第01話
今よりは少し未来の話、人と科学が融合し始めた時代、
日本の、とある古都の研究所に一人の天才エンジニアがいた。
彼の名前は森田慎治39歳、―――脳内バイオチップの発明者で、『生体コンピューターの父』、『プログラムの達人』、『ノイマンの再来』(文末参照1)と呼ばれる壮年の男だった。
脳内バイオチップとは、IPS細胞技術を応用して合成された直径1cm程度の生体部品を、鼻腔の奥から人の脳内に埋め込み、記憶の肩代わりをさせる優れた工業製品だ。
脳内バイオチップ内には、基礎プログラムによって制御された生体ナノマシンが存在しており、簡単な自己修復機能があるから、メンテナンスもそれほど必要ないという夢のような生体機械である。
いわば、『制御チップ付きの、自己修復型脳内ハードディスク』のようなもので、これにより人々は繰り返し覚えるような暗記作業からは解放される事になった。
その容量は最低でも100テラバイト以上とされ、記憶した情報を専用の器具を使って外部にコピーする機能があるので、―――たとえ記憶容量が一杯になっても、不必要な情報を移動して消す事が出来るという優れ物である。
ただし、人の記憶には個性があるので、他人の記憶した情報をコピーしても何の事だかわからないという欠点はあるし、複数の脳内バイオチップを脳に埋め込んでも、記憶の混乱を起こす可能性があるから、記憶容量の増えた新製品を購入する場合は、旧型の商品を生体ナノマシンによって停止分解させるか、外科的に除去する必要がある。
だが、普通に使っているだけならば、人が一生の間に記憶するだけの容量は充分にあるので、わざわざ新製品を買う必要は無いという、一生物の商品である。
もちろん安い製品では無く、完全にオーダーメイド品で、受注してしてから生産完了まで半年以上はかかる上に、簡単な外科手術が必要なので、当初はそれほど普及しなかったが、その効果はすさまじかった。
何せ、一度見聞きした情報を完全に記憶整理できるのだから、勉強する時間を短縮出来るのだ。
特に、頭脳職を目指す若者にとっては革命的な商品で、バイオ世代と呼ばれる医者や弁護士や作家を大量に生み出す結果となった。
脳内バイオチップが一般に発売されてから八年間で、使用者は2000万人以上になり、特に大きな不具合も出なかったので、森田慎治の名前は世界に知れ渡り、人々の生活も徐々に変わり始めた。
彼はノーベル賞に最も近い男と言われるようになり、巨万の富を手に入れる事となった。
……だが、光があれば闇もあるように、人もうらやむ成功者である彼にとって良いことばかりでは無かった。
まず、脳内バイオチップが世界中に公開されると、宗教関係者からの批判が彼に集中し、『悪魔の申し子』と呼ばれるようになった。
脳内バイオチップの埋め込みは、人に新たな器官を作る事であり、神が定めた人の摂理に反する行為とされたのだ。
これにより、欧米やイスラム諸国での普及は進まず、―――脳内バイオチップの使用者は、一神教の宗教色が強い国々では異端者とされた。
次に、既得権益を持つ者からの反発も、彼に向けられることになる。
今までさんざん苦労して覚えた知識を一度読むだけで記憶できるなんて、とても許せないという訳だ。
それは世代間の対立を生みだし、保守的な年長者達からは、『バイオ世代は優秀だが怠惰な人物が多い』というレッテル付けをされる。
同時に、それを生み出した人物、―――森田慎治は非難の的となった。
年寄りの醜い嫉妬だという意見もあったが、人というのは常に正義の側にいたいものである。
自らの正義を主張する人達からは、彼は『悪の権化』と呼ばれて、憎悪の対象とされた。
だが森田慎治は、そんな世間の悪意に対して戦わなかった。
彼は日本という国を愛していたから、外国に移住するつもりはなかったし、他人との争いを好まなかったので、ホームページで自分の考え方も公開する程度にとどめたのだ。
そんな事に囚われるより、研究に集中したかった事情もあるのだろう。
もちろん、ふりかかる火の粉は払わなくてはならないから、身の回りの安全に気を使ったり、警察に相談する程度の事はしていた。
更に、親友や弁護士に相談して、慈善事業にも多額の寄付をしている。
だが、その努力は実を結んでいるとはとても言えなかった。
その程度では、人々の嫉妬心や根本的な価値観の違いは埋められなかったのだ。
