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第07話


香川里香かがわりかの父親である香川隆二かがわりゅうじが、森田慎治もりたしんじがいる拘置所こうちしょに面会に来たのは、翌日の朝の事だった。

昨日、九門くもん弁護士からその事を伝えられていた慎治しんじは、看守に連れられて面会室に向かう。


慎治が『香川のおじさん』と呼んでいる隆二りゅうじに最後に会ったのは、もう1年以上も前で、―――それは二人の結婚を認めてもらう為に、里香と一緒に香川家に訪問した時の事だった。

客間に通された慎治が、『里香さんと結婚させてください! きっと幸せにします!』と、彼女の両親の前で頭を畳の上にすりつけて言うと、、……しばらくの間、黙って考えて、『…わかった、娘を幸せにしてやってくれ』と複雑な表情をしながらも二人の結婚を認めてくれた。

彼の1年前くらいの状況を考えると、反対されてもおかしくないとは思っていたから、内心でホッとして喜んでいると、里香がその横でニッコリと笑ったのを覚えている。


『そやから言うたでしょ? 心配せんでも大丈夫やって。うちのお父はんは、婿養子むこようしで苦労してるさかい理解があるんよ。それに、慎ちゃんと同県の港町出身やから、他人とは思えへんって言うてたもん』


隆二には、里香のようななまりがない事は知っていたが、そんな理由だとは思わなかった。

身もふたも無い言い方に、隆二が気まずそうに顔をそむけていたのを昨日の事のように思い出せる。


……だが、今は過去の良い思い出に逃げる訳にはいかない。

長くても後三日以内に釈放されるはずの彼をわざわざ訪ねて来たというのは、決して良い知らせでは無いだろう。

真っ先に思い当たる事は、婚約者である里香の容態が、慎治が思っているよりかなり深刻な状態である事くらいだ。

何を聞いてもいいように覚悟を決めてから、彼は面会室に通じるドアのノブを回した。



面会室の透明なアクリル板の向こうの椅子に、隆二はすでに座っていた。

久しぶりに見る隆二の姿は、明らかにやつれていた。

頬はこけ、目の下にくまが出来ていて、顔色に生気が無い為、―――以前会った時よりも10歳は年を取っているように見える。

一目見てたまらなくなった慎治は、隆二の前に急いで歩み寄ると、90度に腰を曲げて深々と謝罪する。


「申し訳ありません! 全ては僕の責任です!」


謝って済むとはとても思えなかったが、今はそれしか出来ない。

本当は土下座をしても足りないとは思っていたが、それでは隆二の声も聞こえないし、自分の姿も相手からは見えないだろう。

それではまずいのだ。―――『幸せにすると言ったじゃないか!』、約束を守れなかった娘の婚約者を父親は責める権利があるのだから。

だが、隆二はそんな感情的な態度は表わさずに、疲れ切った様子で慎治に言葉を返す。


「…頭を上げなさい。そんな事をしてもらったら、私が娘に怒られるよ。…それに、面会時間は10分しか無いんだ。…今は時間がおしい」


低く響く隆二の声は、何の感情も感じない機械のようだった。

慎治は、弾かれたように素早く頭を上げると、―――奥歯をかみしめて、椅子に腰かけて隆二と対面する。

自分の申し訳ない気持ちなど価値はなく、里香の容態について聞きたいし、これからの事についても話さなければならないから、確かに時間が無い。


「香川のおじさん、里香の容態はどうなんですか? ここには何も伝わってこないから、心配で仕方ありません」


慎治の必死な声を聞いた隆二は、悲しげに顔を歪める。

そして、平静を装いつつ、重苦しい声で告げる。


「娘は、両足首の骨を折られていてね…、喉もつぶされているから声もろくに出ない。全身に暴行の跡が酷くて、…内臓や全身の骨を骨折しているから、少し回復したら…何回かに分けて、…手術を受ける必要があるんだ。…顔も……、酷い物で…、再生手術と整形が必要だという話だ。…元通りになるかどうかは、まだわからないと担当医が言っていたよ。

 幸いにして、脳波に異常はないそうだが、…ショックが大きくてね、…少し記憶が混乱しているんだ。娘は、…交通事故に合ったと思っているらしい。…亡くなった…警備員の女性の事も、自分に…何があったかも覚えていない。……いっそ、思い出さないでいてくれると、…ありがたいんだが」


時々、声を詰まらせながら話す隆二の話に、慎治は言葉も無い。

いったい、どれ程の暴行を受ければ、そんな状態になるのだろう?

