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第02話


脳内バイオチップの思考プログラム製品化会議があった翌朝、

森田慎治もりたしんじは、賃貸マンションの2階の自室で目を覚ました。

ここはセキュリティーはしっかりしているが、築20年近く経った2LDKの間取りは億万長者の彼にふさわしくない。

とはいえ、帰って寝るだけの部屋なので、ベットと風呂さえ高級品なら文句はない。

それに、母子家庭で育った彼にとっては、これでも十分じゅうぶん贅沢ぜいたくな部屋だと言える。


「…あ~、久々(ひさびさ )によく寝た」

昔から寝起きの良い彼は、寝転んだまま背伸びをして独り言を言った後、クッションの良く効いたダブルベットから起き上がると、朝の支度を始める。

歯を磨いてからシャワーを浴び、―――服を着替えて居間のソファーに腰掛けると、時刻はまだ朝の8時半だった。


(…腹が減った。…大して働いてもいないのに腹が減るなんて、人の体は不便だな。…でも、冷蔵庫の中にはミネラルウォーターくらいしか無いしな。…SPの人達の手を煩わせるのは申し訳ないから、店屋物てんやものでも頼むか?)


昨日の夜は、自動運転の自家用車での帰り道にコンビニに寄り、―――弁当とサラダを買って済ませたが、今から外へ出かけるのならば、隣の部屋に居るはずのSPに同行してもらう必要がある。

本来の規定では、SPは部屋の外に待機している必要があるそうだが、それではご近所様の迷惑になる。

この部屋は角部屋だし、廊下やベランダには監視カメラが設置してあり、モニターはSPが監視しているはずなので、問題ないという訳だ。

それでも、もし何かあったら、ベランダ越しに隣の部屋に逃げ込むか、敵に挟まれた場合でも窓から梯子はしごを使って一階に降りる事も出来る。

今までそんな事は一度も無かったが、用心に越したことはないという訳だ。

つまり彼は、続きの二部屋を借りている訳だが、身の安全の為には、その程度の出費など痛くもかゆくも無かった。


彼が最新式のスマートフォン型の携帯電話を手に取り、何を頼もうかと店を検索していると、チャイムも鳴らずに玄関の鍵が開く音がする。

そんな事が出来るのは、犯罪者を除けばこの世でたった一人、―――彼の恋人である里香りかだけである。

その推測どおり、玄関ドアがそ~っと開くと、よく見た顔が現れる。

―――とはいっても、会うのは約一ヶ月ぶりになってしまうのだが。

リビングドアのガラス越しに目が合うと、彼女は観念したように居間の中に入って来る。


「おはよう、どろぼうさん」と、彼は笑う。


「なんや、もう起きとったの? せっかく驚かそうと思ったのに。…それに泥棒どろぼうとは失礼やわ。どこに荷物を持って部屋に入る泥棒がいるんよ?」


なまり丸出しで、エコバックを胸の前に差し出し、里香は文句を言う。

昨日の夜にメールをしたので、朝ご飯を作りに来てくれたのだろう。


「それならチャイムを鳴らしなさい。合い鍵を悪用するんじゃありません」

「かたいこと言わんとき。美人のデリバリーサービスは、慎ちゃんには過ぎたもんやないの? 一月もほっぽらかしの彼女が、これくらいで許そうって言うんやから、逆に感謝して欲しいくらいやわ」