彼は、自分に近しい人達への影響だけは避けたかったので、それ以外の方法も考えて、過去に実行してみた事もある。
例えばだが、世の中には自分自身のキャラクターを売り込み、人に恨まれないように上手に立ち回る人がいる。
それを参考にして、彼の周りの人達を守る為に、理解者を増やそうとした時期があった。
―――だが、その思惑は完全に失敗する。
そもそも彼は目立つ事が嫌いな大人しい性格で、優秀な頭脳と比較するとコミュニケーション能力もそれほど高くなかったのだ。
天才である彼には、普通の人の感覚が本心からは理解出来ず、彼の言動は大衆の共感を得られなかった訳だ。
特に問題だったのは、彼の父親が外国人だったので、浅黒い肌と縮れた髪を持っていたにもかかわらず、日本人らしいノッペリとした顔だちをしていた点だろう。
しかも、生まれつき難病に犯された彼は、小さい頃に生体ナノマシンによる遺伝子治療を受けていたから、日本人的な血統主義を信じる人からは好意を得られなかったのだ。
そんな人達は、彼を『出来そこないの怪物』だと言って、陰口をたたいた。
そのような事情で、彼は人前に出ていらぬ誤解を受けるより、黙っている方が得策だと考えを改めて、マスコミの取材を一切受けないようになった。
この手のひら返しに日本のマスコミは反発し、彼を危険人物のように書く出版社も増えてしまった。
彼が小さい頃に大震災で父親と親戚一同を無くしていて、母子家庭で育った苦労人だった事も、一部のマスコミにとっては好材料にはならなかった。
だからこそ、日本社会を恨んでいるという、ネガティブキャンペーンに利用される始末だった。
彼が行なっている多額の寄付金による慈善活動も、小さい頃に生活保護を受けている事や、学生時代に返済不要の奨学金を利用していた事から当然だとされた。
つまり、本人の意志とは全く関係無く、……一部のマスコミに言わせれば、彼は日本社会に対する反逆者だったのだ。
もちろん、敵が多い分だけ味方も多くいて、彼をよく知るマスコミからは、『時代の革命児』とか『知の超人』とも書かれていて、これらの矛盾する主張は、大衆からの彼への不信を更に募らせた。
結果的に、彼の元には殺人予告状が引っ切り無しに届くようになり、常にSPの警護が欠かせなくなり、一人で外を出歩くこともままならなかった。
不正ネットアクセス防止法で、ネット接続には国民番号が必要な時代なので、日本国内からは郵便物、―――海外からは電子メールで脅迫状が届くのはわかりやすくて良かったが、郵便物の中には危険物が含まれている場合も多くて、油断は出来なかった。
それでは、慎治の本心がどうだったかというと、実害さえなければ世間の評価はどうでもよかった。
彼は、あくまでも一人のエンジニアや科学者でいようとしていたし、何よりそうする事が自らの使命だと考えていた。
こうなってしまっては、余計な雑事にとらわれず、一刻も早く自分の使命を全うしようと思っていたのである。
ただし、生活面での不安や不満は深刻だった。
顔も知らない、縁もゆかりも無い人から命を狙われるのは恐ろしい。
若い頃から研究一筋で、元々アウトドア派では無い彼にとっては、あまり外を出歩けないのはさほど苦痛では無かったが、いつも彼に付き合わされるSPの警察官の方が大変だと気にかけてしまう。
だが、こればかりはどうしようもなかったので、彼を守ってくれるSP達の指示に素直に従っている。
それ以上に彼が気にしていた事がある。
自分は、製品開発者としての責任があるから、ある程度は仕方が無いが、年老いた母親や恋人にまで脅迫状が届くのは許せなかった。
何の責任も無いはずの、彼の身内にまでSPの警護が付くなんて絶対間違っている。
陰に隠れた卑怯者達を何とかしたかったが、自分が動くと更に厄介な事になるかもしれない。
結局、司直の手にゆだねるしかないのは歯がゆかった。
慎治は、どうしても理解出来なかったのだ。
保守的な人々が、脳内バイオチップの存在自体を認めない事を―――そして、血統主義の考え方にとらわれ続ける人達の気持ちなど理解したくもなかった。
そもそも、脳内バイオチップが気に入らなければ買わなければいいだけだし、あくまでも道具なので、メリットやデメリットを天秤にかけて、それぞれの立場や価値観で、自分で決めればいいのではないか?