IPS細胞技術で、皮膚や眼球等だけでなく臓器の一部の再生まで出来る時代だが、人の体は機械では無いのだ。

元通りに治るかどうか分からないと医者がいうなら、相当ひどい暴行を受けた事は間違いないだろう。

慎治は、膝の上で手を固く握りしめながら、声を絞り出す。


「…もうすぐ、僕はここを出られるそうです。……里香に会いたいんです。彼女がどんな状態でも、…僕は会いたい。

 …でも、きっと迷惑になると思います。…だけど僕は、声をかけて、励ましてあげたい。手術の前に笑って、大丈夫だと言ってあげたい。…いつ会うかは、全部おじさんに任せます。だから、勝手を言いますが、―――お願いします!」


再び頭を下げる慎治の願いに、隆二は少しだけ救われた表情をする。

『きっと君ならそう言うだろうと思っていた』という感じの顔だが、頭を下げている彼にはわからなかった。

それから慎治が顔を上げるのを待って、―――顔を紅潮させながら返事をする。


「娘は、君に会いたいけど会えないと言っていたよ。…みっともない姿を見られたくないそうだ。…慎治君の気持ちはわかるが、精神科の医者の話でも、もう少し落ち着くまでは、面会は認められないそうだ。

 …私が、君に娘の容態を話したのはね、…今日の午後に、医師団から、マスコミに向けての記者会見をするという理由からだよ。新聞を見て、…君がショックを受けないようにね。…それに、犯人が誰かも、昨日、…警察から知らされた。今日中に、指名手配されるそうだ。…娘の体内に残っていた、…精液から…、特定されたそうだ。…意味は、…言わなくても、わかるだろう?」


「……は…い」


かすれた声で、それだけしか、慎治には答えられなかった。

最悪の予想は……していた。

覚悟も、……したつもりだった。

だが、里香の気持ちを思うと、……あまりにも辛すぎる。


それに、隆二だけでなくて、里香の家族の事を思うとやり切れない。

詳しい暴行の事実までは公表されないだろうが、このような事は、―――本当ならば、世間になど公表して欲しくない事実だ。

だが今回の襲撃事件は、良くも悪くも世間から注目されている。

ようやく彼女が、命に別状が無い所まで回復したから、あえて発表するのだろう。


これは恐らく、犯人がまだ捕まっていない事に関係しているのだろう。

犯人の指名手配と同時に里香の状態を発表すれば、ニュースや新聞紙面での取り扱いが大きくなるはずだ。

世間に犯人の酷さを訴えて、情報をつのる目的があるから、医師達による記者発表は隆二にとっても苦渋の決断なのかも知れなかった。

二の句が継げない慎治に、―――隆二は自嘲の笑みを漏らす。


「…なあ、慎治くん。私は、……私達は何を間違えたのだろうな? 娘が何をしたって言うんだろうな? …私には、君が悪いとは、どうしても思えない。……本当に、何がいけなかったんだろうな?」


