第06話
森田慎治の婚約者である、香川里香が複数の暴漢に襲われてから3日目の朝、
―――彼女が意識を回復したという知らせが九門弁護士からもたらされた。
命に別状はないと聞いて、拘置所の面会室で九門弁護士と接見していた彼は、ようやく少し胸をなでおろした。
「九門、里香の様子はどうだかわかるか?」
「峠は越えた、意識はしっかりしている、―――だが、面会謝絶で絶対安静との情報だけだ。
…そうだ、香川隆二さんが、面会に来てくれるという連絡が、今朝うちの事務所あてにあった。事務員が応対したから、里香さんの様子は聞けなかったが、知らせに来てくれるんじゃないか?」
「…そうか、香川のおじさんが、……ありがたいな」
しみじみとした口調で話す慎治。
里香の父親である香川隆二は、大学生時代からかなりの間、世話になった下宿の大家だった。
人情味ある性格で、貧乏な奨学生の彼を助けてくれた大恩人でもある。
今回のような事が無ければ、『義父さん』と呼んでいたかもしれない、大事な人でもあった
慎治が昔を思い返していると、九門が珍しく笑顔で話しかけてくる。
「…ところでな、多分、後4日以内にここを出られるぞ。香川隆二さんとは、外で会えばいいんじゃないか?」
聞く限りは朗報だが、慎治の表情は晴れない。
「…また、再逮捕されるんじゃないか? でっち上げは、バカ検事の得意技だろ? …例えば、この前の看守さんへの暴行罪とか…」
あの時、いくら興奮していたとはいえ、看守につかみかかったのはまずかった。
すぐに取り押さえられたから、相手に被害はなかったが、看守には上司への報告義務があるはずだ。
例のいけすかない検事に、情報は伝わっているだろう。
だが、九門弁護士は落ち着いたものだ。
「……それは、でっち上げではないが、胸ぐらをつかんだくらいでは難しいだろうな。さすがに、あの時の事を取り上げるのは、検察側のリスクが大きすぎる。…そもそも、私が黙っていない。
…いいか、森田。君は四件の罪で逮捕、拘留されてはいるが、起訴はされていない。そもそも、90日以上の被疑者拘留が異例中の異例なんだ。裁判官は、これ以上の逮捕状の発付だって認めないだろう。もし、逮捕拘留が認められるとしても、準抗告すれば、今度こそ勝てる可能性が高い。
…いずれにしても、君の生命倫理法違反と傷害罪を起訴しなければ向こうの負けだ。もう、君の処分を先延ばしなんて出来ないんだ。…だが、いくら相手が与党のお抱え検事でも、そんな度胸はないさ。起訴なんかしたら、恥の上塗りで、たぶん担当検事は君の存在を持て余している。政治家は責任を検察に丸投げしているから、検察内部にも不満が高まっている。なんせ弁護団の働きかけで、かなりの国際的な問題になっているからな。君は新聞を読んでいるだろう?」
「ああ、…どうやら僕は、日本人には人気がないけど、国際的な機関や一部の国からは認められているらしい。桑田副所長の話じゃ、逮捕されてから研究所の方にすごい数の励ましのメールが届いているそうだ。…中には亡命を勧めるものとか、生体バイオチップ関連の研究所への正式な要請状も届いているんだってさ。ずいぶんと高待遇だそうだぞ。…今さら行く気なんて無いけどな」
慎治が国際的に認められているという話に、一瞬だけ鋭い眼をした九門弁護士。
しかし、彼は今は触れない。
「…それは、君の努力の結果だよ。特に被害者に対する国際基金の設置と、事件後の対応が評価されている。見る人は見ているという事だろうな」
「…ありがたいな、…当たり前のことをしただけなのに。…じゃあ、本当にここを出られるのか? 被告人拘留に切り替えられて、保釈が認められないなんて事はないか?」
「…君は有名人だ。万が一起訴されても、資産も多いし犯罪歴も無いから保釈は認められるだろう。