例えば、自動車は便利な工業製品だが、交通死亡事故を引き起こす事もあるし、大気に排気ガスを撒き散らす。
だが、それは開発者やエンジニアの責任だろうか? そうではないだろう。
彼らの使命は、人々のニーズを読み取り、出来るだけ安全で、人や環境にやさしい製品を開発して、世に送り出す事であるはずだ。
脳内バイオチップは、少なくても存在自体を否定される製品だとは、彼はどうしても思えなかったから、後は人々の知恵でどう扱うかを決めればいいと思っていたのだ。
宗教家の反発にしてもそうである。
これは、彼は無神論者だったので、神罰を信じていなかったから恐怖心も罪悪感も無かったのも大きいかもしれない。
母親の影響で仏教的な宗教観は持っていたから、宗教自体を否定するつもりは無かったが、他人の価値観を押し付けられるのは我慢ならなかった。
人の生き方を神が決める考え方に、同調する事はどうしても出来なかったのだ。
血統主義に対する考え方は、それ以上に理解出来なかった。
彼の父は、故郷を戦争で追われて、―――苦労に苦労を重ねて日本にやってきた留学生だと母親から聞いている。
そのまま日本に定住した父は、母と仕事先で知り合い、故郷の町で生きて行く事に決めたというから、―――その精神は、完全に日本人の男である。
例え自分が過去に遺伝子治療を受けていたとしても、全ての努力を否定するような考え方を理解する気にもなれなかった。
つまり、彼の思考では、差別主義者たちの考え方はあまりにも異質すぎて、本心から理解出来なかったのだ。
森田慎治は思う。
結局、人を殺すのは神の意志では無く、あくまでも人の意志なのだろう。
天変地異による死者にしても、人の選択の結果が大きく関わっているとさえ思っている。
幼い頃に、父親と親戚一同を大震災で亡くし、―――母と共にがれきの下に埋もれていた所を自衛隊員によって助けられていた彼は、この世は諸行無常だという仏教的な価値観を持っていた。
その移り行く世界の中で、人は人として出来る事を考えて必死に生きて行くべきであり、―――もし本当に神が存在しているとしても、神への依存は人として間違っていると考えている。
例えそれが、人が決して逃れられない死の恐怖だとしても何も変わらない。
特に今の平和な世の中では、人生とは努力の積み重ねの結果であり、悲しいことだが現実的に人の価値は生まれつき平等では無い。
人の命でさえ平等では無いが、どんな人生の終着点も決まっているのだ。
何人にも死は必ず訪れるのだから、永遠の命を探し求める事よりも日々を精一杯生きることこそが人としての道だろう。
そして最後は己の人生と向き合い、どうせなら笑って死にたいものである。
その為にも、脳内バイオチップの更なる改良が、エンジニアとしての彼の使命だった。
宗教家がとなえる神の摂理では、人は決して平等にはならないが、新しい技術は現実的に人生を豊かにしてくれるはずだ。
あくまでもそれは、神の御技では無く、つまらない言い訳を許さない為にも、人の英知の結晶でなければならないはずだ。
優れたエンジニアである彼がそう考えているのだから、科学と宗教の相性が悪いのも当然かもしれない。
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そんな少し変わった性格と見た目の慎治だが、仕事の方は順調だった。
バイオコンピューター関連企業体と国立大学の共同研究所の所長という立場が今の彼の肩書だ。
森田研究所と呼ばれる最先端施設の中の会議室で、約20人のプロジェクトチームの優秀な研究者達に囲まれた彼は、穏やかな笑みを浮かべている。
かねてから研究を重ねていた成果が、今まさに実ろうとしていたからだろう。
「…何も問題は出なかった。田代君、…それでいいんだね?」
「はい、主任。半年前の動物実験の結果に続いて、この一ヶ月間、全ての治験者たちに全く不具合は認められません。それどころか、予測を5%も上回る結果が出ています。主任の思考プログラムは完璧です!」