慎治を全く責めず、娘を案じる父親の言葉が、彼の心と体を―――まるで真綿のように締め付ける。

苦しくて、苦しくて、……息も出来ない。

いっそ、娘のかたきのように責められて、思いっきり罵倒された方が、きっと楽だろう。

なぜなら、誰よりも彼自身が罪の意識を感じているのだから。

慎治は血を吐くような思いで、怨嗟えんさの言葉をつむぎだす。


「…僕は、犯人達をどうしても許せません! 里香の体と尊厳を傷付けた相手には、必ず報いを受けさせます。決して、…逃しません」


「ああ、私も妻も卓巳たくみも…、家族全員が同じ気持ちだよ。…とても鬼畜きちくどもを許せそうにない」


しばらくは、面会室に沈黙が支配する。

日本人の中でも、極めて温厚なはずの二人が、心の底から怒っている。

本当ならば、この二人は人を怨むタイプではないのだ。

慎治の無意識に握りしめた手のひらに爪が食い込んで血が流れるが、気にもならない。

隆二のかみしめた唇からも、血がにじみ出す。

里香を愛する二人の怒りは、それほど大きかった。


だが、時は待ってはくれない。

隆二はチラリと腕時計の時間を確認すると、決意を固めた様子で、唐突に切り出した。


「なあ、慎治くん。…娘との婚約を解消してくれないか? 君の方からでなくては、娘は納得しないだろう。あの子には、頃合いを見て私達から報告する。…頼む、この通りだ!」


そう言って、突然頭を下げる隆二。

慎治は、あわてて声をかける。


「香川のおじさん、頭を上げてください。一時的な婚約解消は、僕だって考えていました。里香さんから敵の目をそらす為にも、いっそマスコミに偽情報をリークする方がいいとも思ってます。結婚は、彼女の精神や肉体が回復してからでも、全然遅くはありません。その頃には、世間だって落ち着いていますよ」


隆二は彼に目を合わせないまま、とりつかれたように何度も首を横に振る。


「そうじゃないんだ! …そうじゃないんだよ。もう、娘と合わないでくれ! もう、私達に関わらないでくれ! もう、勘弁してくれ! …君が悪くないのは知っている。娘だって望んでいない。だが、私と妻が耐えられない。…そして、きっと娘もそうなるだろう」


慎治は驚いて、細い目を見開く。

これは完全に想定外だった。

呆気に取られている彼に向かい、―――隆二は苦渋の表情で言葉を重ねる。


「…妻は、娘の様子を見て、駆けつけた病院で倒れたよ。今もまだ、ショックから抜け切れていないんだ。私だって、夜は心配で眠れない。卓巳たくみが何とか踏ん張っていてくれているが、もう私達は限界なんだ。

 …それに、娘だって、今は落ち着いているが、どうなるかなんてわからない。見知らぬ男達から犯されて、…体をぼろぼろにされて、普通でいられる訳ないだろう!

 …慎治君、あの子は、…普通の子なんだよ。君の人生に付き合って生きるのは、…もう無理なんだよ!」


困惑した慎治は、どう言葉を返していいかもわからない。

自分は確かに頼りないが、香川家の力になりたいと思っているし、今の状態の里香を見捨てるなんて、絶対に出来なかった。

きっと看病で疲れているせいで、隆二の心からの言葉では無いと予想した彼は、逆に冷静になった。

どう考えてみても、これは時間を置いて話すべき事柄で、今決めるなんて事は間違っていると思う。


「香川のおじさん、―――今は会わない方がいいというのはわかります。里香の考えが変わる可能性だってあるし、奥さんの事は申し開きも出来ません。

 …だけど、もう少し時間をください! 僕は、もう研究者として目立つ事はしません。落ち着いたら、里香さんと幸せな家庭を築きたいだけなんです。彼女がどんな状態でも、僕は耐えられます。これ以上の悪意からも、きっと彼女を守って見せます。今は彼女を支えたい、―――それだけなんです!」


慎治の言葉に、隆二は彼を見返すが、焦点が合っていなかった。

その目は、地獄の淵を見て来たかのような暗くて濁ったものだった。


「娘は、……里香は、もう、…子供の産めない体なんだ。まだ、その事は知らない、…言えるわけがない。…あ、あんまりじゃないか!! どんなに君との子供を楽しみにしていたか、君は知っているだろう! …だが、それは無理だ。もう、無理なんだよ。…あの子はきっと耐えられない。君との結婚は、娘にとって地獄だ! 君は良くても、愛情がある分だけ、あの子は自分を責める。里香は、君とは違う! 普通の娘なんだ! 耐えられないんだ…」


