だ。


「それは、プロテクト社に言い分を認めたと言う事ですか?」

「本当にそれで、責任を果たせるつもりですか?」


慎治は、彼らと目を合わせようともせず、それを完全に無視する。

これも事前の打ち合わせ通りだ。


奴らの目的は、慎治の驚く表情や怒った顔を写真にとって、いいかげんな記事を書いて、お金に換える事だけだ。

何せ外国には、彼を特別嫌っている宗教関係者が多いのだから、歪んだ醜い表情の写真ほど高く売れる。

九門くもん弁護士の説明では、そんな連中が手を上げても指名される事はないし、それは奴らも承知している。

こんな連中を会見場に入れるなんて、少しも慎治の利益にならないが、これは人権派弁護士達の弱点である。

記者達の資質はともかく、報道の自由は最大限に尊重されなければならないのだから。


「静かに願います! 不規則な発言をする方は、事前の取り決めにより、退席をお願いする場合があります!」


見かねた司会者役の弁護士の言葉に、悪徳記者達はとりあえず口を閉じる。

場が静かになると、続けて弁護団長である九門弁護士からの説明が始まる。

それは、あまりにもいさぎよすぎる内容のものだった。


慎治が言ったように、全ての肩書の返上と研究者からの引退。

彼の持つ総資産の半分以上を彼自身が設立した国際救済基金へ寄付して、もし今後新たな被害者が出れば救済に努める事。

今後1年間の国内での謹慎と、利益経済活動の自粛。

そこまでする必要があるのか? と正気を疑いたくなるような内容だった。


慎治として見れば、それは当然の内容だった。

研究者からの引退は前から決めていたし、肩書にも興味が無かった。

お金なんて半分以上寄付しても、まだ何十億円単位で残っているし、元々あまり興味など無い。

国内での謹慎と利益経済活動の自粛にしても、母と里香を見守っていくには都合がいいくらいだ。

九門弁護士は強く反対したが、何度も彼と接見を重ねて、最終的には賛成してくれた。

その九門が説明の最後に言う。


「森田教授の責任の取り方は、かなり極端なものです。彼に法的な責任が全く無い事は、今回の不当逮捕劇で証明されていますから、本来ならば被害者に対して金銭の保障する必要さえありません。弁護団としては、このような内容は依頼人の一方的な不利益になると強く反対しましたが、最後まで彼の意志は変わりませんでした。

 …私は、弁護団長として世間に問います。マスコミの方々の中には、今回の件で森田教授を責める意見が多いですが、本当に彼が諸悪の根源でしょうか? 被害を拡大させたのは、何が原因だったのでしょうか? 事件発覚後に彼がやった事は、正当に評価されているでしょうか? 

 もう一度、問います。…彼は本当に世間の敵で許せない男ですか? 脅迫状を送り付けられたり、一部の人達が言うように存在さえ許されない人物でしょうか? この会見を見た全ての人が、己の良心に従って判断してくれる事を我々弁護団は願っています。…以上です」


それを聞いたマスコミの中に、静かにざわめきが広まる。

なぜならこれは、明らかにマスコミの報道姿勢を問うものだったからだ。


彼らの感想は、それぞれの考え方や立場によりかなり違っていた。

不愉快そうに顔をしかめたり、小声で文句を言う者や、黙ったまま頷いて同意する者、

―――本当に様々な表情が会見場の中に見られた。


一部の心ある記者達は思う。

森田教授の開発した生体バイオコンピューター技術は、今でも日本の主力商品の一つだ。

彼が今まで日本経済にもたらした恩恵は、決して無視できるものでは無かった。

今回の事件でも、被害を拡大させたのはプロテクト社であり、少し調べれば彼の責任が法的に問えないのはわかる。

しかも、証拠はないが、為政者の意向を受けた検察により不当に長期拘束されているし、彼の婚約者は今も病院のベットの上で苦しんでいる。

彼の今の状態は、明らかに正義とは言えなかった。


次に、慎治を良く知る記者たちの意見は、更に彼寄りのものだった。

彼の経歴をよく調べて、その人柄を知れば、今回の一連の事件に対するマスコミの反応は、いかに異常なものかが分かったからだ。

彼らが見るに、どこをどうつついても、慎治にマッドサイエンティストなんて側面は見られず、―――それどころか、とても勤勉な善人で、己の能力に対する使命感や責任感も持っている。

