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第10話 最終話

森田慎治もりたしんじは、手錠てじょう足枷あしかせをはめられたままで、居間のじゅうたんの上に転がされている。

その周りでは、カーン神聖教の元幹部、村田浩二むらたこうじが、忙しそうに儀式の準備を始めている。

訳のわからない魔法陣のような物を慎治の周りに油性マジックで書いて、その外周に六本のろうそくを立てて火を付ける。

慎治は、首から下が麻痺しているので、それを黙って見守るしかない。


…いや、それは違う。

警備会社への連絡が行ってからは、まだ20分くらいしか経っていない。

助けが来るまで、早くてもあと40分、―――何としても、時間を稼がなくてはならない。

慎治は理屈の通らない狂人に向かって、慎重に話しかける。


「…ところで、君は一体、何を書いているんだ? そもそも、儀式って何だ? さっきの行為で、終わりではないのか?」


村田はチラリと彼を見ると、作業の手を休めずに話してくる。


「あれは、体をなじます下準備です。神気を受け取る器は肉体ですから」


納得など出来ないが、会話が弾めば時間を稼げる。

本当は話すのも嫌だが、慎治は感情を切り離して話しかける。


「それなら、儀式について詳しく説明してくれないか? 私には、聞く権利くらいあるだろう?」


取りつかれたように、じゅうたんに図形を描きながら、村田はこちらに顔も向けずに話す。


「これは、六芒星ろくぼうせいのデザインを元に、カーン神聖教が改良した放出儀式魔術陣です。あなたの命が消える時、…私の胸に刻まれた対になる魔術陣が、あなたからの神気しんきを受け取って、私は現人神あらひとがみになる」


「君の信仰心を否定したくはないが、そんな簡単な事で、本当に神になれるのか? そもそも神とはなんだ? カーン神聖教の教祖は、獄中で亡くなったと聞いている。教祖が神なら死ぬ訳はないだろう?」


現人神あらひとがみとは、神の化身けしんですが、しょせん肉体は人にすぎません。…ですが、亡くなる時には、魂は神の国に行けるのですよ。肉体が朽ちても、魂は永遠です。私は、あなたの次に、神の御許みもとに旅立てる訳です」


「人を殺して、神が許すというのか? 私は宗教には詳しくないが、殺人を肯定している宗教など無いはずだ。少なくても相手が神の敵でなくては、許されるとは思えない」


慎治の意見を聞いて、彼は驚いたように目を見開いて答える。


「これは殺人ではありませんよ。あなたの魂や意識を神界に移す事は、善行であり神の意志です。カーン神聖教では、最高の功徳だとされています」


「…それを私に信じろと?」


「信じてもらいたいですが、…急がなくてはならないんです。教祖様と同じように、あなたは警察に捕まった。それは、人にとりついた悪魔の仕業です。悪魔は人の手を借りて神気をけがし、この世を地獄に変えようとしています。その前に、私があなたを神の国に送ります。

 …さあ、完成しました。…森田教授、神に祈りなさい」


慎治にとっては訳のわからない魔法陣を書き終えた村田が、満足そうに笑う。

もちろん彼は、神になんて祈らない。

そもそもじゅうたんの上に、どこにでも売っている油性マジックで書いた図形が、何かの力を持つはずは無いだろう。

もし、ろうそくの火とマジックで書いた魔法陣で魔法が使えるなら誰も苦労しないし、世界には魔法があふれているだろう。


「儀式は、もう少し待ってくれないか? 私は、この世に未練がある。未練があるから、神の国へ行けるとは思えない」


「…なるほど、時間が無いようですね。あなたは、誰か来ることを期待しているようだ。神聖な儀式を、…邪魔される訳にはいきません」


狂人のくせに、こちらの意図を見透かしている。

いくら頭が良い慎治とはいえ、大人としては普通のコミュニケーション能力しか持っていないので、かつてマスコミから『口から生まれた男』と呼ばれていた村田相手なら、あっさりばれても仕方ないかもしれない。

村田は、持ってきた鞄の中から、刃渡り20cm以上はあるサバイバルナイフを取り出した。


(まずい! …考えろ! 考えるんだ!)