慎治を主任を呼ぶ男は、森田研究所を立ち上げた時からの腹心の部下で、田代という名の、まだ若い優秀なエンジニアである。
本当は所長と呼ぶべきなのだが、慎治は新規プロジェクトチームの主任でもあるので間違いではない。
ちなみに、ここでの会話は、すべて英語でかわされている。
プロジェクトメンバーの半分近くが外国人だから、当然の配慮だろう。
「それじゃあ、製品化に向けての記者発表をしようか? 私は新聞記者から目の敵にされているから、桑田君が記者会見に出てくれると助かるんだが…」
慎治から『桑田君』と呼ばれた副所長は、恐縮した様子で目線を向ける。
「森田所長、せっかくの栄誉を譲っていただけるのは嬉しいのですが、私は思考プログラムを完全には理解していません。…いえ、私だけでは無く、ここに集まっているプロジェクトメンバーの全てがそうでしょう。新聞記者に思考プログラムが理解出来るとは思えませんが、記者会見の場に責任者が不在だと、それだけで悪く書かれかねません。所長の微妙な立場では目立つ事は避けたいのでしょうが、ここは我慢して出席して下さいませんか?」
マスコミの慎治に対する評価は、相変わらずかなり極端だった。
これは、彼が取材に応じないという理由だけでは無い。
文系と理系が相性が悪い点もあるのだが、脳内バイオチップの仕様を科学的に理解出来る人なんて一握りだから、理解出来ない事への恐怖心が先に立ってしまう。
恐怖心は憶測を呼び、理解出来ない事を自分の責任にしたくない大衆は不満を募らせる。
それを利用した一部のマスコミは矛先を変え、―――慎治の人格攻撃を書きたてて、根拠の無いデマや宗教家の反論等のネガティブキャンペーンを展開する。
科学誌ではおおむね好評に書かれているが、肯定的な意見を持つ新聞や雑誌でも手放しの称賛がほとんどで、これは悪意の裏返しでもある。
持ちあげて一気に落とす下準備ともいえるし、わざと対立する意見を盛り上げ、発行部数を伸ばす為のマッチポンプだともいえるのだから。
慎治は、軽く溜息を漏らす。
説明するのは嫌いではないが、始めから理解する気の無い連中の矢面に立つのは時間の無駄だし、後の反応を考えると憂鬱だった。
だが、これは森田研究所の責任者としての義務だろう。
この研究には、多額の税金が投入されているのだから。
「…わかったよ。セッティングは任せる。決まったら報告してくれ」
「了解しました。…所長、今日くらいは家に帰ってゆっくり休んでください。大仕事を終えた後は、精神と肉体の休息が必要です」
副所長に言われるまでも無く、慎治は疲れていた。
幼い頃に遺伝子治療を受けた後、―――身体は人より丈夫な方だったが、もうすぐ四十を迎える中年だから、無理は利かなくなってきている。
特に今回の研究開発は気苦労が多くて、精神的に疲れきっていた。
今は家に帰って、泥のように眠りたい。
「…ああ、そうさせてもらう。今日と明日は休ませてもらうよ。桑田君、後は任せた」
慎治が椅子から立ち上がると、図らずして会議室の中に拍手が沸き起こる。
困難なプロジェクトを完遂させた、リーダーへの称賛だ。
彼は照れたように微笑むと、頭をかきながら会議室を後にした。
慎治が立ち去った後の会議室では、研究者達の話し合いが続いている。
だがそれは、お互いの健闘をたたえ合う種類のもので、あちこちで握手や抱擁が行われている和やかな雑談に過ぎなかった。
しばらくすると、副所長である桑田が会議の終了を告げる。
「さて諸君、疲れているとは思うが、もう少しの辛抱だ。記者発表が終わったら、順次休暇を取ってもらう予定だ。質問がなければ、今日はこれで解散とする。…ご苦労だった」
桑田の言葉を最後に、プロジェクトメンバー達は会議室を後にする。
部屋の鍵を預かっている桑田が、その場に残っていると、ホーキンスという名の女性研究員が彼の目の前に立つ。
彼女は森田研究所に入って、まだ一年ほどの二十代の数学者で、アメリカの大学から派遣されてきた才媛である。