外国の血が混じってはいるが、彼の性格は骨の髄まで日本人で、一度でも彼と話す機会があれば、自分を育ててくれた、この日本の社会が好きである事がわかるはずだ。

そうでなければ、英語がペラペラで、ドイツ語とフランス語と北京語の日常会話程度なら出来る彼が、研究者として引く手あまただったにもかかわらず、日本に残って研究を続けていた理由に説明が付かない。

何より、以前のインタビューや森田研究所のホームページに『日本社会に貢献したい。税金を納めるなら、日本で納めて恩返しがしたい』という事が、何度も書かれているのだ。それを否定する様な事実はなく、プロであるなら真実だと感じられるはずで、それがわからないようでは記者失格だろう。


もちろん、日本にいても研究に支障が無かったという理由も大きいだろうが、―――彼が幼き頃に大震災に遭い、自衛隊員によって自分と母の命を助けてもらったという事実は、少し調べればわかるはずだし、それを恩に感じているのは、その人柄を見てもわかるはずだ。

動画サイトには、家と父親と親戚を無くした母子二人の生活を支えてくれた、故郷の人々が好きだと地味な顔で笑っていたインタビューが今でも残っているのだから。

つまり彼は、極めて優れた知能を持つ善人の日本人で、―――今後の事を考えると、わずか40歳での研究者としての引退は、日本にとっての損失以外の何物でもないだろう。


だが、それ以外のマスコミ連中はブツブツ文句を言いながらも、内心で、ほくそ笑む。

そんな連中にとって、彼の破滅は当然の報いなのだ。

彼らの立場では、森田教授の開発した脳内バイオチップと思考プログラムは、今までの秩序を破壊する極めて危険な商品である。

そもそも一般大衆に完全な記憶能力と論理的な思考力を身に付けさせるなんて、こちらの商売が上がったりである。

そんな優秀な人々が増えれば、記事の内容が高度にせざるを得ないし、世論の誘導が難しくなる。

新入社員に有能な人物が増えれば、今の安定した地位を追われる危険性が高くなる。

つまり、大衆は愚かであった方が、最大の既得権益者きとくけんえきしゃであるマスコミにとっては都合がいいのだ。

それは結果的に、自らの保身にもつながる訳だ。

例えそれが時代の流れで、食い止められないとしても、―――森田慎治は、みじめに破滅して、この世から消えてくれるのが、せめてもの彼らの正義で、彼に対する報復だった。



それぞれの思惑が渦巻く記者会見場の中では、弁護団による意見陳述が続いている。

それらの意見は決まりきった物で、マスコミが大きく取り上げる事はないだろう。

例えば、権力者の不当介入を非難する者、―――プロテクト社の不誠実な対応を責める者、―――慎治の婚約者に対する襲撃事件を非難して、犯人逮捕の協力を世間に訴える者、

―――実に様々だったが、その意見はかたよったものだった。


そんな中で、慎治は自らの半生を思い返していた。

里香の件を別にすれば、弁護士達の意見は彼の心に響かなかったし、―――もう研究者としての使命を終えたと考えていたから、地位や名誉やお金を失う事については、何の未練もなかったからだ。