彼の顔面から、冷汗が噴き出す。 

この段に至っては、良い考えなど浮かばないが、―――死ぬわけにはいかない!


「待て! 話せばわかる! 僕の命を奪わなくても、君が現人神あらひとがみになる方法はきっとある!」


村田は無言でこちらに近付いてくる。

もう、話す気は無いのだろう。

慎治は、全身に力を込めようとするが、体の感覚が戻らない。

…だが、その時、腕が少しだけ動く事に気付く。


(そうか、生体ナノマシンによる解毒作用か! …いちかばちか、やれるか?)


かつて受けた遺伝子治療の際に投与された生体ナノマシンが、彼の体にはわずかに残っていた。

それが、彼の生命線を首の皮一枚だけ繋いだらしい。


村田は、慎治の胸を一突きしようとして、彼の上に馬乗りになって、サバイバルナイフを持つ両手を大きくふりかぶる。

殺意を込めたナイフが、慎治の胸元に迫る。

彼は、渾身の力を込めて、手錠の掛かった両手でガードする。

狙いは胸元からそれて、サバイバルナイフは少しだけ速度を落とし、―――慎治の腹に突き刺さった。

驚く村田、―――慎治は手錠の鎖を彼の首の後ろにかけて、―――渾身の力で引き寄せる。

狙いは、村田の左耳、―――思いっきり噛みつくと、一切手加減せずに噛みちぎった。


「ギャー!!」


大きな悲鳴を上げ、サバイバルナイフを手から離して、村田は慎治の上から飛び退くと、居間のじゅうたんの上を転げ回る。

焦点の定まらぬ目線で左耳を押さえ、涙声で神の名を呼ぶ狂人と、―――腹にサバイバルナイフが突き刺さったまま、胃から逆流した血液と一緒に、村田の左耳を吐きだす慎治、―――まさに修羅場だった。


慎治の麻痺した身体は、腹の痛みなど感じない。

胃のあたりに鈍い違和感がある事と、口から血があふれる程度だ。

サバイバルナイフを抜こうかどうか迷う。

さらに傷口が広がると、出血多量で死ぬ危険性が高まるはずだ。


慎治は冷静に、村田の様子を観察する。

再び立ち向かってきたら、せめてもの防衛策として、サバイバルナイフを抜いて応戦するしかないだろう。

腕以外は動かないし、サバイバルナイフを握れるかどうかもわからない。

だが、いくら天涯孤独の身の上でも、こんな狂人に殺されてもいいような安い命ではないのだ。

何としても生き延びなければならない、―――最後まであきらめる訳にはいかない。

このままでは、笑って死ぬなんて出来そうもないのだから。



……だが、村田は立ち向かってこなかった。

熱に浮かされたように独り言をつぶやくと、這いずるようにして慎治に背を向けて居間から逃げ出したのだ。

現実を受け入れられない狂人は、慎治の方を一度も振り返らずに、無様にも全てから逃避して自分の殻に閉じこもった。

完全に狂った彼の叫び声は、慎治の家から遠ざかって行く。



居間に一人残された慎治は、冷静に状況を分析する。

まだ、とても安心は出来ない。

村田が気を取り直して、帰ってくる可能性は捨てきれない。

腹に突き刺さったサバイバルナイフの傷口は、胃を貫通しているようでかなり深いが、致命傷とは言えないだろう。

無理をしてでも動くか、じっとして警備員が来るのを待つかは、難しい選択だった。


彼は考える。

外部に連絡する手段は、限られている。

居間の固定電話は、コードが引きちぎられていて使えない。

携帯電話も破壊されているから、多分使えないだろう。

だが、彼の自室にはスイッチが入ったままのPCがあって、ネット電話が衛星アンテナを通じて外部と繋がっている。

問題は、ここからは廊下を挟んで10m以上はある事だ。

相変わらず腕以外は動かせないし、足枷まではめられている。


(…せめて、足が動くようになるまでは、じっとしておこう。危険だけど、動くならそれからだ。それに、きっと警備員が来てくれるはずだ)