力なき父親は、目から大粒の涙を流して顔を手で覆う。

こもった泣き声が慎治の耳に届くが、透明な壁に邪魔されて、手を差し伸べる事も涙をぬぐう手助けも出来ない。

何も出来ない、―――本当に、何も出来なかった。



それからも、隆二の独白は続く。

まだはっきりはしないが、医師の見立てでは妊娠どころか、…卵子が無事な可能性も一割も無いという事だった。

いくらIPS技術が発達していても、人のクローンや卵子の製造は、法律で固く禁止されている事くらい慎治は知っている。

つまり、もうバスケットチームどころか、彼女の好きなフィギュアスケートさえ子供に習わしてあげられないかもしれない。

―――当然だろう、―――もう愛する二人には、愛の結晶は出来ない可能性が高いのだから。


「…だからな、慎治君、君には申し訳ないが、もうダメなんだよ。…壊れてしまったんだよ。何もかも全て、―――君が良くても関係ないんだ。君以外は耐えられないんだ。…もう、私達を開放してくれないか? 頼む、この通りだ!」


隆二が頭を下げる姿を見て、慎治は冷えた心で考える。

普通ならば絶対に認めてはいけない話だろう。

隆二さんは疲れきっているし、香川家の中も混乱しているから、まともな判断が出来ると思えなかった。

まして、そこには里香の意見が入っていない。

もし彼女が、心身ともに壊れていて判断出来る状態でないのなら、まずは自分の全てを使ってでも助けるべきだ。

それなのに、自分が関われないなんてとても認められない。

慎治の認識では、里香はすごく強い人だった。

二人でなら、地獄の淵からでも這い上がって行けると今でも信じている。


―――だが、一方で彼は考える。

自分が側にいて、本当に彼女の為になるのだろうか?

彼には人の心がよくわからないから、里香の気持ちだって正確にはわからない。

それに自分が関われなくても、里香の家族は信頼出来る。

子供を産んで育てるだけが結婚では無いと思うが、その為に自分を責めるという父親の意見も無視できない。

一つだけ間違いないのは、今の自分が表立って行動する場合は、香川家にいらぬ迷惑をかけてしまう事になるだろう。


面会時間はもう残り少ない。

面会は一日一回だけで、時間延長も認められない。

取り急ぎ、決めなければならないだろう。


「里香さんは会えないと言っているそうですが、せめて、釈放後に電話で話せませんか?」


「声が戻るまでは、それも我慢すると言っていたよ。だが、私が怖いのはそんな事じゃないんだ。記憶のフラッシュバックだよ。娘は、夜中に取りつかれたように叫び声を上げる。精神が不安定すぎて、家族の者しか安心して話せないんだ。

 …なあ、慎治君。本当に君と話したいなら、娘はとっくに君に電話したいと言っているはずだ。君の声が聞きたいと言っているはずだ。だが、そんな話は、私達に一切しない。早く治して、君に会いたいと言うだけなんだよ。

 …だから、娘に電話をしないでくれ。会いに来ないでくれ。…少なくても、娘が笑って過ごせる日までは、もう里香に関わらないでくれ」


慎治は深く絶望する。

香川のおじさんがここまで言うなんて、里香が襲われてからの数日で、一体どれほどの恐怖と絶望に直面したと言うのか?

もう、知り合って20年は経つ大恩ある人に、ここまで言わせるなんて、何て自分は罪深いのだ。


慎治は決断する。

今は、彼の言う通りにしよう。―――全ては里香の為になると信じて。


「香川のおじさん、里香さんとの婚約は解消します。もう、こちらからは連絡しません。でも、里香さんから電話が掛かってきたら、笑って応対します。彼女が回復するまでは、婚約破棄については黙っていて下さい。あくまでも、マスコミに対するダミーだと言っておいた方が、良いと思います」


「…すまない、慎治君」


何一つ悪くない隆二が何度も頭を下げる。

やはり、放っておくわけにはいかなかった。


「僕は、香川家のみなさんの事も心配なんです。これ以上は、家族だけで抱え込まないでください。里香さんを支えようにも、家族が不安定なら共倒れします。

 …僕自身は協力出来ませんが、信頼出来る人の力を借りてください。もし、おじさんさえ良ければ、僕の知り合いを紹介します。失礼ですが、お金の事は心配しないでください。襲撃事件が起こった時は、里香さんは間違いなく僕の婚約者で、今の僕に出来る事なんて、それくらいしかありませんから」