時折、フラッシュがたかれる様子を見て、彼は小さい頃にがれきの隙間から見た、自衛隊員が照らす懐中電灯の明かりをイメージした。

それはまさに希望の光で、もし半日でも救助が遅れていれば、彼の人生はそこで終わっていただろう。

自分と母親の命以外は全てを失ったが、母はそれをすごく感謝していた。

仮設住宅で暮らすようになって、…家はすごく貧乏だったが、自分も世間の役に立つ人物になりたいと、幼心に誓った。


母は、当初こそ生活保護を受けたが、慎治が小学生になって子育ての手が離れると、必死になって働きだした。

そんな母が彼の誇りだったが、その頃が彼の一番苦しい時期でもあった。

肌の色や、縮れた髪の毛が日本人とは異なり、―――思考速度や感覚がクラスメート達と合わなかった彼は、『宇宙人』だと言われて学校でいじめられていたからだ。

そんな事は母には告げられず、苦しんでいた彼を救ってくれたのは、当時の担任の女性教諭だった。

学校で孤立していて、家に帰っても一人で寂しかった彼を、その優しい先生が『森田君、図書委員になってみない?』と、誘ってくれたのだ。


嬉しかった彼は、小学一年生にもかかわらず、学校の図書室に入り浸りになった。

そんな彼を助けてくれたのが、図書室にある、たくさんの本とネットに繋がったPCだった。

なぜなら、本は彼を責めない、―――世界中の色々な話や、知らない事を発見するのは楽しい。

夢中になった彼は、小説を読む事で自分と他人の違いに気付き、今まで人の気持ちを完全に理解出来なかった事を自覚した。


寂しかった彼は、何とかしたかった。

まだ幼かった彼は、人に嫌われて独りぼっちになる事を恐れ、友達を作りたかった。

でも、自分の感覚に頼る事は出来ない。


それならば、他人の言動を観察して、思考や動きをパターン化して、自らの対処法を決める事で、処世術を身に付けるしかないだろう。

結果的に、人畜無害な行動を表面的に身に付ける事が出来て、彼は普通の子供の振る舞いを身につける事が出来た。

今思えば、当時は、かなりぎこちなかっただろうが、少なくても現在の自分は、普通の大人として対応出来ているはずだ。


もう一つ、彼を助けたものはPCで、―――彼の目を開かせて、視野を広げさせた。

世界中に広がるネットの世界は、彼の想像力を自然に刺激する。

だが、英語を勉強しなければ、読めない文章が多すぎる。

彼は優秀だったので、一年も経たずに英語をマスターした。

英語を身に付けた後は、ドイツ語、フランス語、―――最後は北京語まで習得して、ネットに広がる情報を乾いたスポンジが水を吸収するように身に付けて行った。


この頃になると、彼は勉強する事が楽しくて仕方なかった。

そして、人より恵まれた優れた知能を生かして、将来は学者になって世間に恩返しがしたいと考えるようになった。


勉強が出来れば、貧乏で人の心がわからない自分でも成功出来るなんて、素晴らしい事だ。

この喜びを皆に実感して欲しい。

だからこそ、その夢を実現させる事は、彼の使命になった。


結果的に、脳内バイオチップと思考プログラムを完成させて、彼の研究は完成した。

思考プログラムは、完璧とは言えない物になってしまったが、この世の出来事はままならないものだと実感していた彼に、大して未練はなかったのだ。

だから後の人生は、個人の幸福を追求しても許されるだろうと考えていた。

―――それは、かなり難しくなってしまったが、簡単にあきらめるつもりはなかった。


彼がそんな事を考えている間に、記者会見はマスコミとの質疑応答へと変わって行く。

慎治は頭を切り替えて、開発責任者としての最後の仕事を果たす事にする。

慎治に対する記者からの質問が、司会者役の弁護士の指名により、次々と投げかけられる。


「森田教授の責任の取り方は間違っていませんか? 今後も新たな研究成果を世間に示す事で、被害者達や世界中の人達に貢献する方法をとる事こそ、あなたの役割ではありませんか?」