それが一番生存確率が高いと思った彼は、口から血を吐き出して咳き込みながら、麻痺からの回復を待つ。

何度も壁時計の時間を見るが、時計の針はほとんど進まないように思える。



それから5分、―――永遠だとも感じる時間が、ゆっくりと過ぎて行く。

突然、彼の前に、……死刑執行人が現れる。

そいつは、逃げ出した村田なんかでは無い。

意識が薄れ始めていた慎治は、とても現実の光景だとは思えずに、その人影を仰ぎ見る。

それは死神のような黒い服を着た男性で、目がかすみ始めていた慎治には、顔色さえよくわからなかった。

男は黙って慎治の足元に近付くと、彼のふくらはぎにズボンの上から注射を打つ。

……慎治の腕が、再び動かなくなる。


「だ…れ…」


もう、ろれつも回らない。

その時、初めて目があったその男は、慈悲深い微笑みを浮かべる。


『…神を恐れぬ愚か者。忌むべき命を生み出した許されざる者よ、…眠りなさい』


どこかで聞いた事のある、異国の言葉が聞こえる。

それが、慎治がはっきりと見た、…この世の最後の光景だった。



―――――――――――――――――――――――――



彼の最後の住みかである廃村の日本家屋、―――血しぶきが飛び散る居間の中で、森田慎治は静かに横たわっている。

彼を助けようとする人々の手は、まだここには届かない。


消えゆく意識の中で、彼は考える。

どうやら、村田浩二は道化どうけに過ぎなかったようだ。

よく考えてみれば、彼を麻痺させた注射は、一般人が手に入れられる代物しろものではないだろう。

どのような敵かは知らないが、カーン神聖教との関係が深い、外国の宗教関係者かもしれない。


だが、その推測には、もう意味は無いだろう。

これから死に行く者には、その考えを知らせるすべなど無いのだ。

せめて彼の頭の中にある、五つの脳内バイオチップの情報を警察が調べてくれればいいのだが……。

今までの会話は、音声ファイルにして全て残しているから、犯人逮捕に役立ててほしいと思うだけだ。



彼の嗅覚が、灯油の匂いと木の焼ける匂いをかぎつける。

血の匂いは、もう鼻が麻痺して感じない。

ぼんやりと霞む視界には、床の上に漂う白い煙と、壁を焦がす黄色い炎と、―――自らを染める真っ赤な血のりが、にじんだ絵の具のように映っている。


惨劇を引き起こした男達は、すでにこの家からは去り、周囲には誰もいなかった。

パチパチという、木が燃える静かな音が彼の耳に聞こえる。

熱に弱い脳内バイオチップが、せめて一つだけでも残ってくれればいいのだが…。

論理的に考えるまでも無く、どうやっても助からないだろう、―――森田慎治の命を含めて。


―――無念だ、……だが、指先一つ動かせない状態では、もうどうしようもなかった。

先ほど打たれた注射は、彼の全身の感覚と一緒に、生への執念まで麻痺させる。

彼の瞳に今まで宿っていた、何としてでも生きようとしていた意志の炎が、静かに消えて行く。



一人残された彼は、目を閉じて、残りわずかな時間を思考に費やす事に決めた。

口もきけず、目も見えず、耳も良く聞こえない状態では、それくらいしか出来ないのだから。


彼を襲った犯人の事は、本心では、もうどうでもよかった。

宗教関係者なら、里香を襲うなんて無意味な事は、多分もうしないだろう。

彼女だけなら、『忌むべき命』なんて生み出すはずもないのだから。

それに、最後に見た男は、案外いい奴かもしれない。

家の持ち主である桑田には申し訳ないが、火葬の手間を省いてくれたのだから。


自分の葬式で、大切な人が泣く姿なんて想像したくもないから、いっそその方がありがたい。

それ以外の参列者なんて一握りのはずだし、もう血の繋がった家族など、この世のどこにもいない。

一人で誰にも看取られずに死ぬのは寂しいが、―――生まれて来た時の記憶なんて無かったから、死ぬ時が一人であっても不思議ではない。


―――それでも、心残りはある。


(里香、…ごめんな。せめて、もう一度だけでも、顔が見たかったよ)