「…まことに申し訳ありません。里香様のおっしゃる通りです」


恋人としては落第点の慎治しんじは素直に頭を下げるが、もちろん冗談半分である。

彼女はにっこり笑うと、「よし、許したるわ。じゃあ台所を借りるね。精のつくもん、いっぱい食べさせたるから」と、勝手知ったる風にキッチンの方に向かった。



エプロンを付けて流し台の前に立ち、戦闘態勢に入った彼女の後姿を彼は優しく見つめる。

香川里香かがわりかは、森田慎治もりたしんじと一回り以上離れた27歳のキュートな女性である。

恋人として正式に付き合い始めてからは七年ほどだが、慎治は彼女が小学生の頃から良く知っていた。

そもそも彼女は、近所にある小料理屋の娘で、大学時代からこの古都に住み続けている彼の下宿先の大家の娘でもあった。

つまり、知り合ってからもう20年近く経つことになる。

当時から、『慎兄しんにいのお嫁さんになってあげる』と可愛い事を言っていたが、まさか本当に付き合う事になるとは思わなかった。

そもそも相手は小学生だったし、―――彼はイケメンでは無くて、肌も浅黒いので、女性にはもてたためしがなかったという点も大きい。

里香が完全に本気だという事に、気付くはずなど無かったのだ。



彼女と初めて会ったのは、里香の六歳上の兄である卓巳たくみの家庭教師を引き受けて、香川の家に初めて行った時のことである。

日本で三本の指に入る国立大学に通っていた慎治だったが、母子家庭という事もあり、当時はかなり貧しかった。

人情味あふれる里香の両親は、少し特殊な見た目をしている苦学生である彼を何かと気にかけてくれていた。

店の料理を差し入れてくれたり、人付き合いが得意ではない彼の良き相談相手になってくれたりしていた。

彼が大学院を卒業して、親友である桑田とベンチャー企業を立ち上げてからも、その関係は続いた。

里香はその時、まだ中学生だったが、ずっと下宿先に住み続けている彼の部屋に、しょっちゅう顔を出すようになっていた。

何しろ彼は、研究に没頭し出すと、家事の事がおろそかになる。

小さい頃から生活保護を良しとしなかった母親が夜遅くまで働いていたので、一通りの家事は出来たのだが、生きることに必死だった彼は、それどころでは無かったのだ。


まるで押し掛け女房のように振る舞う里香だったが、当時はどこまで本気だったのか、いま思い返してみても慎治にはわからない。

だが、明るい性格の彼女の存在は、彼にとっては好ましかった。

もちろん、まだ十代で、大恩ある大家さんの娘をどうこうしようと思っていた訳では無かった。


その関係がはっきり変わり始めたのは、彼女が短大生になった18の頃からだろう。

その頃になると、彼の生体コンピュータ技術は世間から認められて、資金に余裕が出て来はじめていた。

ちょうど脳内バイオチップを公表した時期でもあったので、周囲が少々きな臭くなって来ていた彼は、香川家に迷惑がかかる事を恐れ、下宿を変わる決断をした。

その考えに、烈火のごとく怒ったのは里香だった。


『危ないから出て行く? 危険やから家に来るな? 見損なうんやないで! 慎兄のアホ!』

里香の両親が間に入って何とかおさまったが、どういう訳か、新しい部屋の合い鍵を彼女に渡すはめになった。

彼は複雑な気分だったが、同時に心が温かくなった。

その時から、彼女を一人の女性として意識するようになったのだろう。


それからは、二人の関係は加速する。

もう傍目はためから見ると恋人同然の関係だったが、彼と彼女は一線を超えなかった。

二十歳になり、短大を卒業した彼女と恋人同士になり、…まもなく大人の関係になったのは、ごく自然な流れだろう。


『こんなおじさんで後悔しないのかい?』と聞く彼に、

『30過ぎて童貞なんて、本当に魔法使いになってしまうよ?』と彼女は笑って答えた。

それからもう七年、―――次の段階に進むには、十分な時間だろう。

…森田慎治は覚悟を決めていた。



居間の食卓に、彼女の作った家庭料理が並んでいる。

料理の得意な彼女らしい、見た目にも美味しそうで、栄養のバランスがよく取れた物だ。

朝食にしては量が多いが、外出する予定はないので、昼食に回せて丁度いいかもしれない。


「「いただきます」」

手を合わせて、二人で食事を始める。