慎治は、落ち着いて答える。


「それは、少なくても被害者達への責任の取り方では無いと考えています。医師の見解では、改変された人格は、決して元には戻らないと言う事です。これは、新たな成功によって償えるものではありません。私は、せめて被害者家族が笑って過ごせるようにならないと、研究者としては決して許されないと考えています。それが永遠に訪れないのならば、せめてもの責任の取り方として、研究者としての道を閉ざす事を自らに課すことしか出来ないと思っています」


「そこまでする必要があるんですか? 今回の事件は、明らかにプロテクト社が被害の拡大をもたらした事は、誰も疑っていませんよ? 当社の取材では、被害者の人格は穏やかになったと言う意見が多いですよ? 家族の中には、感謝しているという意見まであります。しかも私の知る限り、被害者で、あなたを責める人は一人もいませんでした。謹慎後の再起を真剣に考えるつもりはありませんか?」


「ありません。被害者から非難されない事実が、事件の深刻さの度合いを表していると感じています。私が逮捕される前に、海外で被害者家族と面会する機会が何度かありました。機械を愛した訳ではないと言う奥さんの言葉や、息子とどう付き合っていけばいいかわからないと言う母親の言葉は、…本当にこたえました。中には喜んでくれる人がいるとしても、…私の罪が許されるとは、どうしても思えません」


記者達の意見は、おおむね彼に同情的な物だった。

これは、弁護団の仕込みによる部分も大きいが、彼が打ち出した責任の取り方が、記者達の予想を超えるものであった事も影響している。

もちろん、中には彼を責める内容の物もあった。


「本当にあなたは、人を実験動物のように扱っていなかったと断言出来ますか? 脳内バイオチップや、まして思考プログラムの導入には、様々な反対な意見があった事は事実です。それを無視して研究をし進めたのは、大それた野望があったという意見まであります。

 …そして、結果的にそれは正しかった。工業製品であるはずのバイオチップが意志を持ち、人の思考を操るなんて、あなた以外には予想すら出来なかった。世間の中には、あなたを新世界の神だと言う意見まであります。歴史に名を残して、多くの被害者を出した感想を聞かせてください」


慎治のポーカーフェイスは崩れない。


「研究者や開発者と言うのは、安全性を最大に配慮するべきだと考えています。それを結果的に犯した私は、そのような意見に対して、言い訳出来ないとは思います。

 …ですが、私が意図を持って事件を起こしたと言う意見だけは否定します。そのような事は、予想すら出来ませんでした。それに、新世界の神だなんて、とんでもない誤解です。結果的に脳内バイオチップ内に生まれた思考情報体は、極めて不完全な物でした。人の脳内以外では生きられない存在なんて、倫理的に許されません。だから、彼らが意志や感情を持っていると仮定しても、殺さざるを得ませんでした。だから、もし私が歴史に名を残すとしても、それは悪名に過ぎないと思います」


中には、下世話な内容でプライベートに関する物もあった。


「あなたの婚約者、――香川里香さんとの破局が一部の報道で流れていますが、その真相を聞かせてください。もし本当ならば、その理由も聞かせてください。傷ついた婚約者を捨てるなんて、人として許されないと思いますが?」


九門弁護士が「プライベートな事は、この記者会見の趣旨に反します」という意見を手で制して、慎治はその質問に答える。


「本来なら、その事を発表する必要はないと思いますが、……婚約破棄は事実で、私から申し入れました。それに対する理由は色々ありますが、ノーコメントとさせていただきます。人として許されないと言うのなら、その通りだと答えるしかありません。今は、彼女の怪我が一刻も早く治る事を祈るだけです。

 …いずれにしても、もう彼女と私は無関係なので、これ以降はその質問に答えるつもりはありません。彼女はもちろんですが、私も、もう一般人に過ぎないので、過剰な取材に対しては今後は法的措置を検討します。これに関しては、全く容赦するつもりはありませんので、あしからずご了承ください」


