* Anteroom
無愛想な表情であとをついてきたカルロを残し、前室を出て左に、さらに左に曲がった。通路の景色はさっき、ニコラと電話で話していた場所と変わらない。ただ前方左には、クォーツと名づけられたパーティールームがある。
通路の隅に腰をおろして壁にもたれると、私は右隣にしゃがみこんだイヴァンに言った。
「あんたがヒト殴るとは思わなかった」
「うるせえ」彼は顔を伏せ、腕で顔と頭を覆っている。「ヒト殴ったのなんかはじめてだ」
それが普通だよ。「私なら絶対蹴りなのに」
彼は力なく笑うと、数秒沈黙してから口を開いた。
「──お前、なんであいつにキスなんかしたんだよ」
謎の質問が来た。「なに? カルが私のこと、尻軽だとでも言った?」
「そんなんじゃねえ」彼はすかさず否定した。「そんなんじゃねえけど──なんとなく」
「なんでって言われても、しちゃったもんはしょうがないじゃん。復讐だもん。っつーかもう忘れてよ」
イヴァンは深い溜め息をついた。
「ゲルトとかでも、同じことできたわけ? 復讐のためなら」
「──どうかな」立てた脚に伸ばした両腕を乗せ、飾り気のないシンプルな天井を見上げた。「今でこそよく話すけど、あの頃は私、カルとそんなに仲よくなかったじゃん。あんたやダヴィがいなきゃ、それほど話してもなかった気がするし──友達の友達って感じだった。だからあんなこと、できたんだと思う」
ゲルトがオンナをつくったとして、同じようなことになったら、別の方法をとった可能性はある。というか、ゲルトにもセテにも、そんな性悪女とつきあってほしくないけれど。
私は苦笑って続けた。「たぶん、カルがどう思おうとどうでもよかったんだよ。怒られても嫌われても、どうでもよかった。普段ヒトの気持ちなんて考えない人間だから──考えなきゃいけない相手を内側、それ以外を外側だとしたら、カルはきっと外側にいた。今は内側に入ってきてるんだろうけど──あの状況であんただけ連れてきて、今現在あいつをひとりにして、どう思われてるかってのも、よくわかんない。考えるのが面倒だから考えない。友達だとは思ってるけど、どうしても私、偏っちゃうんだよね。優先度っていうか、友達レベルみたいなのがあるし。ゲルトとセテは、いつも一緒にいてくれる。あんたとダヴィは、つきあってくれてる。でもカルは、私と一緒にいるあんたたちと一緒になってつきあってくれてるって表現のほうが、近い気がする」
言い終えると、彼も静かに苦笑った。
「オレらもあいつも、好きで一緒にいんだよ。楽しいから」
私は、楽しいというのももちろんあるけれど、なにより、居心地がいい。アゼルとは少し違う。彼と一緒にいる時に感じる、落ち着くというのとは少し違う。
アゼルは知りたがることもあるし、私も話す。唯一、本当になんでも話せる相手だ。でも彼らは、話さないこと、詮索しないことを前提に、好き勝手に言いたいことを言い合って、一緒にいられる。気を遣わなくていいというのが、ラクだ。
「──理由、訊かねえの?」
「興味ないしどうでもいい」
私があっさり答えると、イヴァンはまた苦笑った。
こちらも質問を返す。「でもカルと友達、やめたいわけじゃないんでしょ?」
「んな気はない。気づいたら殴ってただけ」
だけというのもどうなのか。
「んじゃ、戻ろ」私は立ち上がった。顔を伏せたままのイヴァンに向かって続ける。「私が絡むとね、敵同士も仲よくなるらしいよ。女同士の例しか知らないけど」
「なんだそれ」
笑ってそう言うと、彼は大きく深呼吸してから、顔をあげて立ち上がった。いつものように微笑む。
「殴ったのは後悔してないけど、正解ではないんだろうから、あやまるところはあやまる」
私も微笑みを返した。「いいんじゃないの、それで」
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ふたつの扉があるイヴニング・エメラルドの前室は、やっぱりアイボリーとシアンカラーの、いくつかクリスタルを描いたような絨毯を敷いてある。照明のついた白い柱が二本建ち、壁に沿って三箇所がソファコーナーになっていた。天井には中央付近に小さなシャンデリアがひとつ設置され、あとは小さくて丸い照明がたくさんで、それとは別に壁にもオレンジ色の照明があって、パーティールームよりも少し薄暗く、豪華ながらも落ち着いた雰囲気になっている。