日本人だから、特に恋人らしい会話をする事も無く朝食を終える。

残ったおかずは、ラップをして冷蔵庫にしまう。

二人で後片付けをしながら、里香は慎治に話しかける。


「ねえ、慎ちゃん。一週間前に、慎ちゃんのお母さんに会ってきたよ。元気だから心配するなって言ってた」

「…ありがとうな。母さんを気にかけてくれて」

「そんなのかまへんよ。慎ちゃんが忙しいのは、うちも節子せつこさんも知ってるもん」


彼の母親の名は節子と言い、―――故郷の町で一人暮らしをしている。

近所付き合いが残る田舎町だから、治安はかなりしっかりしている。

もう年も70近いので、出来ればこの街に呼び寄せたいが、逆に危険かもしれない。

それに、故郷の町には彼の父親の墓もある。

恐らく母は、引越しする気はないだろう。



食器の水洗いを済ませ、後片付けが終わると、二人で並んでソファーに腰を下ろす。

慎治は妙に喉の奥が渇くが、緊張のせいだとわかっている。

これからいよいよ、プロポーズをするのだから。


「里香、今はまだ詳しくは言えないけど、仕事に一段落ついたんだ。僕は研究者として、一線を退くよ。…これからは、少し時間が取れるはずだ」


里香は、目を見開いて彼の方に顔を向ける。

話も唐突だが、研究の虫である彼が、そんな事を言うなんて考えられない。


「うちは嬉しいけど、桑田さんが困らへんの? 慎ちゃんは所長さんでしょ?」


彼女は、彼の親友である副所長の桑田の事をよく知っている。

優秀なエンジニアなはずだが、どちらかと言えば経営者の側面が大きかったはずだ。

彼の研究に付いては彼女はほとんど知らなかったが、慎治に抜けられると困る事は間違いないだろう。


「桑田には、研究所を立ち上げた当時から言ってあるよ。一月前にも確認したけど、問題ないそうだ。…それに、一線を退くと言っても、エンジニアは続けるよ。

 難しい話になるから説明しないけど、僕の生体コンピューターの研究は完了したんだ。後は改良を加える程度にするつもりだ。もう、僕の一線の研究者としての使命は終わったんだ」


それを聞いて、彼女はホッとする。

彼は若く見えるが、来年40歳になる。

生き馬の目を抜くような世界からリタイアしても、不思議ではないだろう。


「慎ちゃんがそうしたいなら、うちはかまへんよ。でも慎ちゃんの事やから、きっとすぐに研究したくなると思うけどな」


「…否定出来ないのが辛いとこだな。でも、もう目立つ事はしない。だから、もうちょっと経って、落ち着いたら…、僕と結婚してくれないか?」


キョトンとした様子で、彼を見つめる里香。

おもむろに頬っぺたをつねると、「…痛い。…夢やないんやね」と、つぶやく。

驚いた慎治が、優しく彼女の手をつかんで顔から離す。


「里香、顔に傷が付くだろ? …僕のプロポ-ズが、そんなに意外か?」


「そやかて、今まで一度も慎ちゃんから言ってくれたこと無いもん。いっつもうちが、勝手してたやんか? 慎ちゃんは優しいから迷惑に思ってるかとおもて、うちは……」


彼女の瞳から涙がこぼれる。

彼は困惑して、急いで立ち上がり、寝室からティッシュを箱ごと持ってくる。

彼女はティッシュを数枚抜くと、『チーン!』と、勢いよく鼻をかむ。


「…うち、みっともなさすぎ!」

意味不明の逆切れをした彼女は、ぼろぼろと涙をこぼす。

彼はおろおろして、何とか慰めようとするが、すぐに逆効果だと気付き、黙って彼女が落ち着くのを待つ。


…それから5分後、ようやく涙がおさまった彼女は、「……顔、洗ってくる」と言い残して洗面所に向かった。

…それから更に10分後、薄化粧を整えた彼女が戻ってきたが、その目は真っ赤だった。

それに触れるほど、彼が無神経では無かったのが唯一の救いだろう。


「…ごめんね、慎ちゃん。…うち、恥ずかしい」

「ぜんぜん大丈夫! 里香は可愛いよ!」

「…でも、いい年して泣くなんてみっともないもん…」

「里香の泣き顔なんて、小学三年生の時以来だから、すごく新鮮だったよ」


必死に慰めようとする彼を見て、彼女はクスッと笑う。


「…それ、覚えてる。うちが慎ちゃんのお嫁さんになるっていうたら、慎ちゃんが『ごめんなさい』って言うたんよ。普通、そんなこと言う? うち、あの時、まだ九歳やったんよ? やっぱり慎ちゃんは、変な人やわ」