「ミスター桑田、私に休暇は必要ありません。記者発表が終わったら、帰国したいと思っています。研究者の人事担当はあなたなので、許可をいただきたいのです」
彼は彼女の顔を椅子に座ったまま見上げると、少し眉間にしわを寄せる。
「…このタイミングでかね? いらぬ誤解を生むかも知れんよ?」
「……覚悟しています。国外への持ち出しチェックは、念入りに受けるつもりです」
「それは当然だが…、そういう意味では無い。このまま研究所を立ち去ると、君自身のキャリアに傷が付くと思うんだがね。…いったい何があったというのかね?」
世界最先端の森田研究所をわずか一年で立ち去るというのは、一般的にはレベルに付いていけない結果だと見なされる。
まして、選りすぐりの新規プロジェクトメンバーが辞めるというなら尚更だろう。
他の研究施設なら、研究内容についての不満や方向性の違いによって離れる場合も多いが森田研究所の研究内容はホームページで公開している。
もちろん自己都合で仕方なく帰国する人もいるが、この場所に集まった外国の研究員たちは、高い倍率をくぐり抜けて、覚悟を持って採用されているはずだ。
最終人事決定者である副所長の桑田は、それを誰より知っているのだから。
彼女は副所長の目を見返すと、その質問に答える。
「理由は二つあります。数学者として、今回の結果は受け入れられません。5%も予測を上回るプログラムの計算速度は、私の考えでは起こり得ません。…ですが、現実にはそうなっていて、私にはその理由がわかりません。科学者の良識として、責任がもてない製品を世に送り出す訳にはいかないのです」
「…それは、報告を受けている。君が思考プログラムの製品化に反対している事も含めてね。…だが、ハード部門からの反対はなかった。これは、製品誤差の範囲内だというレポートは君も読んだのだろう?」
「はい、もちろんです。私は生体コンピューターの専門家では無いですから、よく理解は出来なかったですが…」
「当然だな。我々はチームだ。専門外の事は、他のメンバーを信頼してプロジェクトを進めるしかない。…それが、君がここを辞めたい理由かね?」
「…はい、そうとも言えますし、そうでないとも言えます」
数学者らしくない、あいまいなもの言いに桑田副社長は首をかしげる。
少なくても彼女は、はっきりものを言う性格だったはずだ。
「くわしく説明したまえ。場合によっては、私から森田所長に進言する」
彼にそう言われた彼女は、一瞬だけ躊躇したように言葉を飲みこむ。
「それは意味がありません。二つ目の理由に関係して来ますから」
それから、恐怖に震えるように腕を組むと、彼女の心を映すように目線が揺れる。
「…こんな素晴らしい日に言うべき事ではありませんが、私は恐ろしいんです」
「…何が恐ろしいんだね?」
「…ミスター森田です。…彼は、もう人ではありません」
彼女の突拍子もない意見に、彼は思わず噴き出しそうになる。
「…ミス・ホーキンス、彼は間違いなく人間だよ。確かに極めて優れてはいるが、体を切れば血が出るし、脅迫者に命を奪われる事を恐れる、かよわい男に過ぎない。
…親友である私が言うのもなんだが、性格だって好ましい穏やかな人物だよ。君が恐れる理由が私には理解出来ない。…まさか、彼に何かされたとでも言うのかね?」
ホーキンスは、大きく首を横に振るが、恐怖に耐えるような腕を組んだ姿勢は崩さない。
「いいえ、ミスター森田。所長は紳士です。私は彼の人格を疑った事は一度としてありません。私が一方的に恐れているんです」
予想通りの返事に彼は頷くと、「続けたまえ」と先をうながす。
「…副所長は、制御プログラムの治験者達を直接ご覧になりましたか?」
「…いや、レポートに書かれているデータだけだな。…何か問題があったのかね?」