だが、さっきも言ったように、君は不起訴処分になるだろう。こちら側は準備万端で、世間の悪評なんて理由では処罰されない。もし君が罪に問われるなら、それは私達では無く、日本の司法の敗北なんだ。君は釈放されて、被疑者補償規程による補償金を支払われて、…それでこの事件は終わりだ。本当なら国家賠償訴訟を起こしたいが、君は望まないだろ?」
「…ああ、もうたくさんだ。僕は一刻も早く、里香の病院に行きたい。面会謝絶で会えなくても構わない。おじさん達の話を聞くだけでもいいんだ。…でも、記者会見をしなけりゃ、きっと記者連中に追っかけ回される。…どうしたらいいと思う?」
九門弁護士は、顎の先に指を当てて、しばらく考えている。
「……ちょっと汚い意見を言うぞ。香川さんに会いに行くなら、記者を引き連れて行った方がいい。香川隆二さんに話を通しておけば、納得してくれるかもしれない。写真を取らせて、会見をすれば、とりあえず奴らは納得する。もちろん、弁護団も君を守る。それ以上追っかけ回すなら、法的な手段に訴えると脅しをかけてもいいんだ」
少しだけ、眉をひそめる慎治。
「…良い方法だとは思うが、僕のせいで入院している里香を利用する気か? そこまでしなくちゃならないのか?」
「…こう言っては何だがな、君が嫌われている理由は、人間味が無いと思われているからだと思う。私に見せた涙の半分でもいいから流してやれば、世論はごろっと変わるぞ」
「…ありがたい話だね。役者が総理大臣にしたいNo.1になるはずだ。だけど残念、…僕は演技で涙なんて流せない。里香の顔を見たらわからないけど、そっちはお断りだ」
「そうだな、そこまでする必要はないだろう。君が病院に入っていく姿だけで、問題ないはずだ。…だが釈放前に、マスコミ対応は決めておいた方がいい。今の所は、香川さんを襲った犯人への非難一色だが、どうせ手のひらを返すに決まっている。それは犯人や香川さんでは無く、…君に対してだろう」
それは覚悟していた彼は、あえて話題をそらす。
「犯人は、まだ捕まっていないんだったな?」
「ああ、そうだ。目撃情報では、スポーツウェアを着た覆面の人物が合計3人、―――いきなり背後から、香川さんと女性警備員を鉄パイプで殴ったらしい。頭を強く打った三上小枝子さんは、まもなく死亡。香川さんは、黒いバンに連れ込まれて、犯人は逃走。白昼堂々の犯行だから目撃者が多い。犯人全員が覆面をかぶっていたから、人相は不明だが、声から見て恐らく若い男。間違いなく計画的犯行だ。…意味はわかるな?」
「犯人の目的によっては、マスコミや世論が転ぶって言うのか? 一人を殺し、一人に瀕死の重傷を負わせた殺人鬼たちだぞ。
…三上小枝子さんは、子供が2人いる40歳くらいの女性だと里香は言ってた。僕への恨みだとしても、彼女は無関係だろ? そんな連中の主張を取り上げるなんて、本当にあり得るのか?」
慎治の正論にも、九門弁護士は首を振る。
「…殺人鬼か、確かにその通りだ。そこまで書く雑誌はないが、大量殺人者と書かれている男が、私の目の前にいる。
…これは仮定の話だが、もし犯人グループが、被害者家族だったらどうなる? 家族を無くす気持ちを、大量殺人者に知らせる目的で、婚約者を襲ったとか言われたら、同情が集まりかねない。
…君が外国を飛び回っている間に、プロテクト社に対する、爆破テロがあったのを知っているか? 未遂には終わったが、犯行声明文がマスコミ各社に郵送されてきた。大量殺人企業への天誅だという内容は、一部のマスコミに受け入れられ、ネットでは過半数以上が賛成だった。…とても理性的な反応とは言えないがね」
複雑な表情で、慎治は答える。
「人格の改変は、人の死と同じか。…加害者としては、一言も無いな。被害者にとっては、不作為も故意も関係ないって事なんだろう。
でも、僕には解らない。人は死んだらおしまいだ。だから、里香が生きててくれて嬉しかった。もし何か障害が出て、性格が変わってしまっても、それは死と言えるのだろうか?」
九門の表情が厳しくなる。
