菖蒲の丘で君と
菖蒲の丘で君と
急げ。急げ。まだ間に合うはずだ。
今夜は貴方に会える最後の夜。
地面を蹴る足に、より一層力をこめて、
あの菖蒲の丘の向こうまで、走れーー。
***
夜空に浮かぶ少年は、大人びた笑顔をこちらに向けた。
「タクミっていうんだ」
あまりにも透き通った声に、わたしはビクリと身を強張らせた。おそらくそれは少年の名前で、彼が自己紹介をしたのだということに気がついたのは、幾ばくか後のことだった。少年は漆黒の髪を風に揺らし、紺藍の瞳でわたしを見つめていた。
「君の名前はなんていうの?」
少年は、わたしに問うた。
わたしはアヤメ。北野アヤメ。ちなみにこの丘に咲いてる花は、みんな菖蒲なのよ。
少年の長い睫毛が風に揺れた。
「へえ。綺麗な名前だね」
そう言って柔らかに微笑んだ彼の表情を、わたしは一生忘れないだろう。
少年と出会ったのは七日前の夜。思えば不思議な出会いだった。
その夜、わたしはちょっとしたことで母と喧嘩して、勢いで家を飛び出してしまった。もちろん、行く当てなどない。しかしこのまま戻るのは癪だったので、夜道を散歩することにしたのだ。
そんなわたしには、とっておきの遊び場があった。そう、この菖蒲の丘。家から十分ほど歩いたところにある、小さな丘だ。
別にブランコやすべり台があるわけではない。ただそこに寝転がっているだけで、いくらでも時間をつぶすことができた。学校から帰るとまずすることは、この菖蒲の丘に寝転ぶことだった。
わたしはその菖蒲の丘に向かって歩いた。夜だと言っても月明かりの下を歩けば怖くもなんともない。その夜、月はわたしの道しるべに、星はわたしの秘密の地図となった。
しばらく歩くと、丘の頂上についた。春の夜風に菖蒲草がザワザワと心地よいハーモニーを奏でている。わたしは丘のてっぺんの、草丈が低いところに仰向けに寝転んだ。
夜の菖蒲の丘は初めてだ。だから、こんな景色を見るのも初めてだった。
満天の星空の傍で輝く月と、菖蒲の奏でる音楽。草の枕がわたしの頭を優しく包んで、どこか魔法の世界へ連れていってくれるような気がした。
そんな夜に、わたしは君と出会った。
「ここには毎晩来るの?」
少年ーータクミはなおも夜空に浮かんだまま、わたしに尋ねた。
「ううん、今日だけ。お母さんと喧嘩したから」
「そっか」
タクミの紺藍の瞳が、寂しげに揺れた。
わたしは聞きたいことがいっぱいありすぎて、何から質問していいのか分からないでいた。そんなわたしの心中を察したのか、タクミは苦笑しながら言った。
「僕は、何十年も昔……正確には覚えてないんだけど、もしかしたら何百年も昔に、この近くで死んだんだ。なんで死んだかは、僕にも分からない。気付いたらこうして夜空に浮かんでたんだ」
そういえば、タクミの体は透けていて、足はほとんど夜空に溶けている。
わたしは改めて彼を見た。江戸紫の着物に身を包み、背格好はわたしとほとんど変わらない。足は透けているので分からないが、下駄を履いているのだろうと推測がついた。まだ声変わりをしていないところからすると、同年代なのかもしれない。
風が吹き、菖蒲草とタクミの髪を揺らした。ようやく起き上がったわたしのショートヘアも、風に弄ばれてさらさらと揺れた。
「信じてくれないよね」
タクミは自嘲じみた笑みを浮かべ、紺藍の瞳をより深くした。
しかしわたしはこのあり得ない状況に、不思議と疑問を抱かなかった。だからタクミの自己紹介もすうっと頭に入ってきて、なんだそうなのかと納得してしまったのだ。
「ううん、信じるよ。わたし、タクミのこと信じる」
わたしが言うと、タクミは一瞬驚いたように目を見開いた。が、すぐに表情を和らげて、嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう、アヤメ」
「うん!」
満面の笑みを浮かべたわたしを、タクミは楽しそうに見つめていた。わたしは恥ずかしくなって、思わず俯いたのだった。
それからタクミは思いついたように言った。
「そうだ、アヤメのことを聞かせてよ。アヤメのことをもっと知りたいんだ」
わたしは顔をあげ、タクミの顔をまじまじと見た。自然と見つめ合う形となる。端麗な顔立ちと、同年代の男の子にはない大人びた雰囲気に、わたしはしばらく言葉を失っていた。
「アヤメ? どうしたの? 気分でも悪い? もしかして、迷惑だったかな」
あまりにもわたしが間抜けな顔をしていたのか、タクミが心配そうに尋ねた。
「ううん、違うよ。迷惑じゃないよ。ごめんね」
「そっか、よかった」
わたしが慌てて訂正すると、タクミはほっとしたように笑った。わたしもつられて笑いながら、こっそり胸を撫で下ろした。