「いいえ、完璧でした。…完璧すぎたのです。脳内バイオチップに思考プログラムを書き込むと、人は労せずして論理的思考を身につけてしまいます。8ケタの演算はもちろん、スペルや文法のミスさえ気が付きます。それどころか、文章の読解力さえ脳内バイオチップにあずける事が出来ます。これは脳の中に、新しく脳を作る事にほかなりません。
…それは本当に正しいと言えるのでしょうか? 正しい人の進化だと言えるのでしょうか? それに対する恐れが、ミスター森田にはあるのでしょうか?」
「…神の意志に反するとでも言うのかね?」
桑田の意見にホーキンスは黙ってうつむいてしまう。
彼は内心で溜息をつくと、目の前に立つ才媛の目を見据える。
「ミス・ホーキンス、科学に神を持ちこむ事はやめたまえ。いくら君が神を信じているとしてもだ。…君ほどの人が、今更そんな事を言い出すとは意外だよ。思考プロジェクトチームが結成されてから3年、―――君の言うような事は当初からさんざん論議されてきた。その内容は、プロジェクトチームに参加する前に、君は見ているはずだよ」
彼女は頷くと、彼の目をしっかりと見返す。
「はい、私の中に信仰心がある事は否定しません。この一年間、心の奥に迷いがあった事もです。…ですが、それだけでは無くて、科学者として嫌な予感がするんです。
…もちろん、議事録は読んでいます。脳内バイオチップは、あくまでも人を助ける道具であり、思考プログラムも同様で、…その理念は決して違えない。人への安全性は、何よりも優先される。プログラムやハードに何重もプロテクトが掛けられているのも、秘密を守る為では無く、安全性を担保する目的だという事も知っています。
…ですがバイオチップは、人の臓器の一部であるという考えも完全には否定出来ません。短期的に問題が出なくても、長期的には何が起こるかは医師にも完全に予測出来ません。記憶の補完をする程度ならともかく、思考自体を脳内バイオチップに任せるのは、効果が大きいだけリスクも深刻です。つまり、今回の結果は私の予測を超えていて、開発者として責任がもてないんです。
そもそも、脳内バイオチップは制御プログラムも含めて信頼性が高いですが、思考プログラムは別です。治験者に思考プログラムを施してから、まだ一ヶ月しか経っていません。予期せぬ不具合が出る可能性は、森田所長たちが思っている以上に高いと考えるべきです。チームを去る私が言うべきではないかもしれませんが、思考プログラムの公表や製品化は慎重にすべきです。…いえ、これはもう、人が手を出していい分野だとは思えないんです。少なくても私には耐えられません」
予想以上の結果が出た事を喜ぶより、恐怖心が先に立ってしまう。
未知を恐れるのは、人の性なのだろう。
桑田は、無表情のままで意見を言う。
「…ミス・ホーキンス、一般ユーザーへの思考プログラムの使用は、慎重な上にも慎重を期すつもりだ。…それに一ヶ月ではない。最長の思考プログラムの治験者は、もう八年になる。…彼は何も変わらない。…何も問題はないんだよ」
彼女は目を見開き、たじろいでから息を飲むと、くずれそうになる膝に力を入れて、体勢を立て直す。
信じられないような物を見る目で、手を口に当ててから、つぶやくような声を絞り出す。
「…まさか、ミスター森田、―――彼は真っ先に自分を治験者に選んだというんですか?」
「…ああ、そうだ。脳内バイオチップが開発されてから十年、市販されるようになってから八年、彼は全てのプロジェクトの先頭に立ってきた。
…考えても見たまえ、『知の巨人』と呼ばれた彼が、ただの記憶補助装置を作るはずはあるまい。思考プログラムは、当初から並行して考えられていたメインプロジェクトだ。その間のプログラムのバージョンアップを真っ先に試していたのは森田所長だよ。…彼の頭の中には、五つの脳内バイオチップが思考プログラムのバージョンごとに埋め込まれている。
……どうした? 何を驚く事がある。それは当然だろう? こちらの意図しない使い方をするユーザーの為に、思考プログラムの相互干渉を調べなければ、完璧とは言えないだろう?