「…いくらなんでも、それは…」


「全ては、里香さんの為です。僕の言う事も、一つくらい聞いてください!」


その時、面会の終了を告げる看守の声がした。

慎治は、隆二の目をじっと見て、最後に告げる。

あきらめたくはないが、もう会うのはこれで最後になるかもしれない。


「桑田と九門弁護士に動いてもらって、適当な人を里香に付けてもらうようにします。おじさんが気に入らなければ、いくらでも変えてもらって構いません。いま香川家に必要なのは、信頼出来るプロの力です。家族さえしっかりしていれば、里香さんは絶対大丈夫ですから」


「…ありがとう、慎治君」


「…さようなら、香川さん。…本当に申し訳ありませんでした」




看守に連れられて、独居房に帰る彼の心は、氷のように冷えきっていた。

思考は冴えわたるが、この場所では大した意味など無いだろう。

それに、これからする事なんて決まっている。

九門弁護士と接見して、一刻も早く香川家をサポートする体制を整えてもらう。

金なんて、湯水のように使ってやる。

もう、外国へ行くのも無しだ。

里香がそんな状態なのに、自分が逃げる訳にはいかない。


(最悪に事態に備えよう。釈放後は、故郷の町へ帰ろう。…せめて母さんを支えよう)


里香の状態が新聞に載れば、母のショックは計り知れないだろう。

香川家のように、ピンチの時は家族は支え合わないといけない。


もちろん、犯人を許すなんて出来ない。

簡単に捕まればいいが、―――もし情報が集まらなければ、多額の懸賞金をかけてでも追い詰めてやる。

本心では殺してやりたいが、それは我慢するしかないだろう。

その権利があるとするならば、香川家の人々や、三上小枝子さんを失った遺族の方だと思うから……。



―――その後、九門弁護士と何度も接見して、三日間で全ての体制を整えた慎治は、三カ月以上も暮らした拘置所から釈放されることになった。

彼を完全に犯人扱いしていた一部のマスコミはその情報を聞き付けると、あわてて擁護する記事を掲載するか、あえて沈黙を貫いた。

どちらかといえば友好的な新聞記者たちには、弁護団から情報がリークされ、―――新聞紙上には、『森田慎治は不起訴へ、検察に非難集中』、『悲劇の天才科学者、森田研究所の所長を辞任し、研究所は近く閉鎖の見込み、国内外から惜しむ声が多数』、『婚約者の容態は深刻、挙式の予定は無期延期、婚約解消か?』との見出しが躍る。

それを好機だととらえた弁護団は、釈放後の記者会見をセッティングする。

これから彼に向けられる、世間の非難を少しでも和らげる必要があるからだ。



このようにして、森田慎治の社会復帰への筋書きは整えられる事になった。

その中に、どれ程の真実や本人の意志が入っているかなんて、大きな流れの前では意味を持たなかった。



―――――――――――――――――――――――――



慎治のマスコミ向けの記者会見は、一流ホテルの広間を借りて、釈放後すぐに行なわれる事となった。

細かい打ち合わせが必要だから、少し時間を置くように九門弁護士からは勧められたが、母の元に少しでも早く駆けつけたかった彼が強く要望したので、その日の午後三時から開かれる運びとなった。

釈放に必要な書類にサインをして、独居房に溜まった荷物の手配を終えると、―――お昼の一時過ぎにようやく彼は解放される。


真っ先にしたのは母の携帯への電話、―――だが、繋がらない。

不安に思った彼は、母の近所に住んでいる、友人の女性に電話で連絡をする。

『今日は見てないわ。すぐに確認するから待ってなさい』との返事に更に不安になるが、今はホテルの記者会見場に向かうしかなかった。


いま母には、SP警護どころか、警備会社の警備員も付いていない。

少し前までは慎治が雇った警備員が付いていたが、里香が襲われて、警備員が亡くなったと聞いた母が警護を拒否したと聞いている。

もちろん慎治は心配だったので、かなり強い反対の内容を書いた手紙を拘置所から出していたが、―――母からの返事は来なかった。

九門弁護士がすぐに会いに行ってくれたが、警察官が巡回してくれているし、里香さんと違って自分の顔は知られていないし、土地柄が良くて、他所者が入ってきたらすぐに気が付くような小さな港町だから大丈夫だと言われて、説得は出来なかった。