続けて似たような質問が飛ぶが、慎治は完全にそれを無視した。

冷静に考えれば、慎治の言い分は当然だった。

今までは、税金が投入されている研究所の所長と言う立場だったから、半公人はんこうじん扱いだという一部の意見も無視出来なかったが、これからは関係ない。

だが、きっと悪く書く芸能マスコミもいるだろう。

それこそが慎治の目的で、世間の悪意が自分に向くなら、その方が良かったのだ。


20件近い質疑応答が繰り返され、会見開始から一時間半近い時間が経過した後、―――九門弁護士がマスコミに向けて告げる。


「…それでは、森田教授には一足早く退席していただきます。本日の午後に釈放されたばかりで、とても体調が悪いのは、ご覧になっていただければわかるでしょう。これ以降は、弁護団が全ての取材に対応します。先ほども本人から説明がありましたが、もう森田教授は、一般市民に過ぎません。これ以上の過剰な取材に対しては、弁護団が全力で彼を守ります。一方的な報道に対しては、訴訟についても辞さないので、それ相応の覚悟を持って取材して下さい」


慎治の顔色は、明らかに悪かった。

薄黒い肌色が青みがかっているし、目に力も無かった。

長期間の拘留と取調べ、―――記者会見の緊張と母の状態への不安、―――改めて突きつけられる自分の責任を自覚し、肉体的にも精神的にも疲弊しきっていた。

それでも、一部の記者から質問や怒号が飛ぶが、彼は最後に立って深く一礼すると、控室に向かって歩き出した。

だが、その時! ……一番後ろに座っていたフリーの記者から、信じない言葉が発せられる。

その大声は、不幸にして彼の耳に届いてしまった。


「森田さん! あなたの母親が、先程、病院で亡くなったそうですよ? 何かコメントはありませんか?」


……一瞬、会見場が静まり返る。

慎治は、信じられない物を見る表情で、そのフリーの記者の方向を見る。

すぐに我に返った九門弁護士からの緊迫した声が、マイクを通じて会見場に響き渡る。


「君、一体どういうつもりだ! いいかげんな事を言うんじゃない!」


「いいかげんじゃないですよ! 私の知り合いの記者が、病院まで同行して確かめた事実です。何なら、確かめてみればいかがですか?」


「…そうだとしても、今それを言う必要があるのか? 君は何を考えている!」


「質問の機会が無かったので、仕方なくですよ。先ほど、これ以上の取材は駄目だと言ったのはあなたでしょうが! 私達は、その記者と同行した女性から頼まれて、森田氏に事実を伝えると約束しましたからね」


慎治は、悪夢の中を歩いているような足取りで、その悪意に満ちた記者の元へ歩み寄る。

フラッシュが、絶え間なく浴びせられるその表情は、筆舌に尽くしがたいものだった。


「…それは、本当ですか?」


サングラスと帽子をかぶったフリーの記者は、目深まぶかに帽子をかぶり直してから、皮肉げに顔を歪めて答える。


「ああ、確かだよ、森田さん。あんたの実家に貼りついていた記者が言うんだから間違いない。昼過ぎに、友達だという袴田はかまだという女性が家に訪ねて来て、部屋に上がった時は心肺停止状態だったそうだ。その後、急いで病院に運んだそうだが、見るからに手遅れだったらしい」