森田所長が、プロトタイプを含めて八年間、――所長の母親がバージョン2と3をもう六年、――私がバージョン3からになるが、もう五年以上になる。並行して動物実験やシミュレーションも必ず行なっているが、完成形のバージョン5まで何一つ問題は起こっていないんだ。
…もちろん、何か不測の事態が起こる確率はゼロでは無い。だが、これ以上は人の手では予測できないんだ。後は、公開するか、…それともあきめるかを決断するだけだった。…そして、森田所長は今日決断した。それでも不安だというなら、君の好きにするがいい」
桑田は、黙ってホーキンスの返事を待つ。
会議室の中に沈黙が流れる。
しばらくして、彼女は吹っ切れたような様子で彼に答える。
「ミスター森田、正直な意見を申し上げてもよろしいかしら?」
「…ああ、かまわない。言ってみたまえ」
「とても付いていけません。私には、あなた方の考えは理解出来ません。ミスター森田は、やはり人ではありません。いくら自信があっても、複数の脳内バイオチップを起動させるなんて無茶苦茶です。(文末参照2) 特に母親を治験者にするなんて、とても私には考えられませんから。
…ですが、勘違いなさらないでください。私は、プロジェクトメンバーに選ばれた事を後悔していません。アメリカに帰って、プロジェクトの成功をお祈りしています」
恐らく本心からそう言って、ぎこちない笑顔を浮かべる彼女に、桑田は表情を変えずに返事をする。
「ああ、急ぐのなら辞表は郵送でも構わないよ。―――だが、日本政府からの渡航許可が下りるのは二週間はかかるだろう。それまでは、ここで働いてくれても構わない」
「…いいえ、必要ありません。…もう私の仕事は終わっていますから」
彼女は、テーブルの上に置いてある書類ケースから辞表を取り出すと、さばさばとした表情で桑田に手渡して会議室を去って行った。
一人残された桑田は、苦虫をかみつぶしたようにつぶやく。
「…小娘め、貴様に何がわかる? 森田に自信があるだと? 前人未到の道の先頭を進む者に、自信などあるものか! 自信が無いからこそ、自分を真っ先に危険にさらしたんだ!
…母親を治験者にする事が考えられないだと! 森田の肉親は、母親しか残っていないんだ! 自信があるから大切な家族を治験者に選ぶなんて、愚か者のする事だ!
…ミスホーキンス、私の親友は愚か者では無いよ。ただ、覚悟と信念と責任感があるだけだ。それが解らない人なぞ、こっちから願い下げだ!」
彼は立ち上がり、汚い物を扱うように辞表をつまみあげると書類ケースの中に入れる。
後は事務室に提出すれば、この不快な気分も全て終わるだろう。
会議室に鍵を掛け、副所長室に帰る彼の頭の中には、もうこの研究所を去る女の事など存在しなかった。
これからしばらくの間は、くだらぬ作業に忙殺されるはずだ。
世渡りが苦手な親友の為に彼が出来る事は、それほど多くない。
だが、お互いにとってそれが今一番必要な事なのだから。
解説
(参照1)『ノイマンの再来』について、
簡単に言えば、ノイマンは20世紀の偉人で『コンピューターの父』と呼ばれる超絶の天才ですが、この場合は悪い意味も含んでいます。
彼は、人格的には褒められた人物ではないという意見もありますから。
詳しく知りたい方は、『ジョン・フォン・ノイマン』や『コンピューターの父』というワードで検索してみて下さい。
(参照2)
脳内バイオチップは、PCのハードディスクのようなものだと設定しています。
それを制御するソフトは、それぞれの脳内バイオチップ内に組み込まれていますが、記憶を読み込んだり書き込んだりするのは、あくまでも人の頭脳です。
脳内バイオチップの一部から、脳内シナプスと結合できる部品が出ていて、人の方からの電気信号によって基礎プログラムにアクセスするという設定を作者は考えています。
その様な事情もあり、―――人は一度に複数の思考を使えませんから、普通の人間には脳内バイオチップを二つ埋め込んでも活用出来ないという設定です。
だから、複数の脳内バイオチップを埋め込む事は推奨されていませんし、思考の混乱を防ぐために複数を起動する事は禁止されています。
つまり、5つの脳内バイオチップ内で思考プログラムを起動させている慎治は、ミスホーキンスの言うように無茶をしていますし、彼にも活用できていません。
慎治は、あくまでも思考プログラムや脳内バイオチップの相互作用を確認する為の実験体になっているという事です。
慎治の母は二つ、桑田は三つの脳内バイオチップを脳内に埋め込んで、慎治の協力をしています。
ちなみに、脳内バイオチップを新しくしたいユーザーは、古いチップから情報をコピーして新たに脳内に埋め込みます。
本文にも書いていますが、その際には、古いチップを外科的に取り除くか、生体ナノマシンによって分解するという規定になっています。
ですが、これを無視するユーザや医者も中にはいるので、それを恐れた慎治は、自分を実験体にしたという事です。