「…今の意見は、他人には話すなよ。そうかもしれないが、世間から加害者だと思われている人物が言うべきじゃない。それに今回の襲撃事件で、もし香川さんの性格が変わっていて、君を嫌いだと言ったらどうする? 君は犯人をより憎むんじゃないのか?」
慎治は素直に頭を下げる。
「…悪かった。それはそうかもしれない。…それが里香の選択の結果ならともかく、他人に強いられた結果なら別だと思う」
「…こちらこそ言いすぎた。君は頭の良い人だ。私がいちいち言わなくても、マスコミの前で不用意な事はいわないだろう」
「いいや、九門の正直な意見は助かる。知ってると思うが、僕は少しピントがずれてるんだよ。注意してくれた方が、今後の参考に出来るんだ。里香や桑田は、いつもそうしてくれている。九門もそうしてくれると助かる」
慎治は、他人の感情がわからない部分がある。
いつもは気にしているが、他の事に集中していたり、気を許した相手だと本音が出てしまう場合がある。
だから、この年になっても注意してくれる友人は、得難い存在だ。
九門弁護士は、フッと息を漏らすと、少し身を乗り出し、声を落として聞いてくる。
「なあ、森田。…さっきの冗談だけど、考えてみないか?」
「何の事だ?」
「海外への移住だよ。釈放後、一時的でもいい、―――今は君が思っているより危険なんだ。釈放されても、君にSP警護が付くかどうかはわからない。どうせSPを付けるなら、海外の方がいいだろう?」
慎治は、細い目をさらに細めて小声で返す。
「本気か? 里香が入院しているんだぞ?」
「もちろん香川さんもだ。体調が戻り次第、出国させる。君なら言葉にも不自由しないし、金にも困らない」
「里香は、英語さえしゃべれないよ。脳内バイオチップのユーザーでも無いから、言葉には苦労するはずだ。そもそも、里香が回復するまで、バラバラに暮らせっていうのか?」
「別に暮らすのは辛いかもしれないが、その方が安全なんだ。マスコミには、婚約解消とでも偽情報を流せばいい。言葉にしたって、彼女がユーザーになればいいだけだ。私は、君の製品を使っているからわかるが、単語さえ覚えれば何とかなる。
…申し訳ないが、桑田副所長も賛成している。…実は、以前に香川さんにも話した事がある。君さえいいなら、それで構わないそうだ。鼻の穴に器具を突っ込むのは嫌だけど、我慢すると言って笑っていた」
「……聞いてないよ。それに、母さんはどうする気だ?」
九門弁護士は黙ってしまう。
恐らく、説得に失敗したのだろう。
…そうだ、母が故郷を離れるなんて考えられない。
親戚と父の墓を守っているのだから…。
慎治は、溜息を一つつくと、九門弁護士に尋ねる。
「母さんは、僕達にそうしろって言っただろ?」
黙って頷く彼を見て、慎治は国立大学の工学部に入学が決まった頃を思い返す。
何の力にもなってやれないと、悲しそうに涙を流した姿が目の奥に焼き付いている。
下宿先に向かう日、―――駅まで来なくてもいいと言ったのに、ホームでずっと手を振って、笑って送り出してくれた母を顔を忘れられない。
大学院を卒業する時、―――桑田とベンチャー企業を立ち上げると報告すると、なけなしの貯金、400万円を使えと通帳を差し出してきた。
使うつもりはなかったが、…母の気持ちが嬉しくて、―――黙って受け取る時に手が震えた。
慎治の研究が認められ、マスコミが母にインタビューの申し込みをすると、『息子の迷惑になるから』と言って、決して表には出なかった。
そうだ、―――本当は聞くまでも無い。
自分にも息子にも厳しい人だが、愛情深い、…優しい母だ。
息子の幸せの為なら、大衆の悪意を身に受ける事もいとわない。
この国に一人残って、じっと耐えるだろう。
故郷の県警は、母の警護を強化してくれているし、自分が残っていても母を守れるとも思えないが、―――だからといって、里香との幸せを優先して、逃げるように国外に出てもいいのだろうか?