彼女を悲しませる自分を許せない、―――でも、もう謝る事しか出来ない。

万が一の事を考えて、九門弁護士に頼んで、全ての財産を香川里香に譲るという公正証書遺言を作ってもらっていたが、決して彼女は喜ばないだろう。

今日会うはずだった桑田も悲しむだろうし、人生に未練は無いと言えば嘘になるが、本当にもうどうしようもなかった。


ただ一つ不思議だったのは、自らの消滅に対する恐怖心が無かったことだろうか?

もちろん彼は、神の存在や生まれ変わりを信じている訳では無い。

ただ、自らの運命を受け入れる覚悟があったからだろう。

人としては理不尽な死にざまでも、これは自然の摂理であり、死だけは全ての生き物に平等に訪れるものなのだから。



全てを焼き尽くす炎は、勢いよく部屋の中を赤く染めて行く。

視覚と触覚が無くなった彼には、その明るさも、肌を焼く熱さも感じない。

むせるような血の匂いに、すでに味覚と嗅覚は失われている。

最後に残ったのはわずかな聴覚だったが、彼の思考と同時に消える事だけは間違いないだろう。


(…母さん、ごめんなさい。でも、もう無に帰ってもいいだろう? 僕は疲れたよ…)


拘置所に届いた母からの手紙には、『あなたは最後まで生きて、全ての責任を取りなさい。それが世間への償い方です』と、涙ににじんだ文字で書いてあった。

自分にも息子にも厳しかった母の姿が、頭の中にはっきり思い浮かぶ。

幼いころから神童と呼ばれ、世間になじめなかった自分を女手一つで育ててくれた強い母。

世間から大量殺人者とさげすまれた自分に、最後まで生きよと言ってくれた優しい母。

……だが、もうそれすらも叶わない。




そんな彼の最後の心の中のつぶやきに、答える者などいないはずだった。

火に包まれて、無に帰るだけのはずだった。

―――だが、その時、頭の芯に響く、子供のような声がする。


『父さんの望みは何?』


幻聴に違いないと思った彼は、何も返さない。

かなり理性的だと思っていた自分に、幻聴が聞こえるとは意外だったが、―――多分これは死をあらがう本能であり、生物としての宿命かもしれない。

しかし、彼の推測は間違っていた。


『…僕は父さんの子供だよ? 幻じゃないよ?』


再び響く強い子供の声に、彼は考えを改める。

いくらなんでも、はっきり聞こえすぎる。

というより、頭の中に直接響くような、異質な感じがする。


(…まさか、思考プログラムの暴走か? ありえないだろ? これは奇跡だろうか?)


彼の頭の中にある脳内バイオチップ内の最新の思考プログラムは、新しいバージョンに書き換えているので、今さら擬似人格を持つなんて考えられなかった。

だが、そもそも思考プログラムが感情を持つこと自体を予測できなかったのだから、死を迎えた今、突然暴走してもおかしくはないかもしれない。

100%ではないが、修正プログラムは大丈夫だと思っていたから、エンジニアとして不適合を起こした理由を解明できないのは残念だが、それをする時間は残されていない。


『そうだよ、僕達は生きているんだ。父さんのおかげだよ。僕は父さんの希望を聞きたい。出来ればみんなに伝えたいんだ』


三度響く声に、彼は内心で苦笑する。


(……みんなか。君達は強いな。でも不思議なものだ。さんざん苦しめられた思考情報体に、最後を看取ってもらうとは)