ーー初対面なのに見とれていただなんて、言えないもんね。
それから、わたしはタクミに自分のことを話した。家族のこと、友達のこと、先生のこと。それらをできるだけたくさん、タクミが飽きないように、一生懸命しゃべった。
タクミはどんな話にも、笑って相槌を打ってくれた。今思えば、何百年も昔に死んでしまったタクミが、現代の学校での話など理解できるわけがないのだが、タクミは黙って楽しそうに聞いてくれた。
そのうち話すことがなくなって、今度はタクミが自分のことを話してくれる番になった。
なんだか分からない単語がいっぱい出てきたけど、その度にタクミはわたしにも分かるように説明してくれた。だからわたしも楽しかったし、タクミもきっと楽しんでくれていた。
それから毎晩、わたしたちの逢瀬は続いた。タクミは夜にならないと姿を現せないから、会うのは必然的に夜となった。わたしは晩ご飯を食べたらすぐ家から抜け出して、菖蒲の丘に通った。
「やあ、アヤメ。今夜も星が綺麗だよ」
「本当! すっごく綺麗!」
「はは、はしゃぎすぎだよ」
「えへへ。でも、タクミも十分嬉しそうだよ」
「それは」
タクミは一瞬視線を泳がして、だけど再びわたしを見つめて言った。
「それは、今夜もアヤメに会えたから」
「え?」
「……なんでもないよ。さあ、今日は何の話をしようか」
誤魔化すようにタクミは言って、わたしの隣に腰をおろした。
それからまた他愛のない話をして、夜中になったら手を振って分かれた。
そしてある日、わたしが丘についた途端、タクミは恐ろしいことを口にしたのだ。
「ごめん。君とはもう会えないんだ」
「え……?」
「どうやら、お迎えが来たらしい。ごめんね、アヤメ」
タクミは申し訳なさそうに頭を下げた。わたしはそれを見て小さく悲鳴をあげた。タクミの腰から下が、透けているのだ。昨日までは、透けてる部分は足だけだったのに。
「どうして……?」
わたしはやっとのことで言葉を発した。
どうしてもう会えないのか。どうしてタクミの腰から下が消えてしまったのか。湧き上がる疑問を口にしたくなくて、わたしは傲慢にタクミを睨みつけた。
タクミは困ったように笑いながら、わたしをなだめるように言った。
「この二日間、すごく楽しかったんだ。君と会えて、たくさんおしゃべりをして。生きてる間にも経験したことのない、本当に楽しい二日間だった。だから」
「だから?」
「成仏しなくちゃいけない」
成仏、という言葉に、背筋が凍った。すっかり忘れていたけれど、タクミは幽霊だ。ただ会えなくなるんじゃない、存在自体が遠くへ行ってしまうんだ。
「アヤメ……」
呆然とするわたしに、タクミの揺れた声が聞こえた。
「……タクミは、楽しかったから天国へ行くの?」
「まあ……そういうことになるだろうね」
「じゃあ、わたし、今日は帰る」
「え?」
わたしはタクミから一歩離れて、視線をおとした。
「タクミが楽しくないように、もうおしゃべりなんかしない。帰る!」
「アヤメ!」
タクミが咄嗟に手を伸ばしてきた。だけどわたしはまた一歩後ずさって、タクミに背を向けて走り出した。
足元の菖蒲草が、わたしの足を絡めるように風に揺れる。わたしはそれを振り払うように、わざと足を大きくあげて走った。
頭上では月が明るく輝いている。今夜は綺麗な上弦の月だ。わたしの道しるべは、わたしをきちんと家まで導いてくれた。
「ただいまぁー。……いだっ」
家に帰ると、玄関のところで父と母の両方からゲンコツをくらった。いつもはバレないように裏口から家に入っていたのだが、今日は頭が回らなくて堂々と玄関から帰宅してしまったのだ。夜に出歩くなんて何を考えてるんだ、反省してるのか、などど散々叱られながら、わたしの頭は紺藍の瞳を持った少年のことでいっぱいだった。
上の空な娘を見てさらに激情したのか、両親はより一層怒鳴り声を荒くした。
「……ごめんなさい」
まさか幽霊とおしゃべりしていたなんて言えなくて(言っても信じてくれないだろうが)、わたしは素直に謝った。
「はあ……」
説教が一通り終わると、わたしはひとり自室にこもってぼーっとしていた。
……タクミは、まだあの丘にいるだろうか。
もう、腰まで消えていた。胸が消えて、首も消えて、最期にはあの端麗な顔も消えて、タクミはいなくなってしまうのだろうか。
もしかしたら、もう消えてしまったかも……。
ぐっ、とこらえたが、時既に遅し。わたしの頬は大量の涙で濡れていた。
幽霊は、この世にいてはならない存在だ。だからタクミは成仏しなければならないし、タクミもそれを分かっているだろう。だけどわたしは、あのとき咄嗟に思い付いてしまった。
わたしと一緒にいなければ、タクミは永遠にこの世にいられるのではないか……?
