* Conclusion
私はまた、夜眠るのが怖くなっていた。寝ようと思って眠れるものでもなかった。油断すると、アゼルの記憶が蘇る。クッションを替えても、シーツを何度洗っても、“アゼル”は消えなかった。
だから眠気に限界がくるまで起きていて、音楽を流しながら、知らず知らずのうちに眠りにつくようになった。
考えることは決まっていた。ディックに誘われたバイトの話だ。十七歳といえば高校二年生。私はどうなっているのだろう。これ以上、なにも失っていなければいいのだが。またバカな男に引っかかっていなければいいのだが。──それはないか。だいじょうぶだ。
彼は、オリジナルだったりカバーだったりをと言っていた。オリジナル曲ということは、作詞作曲を自分たちでやるということだ。正直、CDを買って家やカラオケでうたってという日常しか知らない私にとっては、興味がある反面、現実味がなさすぎる気がする。
現実。
アゼルが消えた現実。裏切られた現実。捨てられた現実。
現実なんて、くそくらえだ。
恋しがるのがイヤで、流している音楽を心の中でうたいながら眠る。
だけどアゼルは、勝手にやってくる。
夢の中、私に微笑みかける。私の頬に触れて、私を怒らせるようなことばかり言う。眠っていても、それを夢だとわかっているのか、現実だったらいいのにという願いなのか、とにかく私は、それに幸せを感じている。
はっとして目を覚ます。
彼の居ない現実に引き戻される。
そんな状態で、ぐっすりとなんて眠れるわけがない。毎晩ではないものの、アゼルの夢をみたあとの朝は、私はものすごく不機嫌だ。だけどこうなると、不思議と寝坊はしなくなる。二度寝すれば、また夢をみる可能性があるからだ。
だから私はまた、授業中に寝るようになった。ぐっすり眠れるわけではない授業中の睡眠というのは、あまり夢もみない。ゲルトたちは、起きなければいけない時でないと起こしはしないし、話をするとしても、テンションの上がらない私を、無理に笑わせようとはしないでいてくれる。
私は、空っぽだった。
心は枯れた井戸のようで、そこに周りが少しだけ、水をかけてくれている状態だ。けれどそれもすぐに乾いてしまう。井戸なのに、誰かが水を入れてくれたとしても、それは石と石のあいだを通り抜けていくだけで、中を満たしたりはできなかった。
アゼルが更生施設に行ったという話は、少なくとも二年のあいだでは、それほど話が広まっていないようだった。私が南京錠や指輪をつけていることに反応した女は何人かいたけれど、私はそれをろくに見せも話しもしなかったし、アゼルの名前を出してのいろいろな憶測に対しても、否定も肯定もすることなく、適当にはぐらかした。ケイにだって、指輪は見せたけれど、南京錠のことは話していない。妙に勘ぐってにやつきもしたけれど、手刀をかましてやると、それ以上無駄な詮索はしなかった。
リーズとニコラには時々、学校で会った。でも挨拶をする程度だった。声をかけられても、私があまり相手にしなかった。元通りになってくれるまで相手をするつもりがないと、彼女たちには言ってある。気を遣うのをやめてくれないなら、私は話をしたくない。
それでもブルとマスティは、夜に突然、祖母の家の前まで来ることがあった。スクーターに乗って、リーズとニコラを送った帰りだと言って、私にお菓子をくれる。当然こちらは会いたくないと言うのだが、私が出て行くまで家の前でエンジンをふかし続けてやると脅しをかけるのだ。
それでも私が脅し返していたせいか、彼らは炭酸アップルジュースのペットボトルにビールを入れて持ってくるようになった。お菓子では動かなかったのに、私はそれには反応した。どちらかのうしろに乗って、十数分のドライブに行ったりした。オールド・キャッスルの住宅街を抜けて、ヴァーデュア・パークに行って、少し話をして帰る。そんなことを週に一、二度、していた。
一日一日が、とんでもなく長かった。好きなはずの冬の冷たさが、アゼルが居た時との温度差を私に思い知らせた。