慎治には、何が正解かわからなかった。
「九門、…まだ四日あるんだろう? 少し考えさせてくれないか?」
「…ああ、じっくり考えてくれ。君の決断に任せるよ。だが、決断は早い方がいい。釈放後の記者会見での、マスコミ対応も変わってくるからな」
最後に九門弁護士はそう言って、面会室を去った。
慎治もドアを開けて、看守と一緒に独居房に戻っていった。
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もう、すっかり慣れた取調室での事情聴取、―――慎治の目の前に座るのは、取調官の警察の男性だった。
里香の襲撃事件からしばらくは別として、取調官が彼に話しかけてくる事はない。
慎治は黙秘を続けていて、相手も話しかけてこない、―――少し前の状態に戻った訳だ。
慎治は、この無駄な時間を利用して、思考にふけることにしていた。
取調官たちは、始めはこちらの集中を散らすように、色々と音を立てたりして妨害してきたが、もう彼はすっかり慣れていて、思考に没頭出来るようになっていた。
そうなると、相手は無駄な努力はしなくなる。
取調室には時計の音と、2人の呼吸音しかしない。
職務とはいえ、お互いにとって不幸な事に違いなかった。
だが、今日の慎治にとっては好都合だ。
色々と考える内容には事欠かない。
一応とはいえ、里香の命が無事だとわかったから、集中もたやすかった。
……彼は深い思考の渦にのまれていく。
慎治は、今日の九門弁護士との接見で、自分の容姿や性格について改めて考える必要があると実感した。
これほど世間に嫌われるのも、自分の見てくれや、人格による部分が大きいと思ったからだ。
ファッションに気を使うのもいいし、笑顔の練習も必要だろうし、―――いっそ整形するのもいいだろう。
肌の色までは無理だが、彼の顔は世間に知られているので、二重の意味で都合がいい。
今までは研究が忙しくてそれどころではなかったが、これからは時間がある。
里香にも整形してもらうのもいいが、いずれにしても二人で話し合って決めるべきだろう。
後は人格面だが、今まで努力してきた分だけ難しいだろう。
何せ彼の感覚は、人とはズレている。
それを埋めるのは難しかったので、対処法を中心に学んできたのだ。
例えば今朝の九門弁護士との接見で、彼の言った『人格の改変は、人の死と同じとは思えない』という趣旨の発言は、完全に本心だった。
一方で、九門弁護士から、『香川さんの性格が変わっていて、君を嫌いだと言ったらどうする? 君は犯人をより憎むんじゃないのか?』と聞かれた時、『そうかもしれない』と答えたのは、本心ではなかった。
もちろん、襲撃事件は許せない。
二度と起こらないように考えて、対策を講じなければならない。
もし、目の前に犯人が現れたら、絶対に怒りが湧くだろう。
だが、彼女の性格が変わってしまったからといって、犯人達をより憎むかと言えばノーである。
故意に性格を変えようとしたなら別だが、殺そうとした結果、―――生きて性格が変わったとても、憎しみが増えるとは思えなかった。
もし、里香が植物状態になっていても、生きてくれるだけでも嬉しい。
どんな状態でも里香は里香だ。
話せないのは悲しくて仕方ないが、―――彼女の価値が減ったりしない。
それは極端にしても、もし性格が別人のようになっていても、彼は彼女を愛し続けるだろう。
もちろん、他人によって性格が変えられたのなら、まずは治す努力をするべきだ。
もしそれでも、人の手で治せないならば、その結果は受け入れるべきだと彼は思っている。
新しい二人の関係を構築していけばいいだけだ。