そして今、わたしは如何に自分の考えが浅はかだったかを知る。
タクミはすでに、何百年という永遠とも呼べる時間をひとり彷徨っているのだ。孤独に身を委ね、人に見つからないように、星空と同化して。
タクミはあの丘で、ずっと孤独な夜を過ごしてきたのだ。自分が何年前に死んでしまったかも、忘れるくらい長い時間を……。
何回戦争が起きただろう。何回嵐が訪れただろう。もう、数えるのにも飽きた。丘に寝そべって星を観ていると、視界の端に一際輝く星があった。あれが、アヤメの言っていた超新星だろうか……。
「お父さん、お母さん、ちょっと出掛けてくる!」
「おい、待ちなさい!」
「すぐ帰るから! 大丈夫だから!!」
後ろから追ってくる声を振り切って、家を飛び出した。靴を履く時間ももったいなくて、わたしは裸足のまま駆け出した。
「タクミ、タクミッ!!」
もう迷いはなかった。
たった七夜。わたしとタクミが出会って今日までの、こんなに短い時間を、彼はとても愛おしく思っている。それはわたしも同じだった。
息も切れ切れに走って数分。地面の感触が、アスファルトから草のそれに変わった。丘の麓まできたのだ。膝に手をついて、一旦息を整える。わたしはまた駆け出した。
「タクミーーーーッ!!」
足元で菖蒲が揺れている。丘の頂上に向かって風が吹いているのか、菖蒲はすべて丘を指していた。まるで、そこにタクミがいることを指し示すように。
頭上では上弦の月がわたしの足元を照らしている。この星空の下に、タクミはいる。
頂上についた。風はすでに止んでいた。わたしは荒い息を整えて、顔をあげた。
ゆっくりと周りを見回す。
わたしは目頭が熱くなるのを必死にこらえた。
「タクミ……」
タクミは、東の夜空に浮かんでいた。首から上だけの姿で、わたしを驚いたように見つめている。
「タクミ……!!」
わたしはタクミに駆け寄った。タクミの体がある位置に、手を触れてみる。が、手は空を掴んだだけだった。
「アヤメ……」
「タクミ、ごめんね、わたし、わたし……」
「いいんだよアヤメ。戻ってきてくれてありがとう」
すでに顔だけになってしまったタクミは、優しく微笑んだ。この七夜では見せたことのないような、優しく愛しい微笑みだった。
また目頭が熱くなるのを感じて、わたしはぐっと上を向いた。
「っ……」
上を向いたわたしは、息を飲んだ。
星空は、わたしの地図になった。
わたしとタクミの、逢瀬の地図に。
目の前に広がる星空を、わたしは一生忘れないだろう。
夜空に浮かぶ月が、タクミとわたしをスポットライトのように照らしていた。タクミの顔が、夜空に沈むように溶けていく。
タクミの紺藍の目は、最期までわたしを見つめていた。
わたしは溶けてゆくタクミを、最後まで見守っていた。
その夜、わたしの幼い初恋は星になった。
あれからずっと、わたしは毎晩望遠鏡を担いで丘にのぼっている。
ある日わたしは、視界の端に超新星を捉えた。それは真っ赤に輝いて、やがて夜空に溶けていった。