完全にやぶへびだったので、「ごめんなさい」と、慎治は頭を下げる。

それだけ生真面目な性格だったと言えるが、若気の至りだとも言える。

それを見て、すっかり立ち直った彼女は、横に座っている彼の肩にちょこんと頭を乗せる。


「なあ、慎ちゃん。うちはまだ27歳やから、いっぱい子供を産めるよ。家族は多い方が楽しいもんな。節子さんのとこにも挨拶にいこ? …うち、気に入ってもらえるように、がんばるから…」


彼女が彼の胸にギュッと抱きつくと、いつも返って来るはずの優しい抱擁ほうようが無い。

不思議に思った彼女は、顔をあげて彼の表情を覗き込む。

困惑した様子の彼を見て、「慎ちゃん、どないしたん?」と尋ねると、

「母さんの所に行く前に、プロポーズの返事を聞かせてくれないか?」

不安そうに尋ねる彼の声を聞き、彼女は大きな溜息をつく。


「…慎ちゃんって、そういう奴やった。うち、興奮して忘れてたわ」


「えーっと? 意味がわからないけど、多分僕が悪いんだな?」


彼女はニッコリ微笑むと、居間のフローリング床の上に正座して三つ指をつく。

驚いた慎治も、ソファーからずり落ちるようにして、その対面に正座する。


「…慎ちゃん、うちをもらってください。妻として大した事は出来ひんけど、慎ちゃんに、いっぱい子供を作ります。野球チームが作れるくらい」


彼は頬を引きつらせながら、小声で答える。


「…せめて、バスケットチームにしませんか?」


「だーめ! うち、タイガースのファンやもん。将来は、甲子園のスターにするんやから」


「…がんばります」


「がんばってね、パパ」


賃貸マンションの2階の2LDKの部屋中に、2人の笑い声が響いている。

今日この時をもって、森田慎治と香川里香の関係は婚約者となった。

これからしばらくの間は、色々と忙しくなるはずだ。



―――――――――――――――――――――――――



それから二週間は、あっという間に過ぎた。

今は午後の二時過ぎ、―――森田研究所を訪れた里香は、慎治を伴なって副所長室に婚約報告に来ていた。


「桑田さん、一週間前の記者会見を見たよ。慎ちゃんの次にカッコ良かったわ」


彼女の元気な声が、部屋中に響いている。

応接セットのソファーに慎治と並んで腰掛けた彼女は、底抜けに明るかった。


「里香の目は曇っているから、信用しないでくれ。…だいたい、僕と啓二けいじを見て、僕をカッコいいという女性なんて、里香以外は見た事が無いんだから」


桑田啓二くわたけいじにそう言う慎治は、確かに美男子ではない。

頭の中身はともかく、見た目は十人並のさえない男だと言えるのだから。

桑田は穏やかに微笑むと、昔を懐かしむような表情をする。


「慎治はそういうが、大学時代はマスコット扱いだったから意外にもてたんだよ。それだけ人畜無害だったんだけどな」


「そうなんよ。慎ちゃんは、目が可愛いんよ。テディベアにそっくりやから、マスコットというのはわかるわ。うちはぬいぐるみが大好きなんよ」


慎治はあごが細く、切れ長の一重まぶただから、どう見ても冷たい感じを受けるのだが、里香の印象は違ったようだ。

これは外国の血が入っているので、日本人にしては少し毛深い慎治が、大学時代に無精ひげを生やしていたからだが、テディベアというよりは目の細い黒山羊くろやぎの方が近いだろう。