だが、嫌いだと言われれば、話は別だ。
彼女の意志は、尊重しなければならない。
別れるべきだと思うし、犯人をより憎むかと言えば、少しはそう思うかもしれないが自信はない。
一方で、性格が変わった里香を自分が許せなくなる場合も否定できないかもしれない。
努力はするべきだが、そうなれば関係を清算した方がお互いの為だ。
お金や謝罪が必要だと言われれば、目の前の里香に対してでは無く、以前の里香に対して払えばいい。
つまり、決して放りだすのでは無くて、お互いの将来を見据えて、発展的に解消した方がいいと考えていた。
だが、他人はそうではないらしい。
人の気持ちは移り変わっていく。
植物状態になった女性を愛し続けるのは難しいらしい。
性格が変わった女性と新たな関係を築くのは難しいらしい。
今の都合で、過去の自分の考えや生き方までも否定する人までいるらしい。
嫌いだと言われても受け入れられず、相手を困らせたり、犯人に恨みを募らせるらしい。
―――慎治にはわからない。
彼は感情豊かとはいえないが、喜びや楽しみや愛情や好奇心は、きっとそれほど他人と変わらないだろう。
だが、負の感情である怒りや悲しみに鈍く、―――特に恨みや嫉妬という感情は、かなり弱い方だと自分で分析している。
例外があるとすれば、里香や桑田や母親に、何かあった場合だろうが、―――自分に向けられる悪意に対しては、それほど気にならない。
だから、わからないというよりは、弱いとかズレているとかボケているとかという表現が近いだろう。
もちろん、彼だって常識的な事はわかっている。
この世界で感情を得た生命体は少なく、―――人には感情があるから、怒ったり辛かったり苦しかったり悲しかったりするのは当然で、―――無ければ無いで問題があるだろう。
特に自分にプラスになる、明るい感情は大歓迎だ。
だが、恨みや嫉妬だけは恥ずべき感情だと思っている。
無い方がいいと思っているし、まして無関係の他人に訴えるなんて間違っている。
それは結局、自分の感情を制御出来ず、受け入れる事が出来ない気持ちの逃げでは無いだろうか?
違う表現をするなら、心で処理出来ない悪意を敵や他人に向けるというところか?
それは不誠実ではないか?
それで、幸せになれるのだろうか?
この世は諸行無常で、人の力は万能ではないのだ。
恨みや嫉妬という感情自体を否定は出来ないが、人生にはもっと大事な物があるだろう。
いつまで寿命が続くかわからないが、人生は短いし、やり直しなんて無い。
悪い感情に支配されて生きるなんて、御免こうむりたい。
かなり以前、―――大学生時代に、桑田にそんな話をした事がある。
『森田はそれでいいが、相手にそれを求めたら嫌われるぞ』という返事だった。
里香にも、似たような事を話した事がある。
『うち、むずかしいことわからんけど、慎ちゃんが浮気したら、絶対嫉妬するわ』
目つきが怖かったので、それ以上は聞けなかった。
結局、彼は人との共感が下手なのだ。
40年も生きて来てこれだから、―――努力は続けるにしても、大事な場面では得意な人に任せる方がいいだろう。
だから、釈放後の記者会見では、九門弁護士の指示に従う事に決めた。
後一つの決断、―――それは、日本で暮らすかどうかを決める事だった。
婚約者の里香と母親を天秤にかけるなんて最後の手段だから、まずは状況を確認した方がいいだろう。
慎治に対する世間の評価は、更に極端に変化したそうだ。
今回の事で絶対的な信頼は失っただろうが、熱狂的な支持者は数10万人単位で残っていると聞いている。
ただし、敵も同程度はいて、―――今の一番の問題は、残りの一般大衆がマスコミに誘導されていて、無責任な非難を繰り広げている事だろう。