「…そう…です…か」


慎治は、それ以上は会話をかわさずに、黙って振り返ると、―――震える足を引きずって控室に帰ろうとする。

一刻も早く、その事実を確かめる……、いや、母の元に駆けつけなければならない。

目の前が真っ暗で、どこを歩いているかさえもわからない。

辺りはとても静かで、まるで音の無い世界を歩いているようだ。

今にも気を失いそうだが、そんな事は許されない。

母に会いたい、―――彼を支えているのはそれだけだった。


「森田!」


今にも崩れそうな慎治を飛び出してきた九門弁護士が支える。


「…行かなくちゃ、…母さんが待ってる」


焦点が定まらない目でつぶやく彼の肩を支えながら、九門弁護士が涙を流す。


「ああ、行こう。…ここは、君の居るべき場所じゃない」


二人の中年の男が、葬送行列のように会見場内を歩いて行く。

その様子を稲妻のようなフラッシュが見送る。

回り込んで、うつむいた慎治の顔を屈みこんで撮るたくさんのカメラマン、―――それを見た記者達や弁護団から怒号が飛ぶ。

会見場は大混乱に陥り、司会者役の弁護士から、会見の打ち切りの言葉が発せられる。


慎治には何も聞こえず、―――何も見えなかった。

肩を九門弁護士に支えられて歩いているが、それさえ気付かなかった。


「…行かなきゃ、母さんが心配している。…僕を待ってる」


「ああ、そうだ。すぐに行こう。…すまない、…森田、…私が間違っていた」



この日、森田慎治は、自らの潔白と世間の同情とを引き換えに、全てを失った。

第一線の研究者としての地位や名誉、大切な婚約者、そして唯一の肉親である、かけがえのない母親、―――多分、今後の幸せな生活さえも。


それでも、一部の人達は、ざまあ見ろと笑うだろう。

あるいは、母の死を利用して、上手くやったと罵倒するかもしれない。

それは悲しいが現実だ。

世の中には、家族が死んでお金が手に入った事を喜ぶ人も、―――それを見てうらやましがって、やっかむ人もいるのだから。



―――――――――――――――――――――――――



慎治の母親、森田節子もりたせつこの密葬が執り行われたのは、それから四日後の事だった。

記者会見を終えた彼が、九門弁護士が運転する車を飛ばして病院に駆けつけた時、

―――もう母の体は、冷たく硬くなっていた。

優しい表情で、彼は何度も母の顔をさすった後、―――その場に崩れ落ちた。

その後、同じ病院に入院し、―――ようやく体調が回復したのが、三日後の昨日だったのだ。



お葬式は、寂しいものだった。

参列者は、母の友人である数名の近所の人と、桑田と慎治だけだった。

様々な事情を考えて、親しい人達だけの密葬にしたからだ。

香川家からは弔電ちょうでんだけが届いたが、…それは仕方が無いだろう。

いま彼らが優先する事は里香の回復で、元婚約者の不幸まで抱え込むなんて出来ない。

里香に節子の死を伏せなければ、何が起こるかわからないのだから。



火葬を終えて、母のお骨を拾って、彼が手にした骨壷こつつぼは、両手に収まるくらいに小さくて、―――うつろなくらいに軽かった。

実家の仏壇にそれを置いて、手を合わせた彼は、ここ数日の事を思い返していた。


母の死が確認された病院で、慎治が入院を余儀なくされていると、母の友人の袴田さんが彼の病室に訪ねて来て、―――何度も頭を下げて、泣いて謝罪してきた。

慎治は彼女を一つも悪く思っていなかったので、逆に頭を下げて、辛い思いをさせたことを詫びた。


袴田さんの話を聞くと、母の死の真相は単純なものだった。

重度の脳内出血が原因で、恐らく里香の容態が新聞に発表された事が、更に母にストレスを与えて、―――結果的に命を奪う事となったのだろう。

母を発見した袴田さんの話では、―――彼女が母の家を訪ねた時、玄関の鍵が空いていて、返事が無かったのを不審に思った彼女が家に上がると、母は台所で倒れていて、すでに助からない状態だったそうである。

動転した彼女が家を飛び出すと、そこに実家に張りこんでいたフリーの記者が現れて、彼が乗ってきた車で、母を病院に運んだそうである。

そこからが問題で、―――慎治に連絡しようとした彼女に対して、その男はささやいた。


『あなたは、彼女に付いていた方がいい。森田さんへの連絡ぐらいは私が取ります。ちょうど私の知り合いが、彼の側で取材をしている。急いで伝えるように言うから、息子さんが来るまで、あなたが彼女を見守っていてやりなさい』