惚れた者の欲目だと言えるかもしれないが、彼の理知的な優しい瞳は、確かにそういう部分もあるかもしれない。


「テディベアほど愛嬌あいきょうがあれば、慎治も苦労しなかったんだけどな。……それで、わざわざ里香さんが来てくれたのは、二人で私に報告があるんだろう?」


全てを理解しているかのように、桑田は話の先をうながす。

久しぶりに三人で会うのだからゆっくり話していたいが、今が一番忙しい時期である。

里香に、ひじで軽く小突かれた慎治は、表情を引き締めてから親友に来訪の目的を告げる。


「…里香と結婚する事になったよ。もう、お互いの両親に報告した。…籍だけ入れて済まそうと思ったけど、二人で話し合って、落ち着いてから式を挙げることにした。里香の仕事の都合もあるから、半年くらい先を考えているんだ」


優しい笑顔を浮かべ、桑田は座ったまま二人を交互に見る。

こんな彼の表情は、特に親しい相手にしか見せない。


「おめでとう、二人とも。遅すぎたぐらいだよ。全部、慎治が優柔不断なのがいけないんだがな。…ところで、半年先というのは本気か?」


桑田の質問に答えたのは里香。

夢にまで見た結婚に、気持ちは弾んでいるようだ。


「うちの仕事なんて実家の手伝いやから、いつ辞めてもええんやけど、慎ちゃんや桑田さんは忙しいやろ? だから、半年後くらいならええかとおもて、慎ちゃんと話して決めたんや。まだ、式場の予約もしてへんから、日取りは未定やけどね」


「…なあ、啓二けいじ。それまでに、騒ぎは収まるだろうか?」


慎治から心配そうに尋ねられた桑田は、あごに手を当てて思案する。

今の時代、半年先まで話題が続いているとは考えられない。

例えそれが、世界を揺るがす発明だとしても…。


だが、慎治の場合はどうだろう?

半年先の結婚となると、新たな話題をマスコミに提供して、更なるやっかみを生むかもしれない。

十二歳も離れている年下の可愛い彼女と、理不尽な恨みを買う億万長者の組み合わせでは、平穏な結婚生活が送れるかどうかは疑わしい限りだ。


「…記者会見の前に籍だけ入れて、ホームページで報告した方が良かったのかもな。…まあ、今更言っても仕方が無いんだが…」


目立つ事は、衝撃が少ない順番に一気に済ませた方が良かったのかもしれない。

本当ならば、完全に世間の熱狂がさめてからの方が、より確実だろう。

恐らく慎治も、当初はそういう考えだったのだろう。

独り言のような親友の言葉に慎治は答える。


「…ああ、だけど物事には順番があるからな。母さんに報告するのに、電話じゃまずいだろ? それに、芸能人じゃないんだから、婚約報告する必要も無いと思ったんだ。結婚式は、身内や友人だけで済ませることにしたから、多分大丈夫だよ」


里香をかばうような慎治の言葉に、桑田は内心で苦笑する。

結婚を急いでいるのは、恐らく彼女の方だろう。

彼女は理解していないようだが、本当に今の時期はまずいのだ。


今、世間の反応は真っ二つに割れている。

脳内バイオチップのユーザーは喜んで大騒ぎをしているが、宗教関係者の反発は苛烈だった。

一方、マスコミはというと、新聞は論評を避けているが、週刊誌によるネガティブキャンペーンがすさまじい。

しかも、慎治に対する人格攻撃くらいしか材料が無い為に、二人が籍を入れるだけでもすぐに結婚の事実がばれるだろう。

それは、新たな燃料を投下する行為に等しい。


桑田は、世間の悪評が里香に向かう事だけは避けたかった。

彼女が心配なのはもちろんだが、それが慎治にとって最も辛いはずだから。


「…二人とも、せめて一年間だけ待てないか? 私の予定では、一年後に慎治の研究者としてのリタイアを発表するつもりだ。…本当なら、すぐにでも発表したいが、脳内バイオチップのユーザーに不安を与えかねないから、それは出来ない」