確かに、明確な敵からの悪意は怖い。
だが、それ以上に、大衆の悪意が恐ろしい。
数の暴力に勝るものなど、この世にはそれほど存在しないのだから。
いずれにしても、里香と相談してから決めるべきだとは思う。
次に、里香の襲撃事件についてだが、民間SPの三上小枝子さんと一緒にいる所を白昼堂々行われたものだから、彼女への個人的な恨みという線はない。
間違いなく組織的な犯行で、彼に対する悪感情が彼女に向かったのだ。
明確な敵の仕業か、大衆の悪意が膨らんだ物かは、まだわからない。
相手がわからないから、―――計画的な犯行で、犯人はまだ捕まっていないというなら、今後もどこで何が起こるかわからない。
少なくても、敵の存在を突き止めなければ、海外と日本とどっちが安全なんて言えないだろう。
結局、どの国に住むかじゃなくて、どの場所に住むかの方が大きいだろう。
真っ先に思い付くのは、故郷の町だった。
だが、あんな田舎町では、―――里香はともかく、桑田との仕事が難しいだろう。
これは、自分一人で決める訳にはいかない。
大切な人達との話し合いは、どのみち釈放されてからになるだろう。
あとの案件は、釈放後、すぐに海外へ一時避難するべきかどうかだろうか?
自分自身が恨まれているなら、離れた方が安全だという九門弁護士の意見はわかる。
桑田や里香とは、ネット電話で話し合えば済むだろう。
言葉やお金の問題も、全く心配ない。
著名人の割に、あまり海外に出た事が無い彼でも、一つ二つくらいはよく知る候補地はある。
いっそ、整形してから旅行するのもいいかもしれない。
そこまでしなくても、彼の顔をよく知らない地域に住む方法もある。
亡命はともかく、海外の研究所や大学院を訪れてもいい。
(なんだ、一番選択肢が多いじゃないか。そりゃ、桑田や九門が勧めるはずだ)
つまり、自分の気持ちの問題だ。
里香の側に居れないのは辛いが、今は彼女と母親の安全が最優先だ。
その為には、何だってやって見るべきだろう。
記者の前でみっともなく震えて、海外に逃げるとでもいえば、世間の反感は薄まるかもしれない。
婚約解消したとでも言えば、さらに安全かもしれない。
里香やお互いの両親達との話し合いが必要だが、自分が塀の中にいても、九門なら代理人として上手くやってくれるだろう。
自分が悪く言われる程度の事なら、彼は一向に構わなかった。
候補地があるとするなら、東南アジアが有力だ。
慎治の容姿もそれほどは目立たないし、すぐに日本に帰って来られる。
空港は目立つから、まずはどこかの港から、船で韓国の釜山にでも行くのがいいかもしれない。
だが、釈放後に真っ先に向かう場所は変わらない。
(里香、会いたいよ。…そして、謝りたい。君は許してくれるかもしれないけど、僕は自分が許せない)
まずは、里香の父である隆二に謝ろうと、彼は思う。
今回の一連の事件で、謝るべき人は多い。
思考プログラムで被害を受けた人と、その家族、―――母親と里香と彼女の家族はもちろん、亡くなった三上小枝子と、その遺族たち。
責任は全て果たそうと思う、―――例え今の職業や財産をすべて失っても構わない。
里香と2人で生きて行くだけなら、きっと何とかなるはずだ。
彼は、そう心に決めた。
取調室の中では、無言の二人が事務机を挟んで椅子に座っている。
その様子を記録するビデオカメラが、無駄な電力を消費している。
だが、その時間は、もうそれほど長くないだろう。
検察は、完全にお手上げで、いかにすれば自分たちへのダメージが少ないかを考えていて、慎治には向き合ってさえいないのだから。