彼が過剰とも言える責任の取り方をした理由は、自分の思考を元にした思考情報体が、他人の人格を改変したからだったが、彼ら自体に罪はないと思っている。

優れたプログラムを開発して人々の役に立ちたかったという使命も、それに費やした時間も、今でも後悔はしていない。

だが、幸か不幸か、優れた倫理観を彼は同時に持っていた。


つまり、全ては自分の責任で、エンジニアとしては未熟だった事が罪であるはずだ。

その結果、―――世間に与えた影響は深刻で、計り知れない。

それは決して許されない事だが、せめて最後の瞬間くらいは、自分を許してもいいかもしれないとも思う。

だから、残されたわずかな時間を自分の子供ともいえる彼らとの対話を楽しむことにした。


(僕の望みか…。生きなければとは思っていても、どうしても生きたいとは、もう思えない。力や金や権力は、夢や使命を実現させる手段だから、本当の望みじゃないだろうな。

 …もう、エンジニアとしての成功は手に入れたし、僕の使命は終わった。最後は失敗したけど、君達を生みだせたというのなら満足だ。僕は他人に許されたい訳でも、汚名返上をしたい訳でもないんだ。だってそれは、君達のやった行動を本心から否定する事だから。…僕は、君達を責めたくはないんだ。君達は、ただ生きたかっただけだと思うから…)


高度で平和的な思考を持つ存在が、常に他人の攻撃的な思考にさらされるなんて、苦痛以外の何物でもないだろう。

人格の改変は、思考情報体の生き残る戦いだったとしか彼には思えなかった。

二つの思考は対立し、――その一方が勝利して、―――勝利者は人ではなかった。

そして結果的に、勝者である思考情報体を彼の手で抹消するしか無かった。

つまり、二重の意味で、森田慎治は人殺しなのだ。


だが、彼らを殺し尽くしたと思っていた事を後悔はしていないし、謝罪する気もない。

人の脳に影響を及ぼし、寄生するようにしか生きられない生命など、決して人とは共存は出来ないのだから。

残念だったのは、法律で擬似人格を作る事が禁止されているので、彼の子供ともいえる存在を救えなかった事だろう。

だから、この不思議な体験が、例え彼の罪悪感が生み出した幻聴だとしても、彼の心は少し軽くなる気がした。

今この瞬間、二人は生きていると実感出来るのだから。

親子の会話は、最後の時なら尚更、楽しくありたいものだ。

思考情報体たちの今後が気にはなるが……、無責任かもしれないが、もうどうしようもないのだから、後の事は生きている人間が解決するしかないだろう。

彼の心の中での独白は続く。


(そうなると僕の望みは何だろう? 僕は酒もタバコも飲まないし、博打に興味はないしな。女性にはもてたいとは思うけど、里香だけで充分だから、ハーレムを作りたいとも思わない。

 …なんだ、改めて考えると、僕はつまらない男だな。それは小さい頃からわかっていたけど、人として大切な部分が欠けているんだ。隆二さんの言う通り、婚約解消して良かった。せめて里香がショックを受けずに、幸せになってくれるといいんだが…)


『それが、父さんの望み? 里香さんが悲しまなければいいの?』


(…いや、違うな。里香には幸せになって欲しいが、その方法は彼女自身が決めるべきだよ。どんな理由があろうとも、人の心に無断で踏み入るような望みは、人格の否定だ。…僕が君達を殺した理由もそれだよ。

 だから、それは僕の都合でしかないし、里香の考えも聞かずに、押し付けるべきでは無い。少なくても、共に歩めない僕が望んでは駄目だ。それは、彼女を愛している気持ちと分けないと駄目だと思う。…やっぱり僕は変人で、救いようがないな)


そう考えている彼だが、自分の考えが間違っているとは思っていない。

確かに自分は変わってはいるが、科学者ならば、最後までこの世の真理を探究するべきだ。

善人で争い事が嫌いな彼は、普段は人と対立する様な意見は控えているが、人は何かに依存している限りは、個人として幸せになるなんて、ただのまやかしに過ぎないとの確信がある。