カルロは廊下へと続くふたつのドアのあいだ、パーティールームへのドアの正面にあるタンカラーのソファにひとり脚を立てて座り、顔を伏せていた。さっきのイヴァンと同じ体勢だ。パーティールームへの大きな観音開きのドアは閉められていて、さっきのそこ以上に静かな空間になっている。
私は彼の右隣に勢いよく腰をおろした。何度か座ったけどこのソファ、とても座り心地がいい。
「この甚平でこのソファって、ないよね」
目の前には黒とサドルブラウンカラーの、おかしな柄のアームチェアがふたつ、あいだに丸テーブルがひとつ置かれている。
イヴァンはカルの左隣に腰をおろしてソファに背をあずけた。私の言葉に笑う。
「そこはやっぱり、派手なドレスでも着てねえと」
「私まだ、中学二年生なんですけど」
「派手にメイクするか、グラサンかけてりゃわかんねえから気にすんな」そう言って、イヴァンはカルロにあやまった。「悪かった」
ゆっくりと顔をあげたカルロが、眉を寄せて彼の視線を受け止める。
「すげえ痛い」
「オレはぜんぜん痛くない。すぐ飛んだ」
「お前全力だったもん」視線を落として脚をおろしながら言うと、ソファに背をあずけた。「オレも悪かった。言いすぎた」
「言いすぎなのは否定しないから、殴ったことも後悔しない」
カルロは彼にしかめっつらを返すと、そのままこちらへと視線をうつした。
「なんかムカつく」
私は笑った。「どっちもどっちなんだよ。挑発するのも悪いし、挑発に乗るのも悪い。でもイヴァンは、殴ってすっきりしたわけじゃないから。正解がわかんなかっただけ。短気なわけじゃないけど、根が単純だからね」
「お前に単純て言われたら、なんかムカつく」と、イヴァン。
「ひどい。あんただけは私の味方だと思ってた」
「いつもわりと味方だろ。単純なのは否定しないけど、お前に言われたくない」
「今度は私と喧嘩する気ですか」
「オレ、お前との喧嘩なら勝てる気がする」
「ハッタリだよ、そんなの」
「どうだか」
怖いよ、なんか。
「つーか」カルロがイヴァンに訊く。「理由、言ってねえの?」
「こいつが訊くわけないじゃん」
「私が訊くわけないじゃん」繰り返した。「興味ない」
彼は苦笑った。「それもそうだ」と言って立ち上がる。「レストルーム行ってくる。なんか口ん中、切れたっぽい。さっきから血の味が」
イヴァンも立ち上がった。「オレも行く。切れてはないけど」
「やさしいから待っててあげる」と、私。「行ってらっしゃい」
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彼らがレストルームに向かってほんの数分、チャーミアンが前室に入ってきた。
「あれ、ベラ」
私は甚平のポケットに忍ばせていたクッキーを食べている。「あれ」どこから出てきた。いや、ドアから入ってきたんだけど。
少々気まずそうにも口元をゆるめ、彼女がこちらにくる。ソファの前にあるアームチェアを指差した。
「座っていい?」
「いいけど」
彼女は向かって左のアームチェアに腰かけ、脚の上で握り合わせた手を見つめた。
「──フラれた」
私はぽかんとした。「は?」
視線を合わせないまま苦笑う。「トルベンにね、告白したの。でもフラれた」
「へえ」
甚平の右ポケットから個包装のクッキーをふたつ出し、身を乗り出してひとつを「あげる」と言って、丸テーブルに放り置いた。テーマパークで買ったものだ。土産用だが、ただのおやつ。こちらもクッキーのフィルムを開ける。
「アホだな。告るならせめて明日にすればよかったのに。明日、四人でまわれなくなるじゃん」
私はクッキーを口に放り込んで食べた。そういえばニコラと電話で話していた時、トルベンがいた。あれがそうだったのか。
チャーミアンはクッキーを手に取った。
「だよね──」フィルムを少し開けたものの、すぐ手を止めた。「──でも、アウニとヤーゴがね、すごく楽しそうなんだよね。なんか羨ましくて」
「誰でもよかったわけ?」