それが完全に裏目に出たのかもしれない。

記者会見場に向かう黒塗りのバンの中で、三度目の電話が繋がらなかった彼は、横に座る九門に報告する。


「九門、母さんと連絡が取れない。さっき近所の母の友人に電話して、実家に行ってもらっているが、何かあったのかもしれない」


少し驚いた様子の九門弁護士は、しばらく考えてから、自分の考えを確かめるように何度か首を縦に振る。


「……それなら、その人からの連絡を待った方がいい。最悪、記者会見をすっぽかすのは仕方が無いが、マスコミを引きつれて実家に帰るのはまずい。気付いてるだろうとは思うが、車が三台ほど尾行しているし、上空にはヘリも飛んでいる。心配だが、…いっそ記者会見の予定を早めよう」


慎治は改めて考える。

ここから実家までは、車を飛ばしても三時間以上はかかる。

ホテルまでは10分程だから、駆けつけるにしても時間に大差はないだろう。

それに、必ずしも悪い報告だとは限らない。

今日の夜に帰る事は、九門から母に伝わっているはずなのなので、―――もしかしたら、携帯を置いて買い物に出かけているのかもしれない。

母の友人に電話してからまだ15分ほどだから、焦る必要はないはずだ。

慎治は、そう自分に言い聞かせて、九門弁護士の意見に従う事にした。




それから一時間経っても、母や母の友人とも連絡が取れなかった。

明らかに異常事態だとは思うが、状況が確認出来なければ動く事は出来ない。

ホテルの控室で、慎治はじりじりとした気持で待っている。

それを見かねた九門は、彼に提案する。


「森田、…地元の警察に連絡してみよう。私には知り合いはいないが、事情を説明すれば様子を見に行ってくれるはずだ」


「…気が付かなかった。すぐに頼むよ。連絡先は僕の携帯に入っている」

慎治が普通の精神状態では無いと気付いた九門は、彼の携帯からデータを受け取りながら冷静な目で見つめる。


「…記者会見は中止した方がいい。顔色も良くないし、今の君は何を言い出すかわからん」


慎治も自覚はあったのだろう。

いったんは頷くが、すぐに思い返したように首を横に振る。


「……そうかもしれないが、ここまで来て、それはまずいだろ? 僕は出来るだけしゃべらないようにする。…それに僕の肌色じゃ、顔色の悪さなんて気付かれないよ」


考えるまでも無く、依頼人の利益を取るならば、土壇場でのキャンセルは避けた方がいいのは間違いない。

特に、慎治が国内に留まると決めた以上、今回の記者会見は重要な物だ。

内容だけなら代理人である弁護士が発表してもいいが、本人がいないというのは、明らかに心証が悪くなる。

失敗だけは許されないが、ここは慎治を信じて賭けに出る事にする。


「…そうするしかないか。冗談が言えるなら、まだ大丈夫だしな。…だが、はっきりした事がわかれば会見は中止するかもしれん。君は、冒頭の打ち合わせ通りの謝罪だけで、会見を退席した方がいい。後は弁護団に任せておけば問題ないさ」


「いや、僕からしゃべらないにしても、簡単な質疑応答くらいはやるべきだ。駄目だと思ったら、君が中止の判断をしてくれればいい」


「…わかった、そうさせてもらう。想定問答集は頭に入っているな?」


「それだけは大丈夫だよ。昔から記憶力だけはいいんだ」



結局、不安を抱えたまま、予定より15分ほど早く記者会見は強行されることになる。

慎治は少しでも早く地元に帰りたかったし、いくら九門弁護士でも、今さら理由も無く会見を中止には出来なかったからだ。

この時、まだ地元の警察署からの連絡どころか、母の友人からの電話も無かった。

その理由は、これからすぐにわかるだろう。


ただ一つ言えるのは、彼の不幸はこれからが本番だと言う事だ。

現時点では、慎治も九門弁護士も、それに気付くはずもなかった。



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