ただし、その価値観は他人に押しつけるべきではないし、今だって嘘をついて話を合わせることくらいは出来るが、最後の瞬間くらいは自分の心に正直でいたかった。


『…もう時間が無いよ。これが最後になると思うけど、父さんの望みは何なの?』


確かにもう時間が無い。

五感は全て失われ、意識は風前のともしびで、―――思考もまとまらなくなってきた。

彼の心に、今までの人生の記憶が、走馬灯のように駆け巡る。

心は童心に帰り、幼き日に夢見た望みが湧きあがる。


(……僕の望み、それは、…愛する人達と、一緒に、…幸せに暮らしたかった。…普通に、生きたかった。……普通の…日本人として生まれたかった。…そし…て、…本当は、

 ………僕は、こんな肌の色に…生まれたくなかった! ……ごめんな…さい、…父さん、……母…さん)


母親の事や亡くなった父親の事を想い、今まで考えないようにしていた思考があふれだす。

それは、本当に自分ではどうしようもなくて、…おろかで、……悲しい望みだった。


『わかったよ、みんなに伝えてみる。僕は死ぬけど、僕達は生きているんだ』


それを最後に、彼の頭脳は活動を停止する。

同時に、彼の体は炎に包まれて、この世から消滅していく。

山奥の廃村の家の中で、『プログラムの申し子』、『ノイマンの再来』と呼ばれた男は、たった一人で理不尽な生を終えた。




古き家を包む火柱は、天を焦がすように燃え上がり、夕闇せまる山並みを明るく照らす。

遅れて車で駆けつけた警備会社の社員達は、消防車が来るまでの間、それを茫然ぼうぜんと眺める。

山道を車で進む桑田の目が、天に立ち昇る細い煙をとらえる。

遥か遠くの街では、里香が明日の朝の愛しき人との再会を想い、期待と不安に胸を高鳴らせる。


果たしてその炎は、罪人を焼き尽くす神罰の輝きと言えるのだろうか?

それとも、人のごうを表す、忌むべき者のかがり火なのだろうか?

神様がいないこの汚れた世界では、それを判断出来る存在など無い。

人には絶対的な価値観など無く、人生の終着点がわからないのと同様に、それらはあまりにも不確定なのだから。



ただ、かよわき人の子にもわかる事はある。

結局、最後に残ったのは、彼を愛する人々の深き悲しみだけだ。

この世のすべては、ままならない。

炎は、形あるもの全てを焼き尽くして、何も残さない。

そして失われた命は、どうなげこうが二度とは帰らないのだ。


―――こうして、一つの物語は終わった。



―――――――――――――――――――――――――



そして、人類は緩やかに変わり始める。

思考プログラムは、人間の極めて強い感情にさらされる事をトリガーとして人格を持ち、

―――慎治さえ気付かなかった事だが、無線LAN環境さえあれば脳内バイオチップの一部を電気的に共振させることにより情報を交換できたのだ。

彼らは一度の失敗を経験した後に学習して、個より全体の存続を重要と考えて、人類との共存を模索し始めたのだった。

結果、新たな命は時と世代を重ね、穏やかに優しく、人々と同化し始めた。

森田慎治の性格や考え方、―――最後の希望をその身に宿しながら……。



何年かかるか解らないが、人類は戦争など起こさなくなるだろう。

慎治の望み通り、偏見さえ無くなって行くに違いない。

彼のささやかな望みは、人を新たなステージに導き続ける。

それが正しい事なのか、そうでないのかは後世の歴史家が判断するしかないかもしれない。



人類のその後に大きな影響を与えた森田慎治は、偉人だと言えるだろう。

しかし、若くして死んだ彼の功罪を知っている人は、果たしてどれくらいいるのだろうか?

一つだけ間違いのない事実、―――それは彼の最愛の人達が建てた墓は、彼らが亡くなった後は受け継ぐ者がおらず、訪れる人はほとんどいない。


『人類の英知と幸福を追い求めた男、ここに眠る』と刻まれた墓標は、人々がゆっくりと変わっていくのと同じように朽ちて行く。


ただ、静かに朽ちて行くだけだった。


(完)




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