この表面的に優しい言葉を、田舎に住む人の良い彼女は、すっかり信用してしまった。

辛い事実を慎治に伝えるのは重荷だったし、『病院内は携帯禁止』の習慣が残っていたのも悪かった。

電源を切っていたから、慎治の呼び出しは彼女に伝わらなかったのだ。


そして、悪意は悪意を呼ぶように、類は友を呼ぶ。

会見前に全てを知っていたフリーの記者は、会見の中止を恐れてそれを黙っていた。

そして、慎治が退席する際に、満を持して知らせたのだ。

彼が傷つくのを写真にとって、彼を憎む人達に売りつける為に……。

その目論見は、完全に成功したと言えるだろう。

何せ彼は、悪名高いフリーの記者で、失う名誉など何もなかったのだから。


そして、その悪意は、故郷の人達のマスコミに対する不信を増大する。

不幸な家族の心をもてあそんだマスコミへの取材方法に対して、故郷の人達は団結して排除しようとしたのだった。

彼らにとっては、慎治は地元の英雄で、その母親も好ましい性格の地域の仲間だった。

取材に来たマスコミ連中と地元の人は深刻に対立し、一触即発の状態になった。

地元の警察官が間に入って何とか事をおさめたが、その感情は今でもくすぶり続けている。


―――だから、慎治は決断する。

これ以上は、地元の優しい人々に負担をかけられない。

故郷で暮らすという選択肢は、彼の頭の中からは消えていた。

母の遺骨をすぐに父の眠る墓に納めて、この好ましい町から去ろうと決断したのだった。


だが、今までの住処すみかには帰る訳にはいかなかった。

桑田の話によると、今まで住んでいたマンションは、酷い具合いに部屋の壁やドアを落書きされていて、窓ガラスが割られていると聞いた。

急いで彼は大家に連絡を取ると、―――はっきりとは言われなかったが、大家は彼が出て行く事を望んでいる。

彼は迷惑をかけたお詫びに、修繕費用をすべて出すと約束して、二部屋分の退去を申し出る。


『すまないねぇ、…そうしてくれると助かるよ。マンションの住民の半分近くが、怖がって出て行ってしまったんだ。本当は、損失を君に請求したいくらいだよ』


そう言われた彼は、九門弁護士に連絡を取って、大家さんとの仲介を頼む事に決めた。

これ以上のもめ事は、もうたくさんだった。



もう彼は、世間的に見れば天涯孤独の身の上だった。

しかし、彼と世間を繋ぐ絆は確かに存在している。

まだ彼を支持してくれる多くの人、―――優しい故郷の住人達、―――そして、信頼できる友人達、―――もちろん、里香の事も決してあきらめてはいなかった。


新しい住処も決まっている。

桑田の親戚の家があるひなびた山奥の村が、つい最近、廃村になって、その家を桑田が手に入れたそうだ。

そこに、慎治を人目から避けるように住まわすという計画を彼から持ちかけられたのだ。

行くあてのなかった彼は、親友の意見に従う事にした。

そうすれば、少なくても他人に迷惑をかけなくても済むだろう。


母の教えは、『人に迷惑をかけずに、一生懸命に生きなさい』

その意志に従う事が、何よりの供養であると彼は考えた。


…そうだ、今は嵐が過ぎ去るのを待とう。

信頼できる友人達に大切な人達を託して、じっと我慢しよう。

例え全て壊れていても、一つずつ石を積み上げるように生活していけばいい。

きっとそれくらいは、許されるだろう。

まだ、彼の人生は終わってはいないのだ。

頑張って、頑張って、生きて、生き続けて、―――最後は笑って死にたかった。



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