そう訊くと、彼女は泣きそうな顔で否定した。
「違う──小学校五年の時からずっと、好きだった」言葉を切ってまた視線を落とす。「でもどうすればいいか、わかんなかった。むこうの気持ちだって──でも六月、あんなことになっちゃって──けど唯一態度を変えないでいてくれた男の子が、トルベンだった」
トルベンが彼女のことを“アホ女”と言っていたような記憶があるのは私だけか。
彼女が続ける。「文化祭でD組のホラーハウスに入った時も、怖かったり驚いたりで、しがみついたりもしちゃったんだけど、イヤな顔ひとつしなかった。アウニとヤーゴと四人でまわることも、修学旅行に来て、私と一緒の組み合わせになることも──ぜんぜんイヤそうじゃなかったし、楽しかったから──もしかしたらって、思ってて──」
実はアゼルタイプなのかもしれない、と思ったが、すぐにその考えを否定した。絶対違う。そんなわけがない。
「つまり思わせぶりな態度をとられたと」
彼女はまた苦笑った。
「──よく、わかんない。でも、好きな人がいるって、言われた」
ルキアノスと同じことを言ったらしい。「ただの言い訳じゃないの、それ」
「──だと、よかったんだけど」再びクッキーのフィルムを開ける。「──わかっちゃったんだよね、誰が好きなのかって」
「へえ」
解らなくていいところが解るんだな、と思った。そんなことが解るなら、相手が自分を好きなのかどうかも解ればよかったのに。
「ま、恨むんならアウニとヤーゴを恨めばいいよね。あの自己中カップルが、ふたりでまわらないのが悪いんだし」
チャーミアンはやはり苦笑した。「だよね。せめて今日のテーマパークだけでも、アウニたちがふたりだけでまわってくれてれば、こんなバカなこと、しなくてすんだのに」そう言って、クッキーを一口食べる。
テーマパークに限らず、自由行動の時間になるたび、ヤーゴはアウニとふたりきりでまわろうとしているものの、彼女が恥ずかしいと言って拒否しているせいで、トルベンとチャーミアンがそれにつきあわされている。チャーミアンはつまり、無理やりというわけでもなかったわけだが。アウニとヤーゴはつきあってからというもの、一緒に帰ることはあっても、一度もまともなデートをしていない。キスもしていないのだとか。
「いいクスリになるんじゃないの、あのアホ共には」私は言った。「明日はふたりでまわって、散々冷やかし受ければいいよ」
「だよね。そうしてくれればいい」そう言うと、少々ヤケ気味なのか、残りのクッキーを口に放り込んで食べた。かと思えば、今さらな質問をこちらにした。「っていうか、なんでこんなとこにいるの?」
「諸事情に──」
右後方でドアが開いた。カルロとイヴァンが戻ってきたのだ。
「あれ、チャーミアンがいる」カルロが言った。
イヴァンはドアを閉めた。「なにやってんだ。サボり?」
「うん、ちょっと」チャーミアンが答える。「そっちは? 三人でサボってるの?」
「サボってはねえよ。ちょっと抜けただけ」と、カルロ。
彼は再びソファの中央に、イヴァンはその左に腰をおろした。
「っつーか、ホテルってダメだよね」私は言った。「個室でカードキーだったら、寝起きドッキリできないじゃん」
イヴァンが答える。「できないことはないんじゃね? カード盗めばいい」
「いちいち誰かのカードキー盗むとか、めんどくさいじゃん。しかも教師に報告なんかされたら、それこそおおごとになる」
「それは言えてる」イヴァンはソファにもたれた。「立地的にも雰囲気的にも、さすがにホテル抜け出して花火なんてのはできないもんな」
「だよね」つまらない。というか、花火はもう飽きた。「とりあえず戻ろうか」
パーティールームに戻ると、アニタとエルミはまだ総合司会を務めていた。謎のC組レクリエーションが進行される中、私とイヴァン、カルロは三人揃って教師陣に頭を下げた。
許されたところで、私は隣のテーブルからマイクをひったくり、「この二人に無駄に質問したら、私とボダルト主事が本気でキレます」と、室内にいる全員に言った。主事が便乗したこともあり、パーティールーム内は爆笑の渦に包まれた。レクを仕切っていたアニタとエルミには、邪魔をするなと怒られた。