『二人に』と言いつつ、桑田の視線は里香の方に向く。

それに答える彼女の言葉は、少しピントのずれたものだった。


「…なあ、桑田さんは本当にええの? うちは詳しい事は知らんけど、慎ちゃん無しでも森田研究所はやって行けるの?」


桑田が答える前に、たしなめるように慎治が返事をする。


「里香、前にも言ったけど啓二は納得しているんだ。ここでの仕事は続けるから、心配いらないよ」


「慎ちゃんは黙っとき! それなら、何で桑田さんが所長にならへんかったの? うちは小料理屋の娘やからわかる。看板は店にとって一番大事やけど、料理人が変われば常連客は離れる。そうなったら、店はおしまいやないの? 店がつぶれたら、従業員は路頭に迷うやろ? うちは、そんなん嫌や!」


身を乗り出して叫ぶ、彼女の真剣な表情を桑田は優しく見返す。

そして、落ち着いた様子で疑問に答える。


「…まだ、先になるとは思うけど研究所は閉めるよ。私と慎治は、小さな会社でバイオチップのメンテナンスをするつもりだ」


「…おい、聞いてないぞ」


「…気付かない方が、どうかしているんだ。どう考えても、里香さんの言う事の方が正しい。森田研究所は慎治のカリスマと、優れた能力が無ければ維持出来ない。…だが、慎治に研究者を続けさせるわけにはいかない。こいつを早死にさせる訳にはいかないからな」


それを聞いた慎治は黙ってしまう。

体力面にも不安はあるが、過度のストレスは彼の寿命を奪うだろう。

もう自分一人だけの命では無いのだから、これ以上は無理は出来ない。

若い時のように、燃えるような情熱も無い。


…いや、この場合は、長年の研究をやり遂げた達成感から来るものかもしれないが、自分の性格からして、新たな研究を始めるのなら、きっと家庭がおろそかになる。

結局、どちらかしか選べないのなら、里香と幸せになりたい。

―――もう、科学者としての使命は果たしたのだから。


「……そうするか。元々僕は、ここまで成功するなんて思っていなかったからな。…だけど、啓二はいいのか?」


図らずして、里香と同様の質問をした慎治に、親友は笑って答える。


「今の事務員くらいは、新しい会社で雇うさ。研究員たちの今後も考えている。…もっとも、全員が優秀な科学者だから、私が動かなくても引く手あまただとは思うがね。

 それに、私が株式上場と会社の売却で、いくら儲けたか知ってるだろう? 元々私は、研究者というよりは経営者だよ。後の人生は、悠々自適に好きな事をして暮らすさ。きっと妻も納得してくれるはずだ」


桑田には、学生時代に結婚した同い年の妻と三人の子供がいる。

妻の名を裕子というが、かなりできた人物である。

だから、慎治と里香にも異論はなかった。


「…わかったよ。啓二の言う通りにする。どうせ僕が考えるより、ずっと良い結果になるんだから」


「久しぶりに裕子さんに会いたいわ。智也君や美優ちゃんや由香里ちゃんも元気にしてるん?」


「ああ、元気だよ。…もう少し落ち着いたら、二人で家に遊びに来なさい。…ところで里香さん。結婚式はどうする気だ? やはり半年後がいいのかい?」


桑田から改めて尋ねられた里香は即答する。


「一年後にします。こういうのは慎ちゃんは頼りにならへんけど、桑田さんが言うのは間違いないもん。桑田さんが反対したら、もっと長くても待つつもりやったし問題あらへん。野球チームは難しいかもしれへんけど、バレーボールチームなら絶対大丈夫や!」


彼女の野望は、下方修正されたようだ。

意味がわからない表情の桑田に対して、慎治は引きつっているが…。

子供の数はともかく、これで一年後の二人の結婚式が決まった。

昔からの親友である桑田と、愛すべき婚約者、―――二人に囲まれた今この瞬間が、慎治にとって最も幸せな時だった。



…だが、破滅の足音は、3人が気付かぬ間に静かに忍び寄る。

祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の音は、幸せ絶頂の2人と未来を予期出来ぬ男の耳には届くはずも無かった。



解説

祇園精舎の鐘の音についてわからない方は、『平家物語』で検索して下さい。

説明するまでも無いとは思いますが、諸行無常を表しています。



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