それでも私は、アゼルの面影に抗い続けた。
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二月──寒さのピークは頂点に達していた。凍死するなら今がベストな時期だ。
ふと、私が今死んだら、アゼルはどうするのだろうと考えた。更生施設にそんな知らせが届くのかはわからない。伝えてやらないというのもまた、復讐のひとつの手かもしれない。それでアゼルはまた、裏切り者になる。
──違うか。死んだとわかった時に死ぬという約束だったから、私の死を知ってすぐアゼルが私を追いかけて死ぬのなら、裏切ることにはならないのか。
──死んだら、アゼルが、私のものになる。
そんなことを考えた次の瞬間、誰かが私の頭をはたいた。
「起きろこら」ゲルトの声だった。
二年D組の教室。私は自分の机に両腕を寝かせ、その上に頭を、窓のほうを向けて眠っていた。というかLHRだろう途中で起きたものの、眠っているフリをやめずにいた。
「LHR終わった」セテが言う。「アニタとペトラがなんか言ってる」
「そんなもんは無視しちまえ」
私は身体を起こさないまま、目も閉じたままで言った。教室内からは、椅子を引く音、また明日と挨拶する声、様々な雑談と雑音が溢れている。
「起きてってば」ペトラが促した。「ちょっと相談」
相談。なんだろう。そういえば最近、アニタから今いいかとかいうメールが何度か、届いていた。すべて無視していたが。アゼルがいなくなってからというもの、どういう態度をとればいいのか彼女もわからないらしく、教室でもそれほど、話さなくなっている。というか私、基本的に寝ているし。
今日は月曜日だ。そうそう、第三週の月曜日。明後日は魔のバレンタイン。つまり今日は十二日。で、アニタがいるわけなので。おおよその見当はついた。
「お前ら喧嘩売ってんの?」と、私は言ってみた。
ペトラが口ごたえする。「まだなんも言ってねえよ」
あくびをしながらゆっくりと身体を起こし、思いきり背伸びをした。背伸びをするのは好きだ。小学校の時、実はこの瞬間のせいで背が伸びているのではと、本気で思っていたことがある。実は今も少し思っている。それが事実なら、私は本気で背伸びをやめてもいい。
私は、視線をヒト気のないグラウンドへと向けた。
「じゃあ明日。おばーちゃんには言っとく」
「え、わかったの?」ペトラが訊いた。
「あんたなんかキライ」
「気遣われたいのか遣われたくないのかどっちだよ」
「放っておいてほしい」
背後からアニタが私の首に腕をまわして抱きつき、髪に頬を寄せた。
「言いだしたのはあたしだよ。べつに平気だろって言ってくれたのはゲルトだけど」
「なんでバレンタインてこう、いちいち平日なんだろうね」
「学校でチョコを渡すため?」
「それが原因で誰かとモメるためじゃないの」
彼女は苦笑った。
「もう忘れたよ、あんなののこと。あ、でもね」声を潜める。「告白はしないよ。入試は今月の──二十八日と二十九日? なんだって。だからそれが終わったら、会いに行くつもり」
尊敬するほど計画的だ。それを見習ってアゼルも、いつ喧嘩して更生施設に入るかというのを、しっかりと計画をたてて実行してくれればよかったのだ。そうすれば私も、もう少し心の準備ができたかもしれないのに。
「っていうか、言うならもうちょっと早くいいなよ」私は彼女に言った。「私はいいけど、おばあちゃんにだって都合ってもんが」
言葉を切ると、アニタは不満そうに反論した。「だってベラ、最近、メールぜんぜん返してくれないんだもん」
二月だからかもしれない。「用件だけ勝手に送ってくればいいじゃん。今の私はボタンを三回押して届いたメールを開くことすらめんどくさい」
「で、どうなのよ」アニタの脇に立つペトラが訊いた。「いけんの? 放課後」
「頼んでみる」
「みんなには?」アニタが訊いた。「配る?」
「やめときなよ。繰り返したくないでしょ」
「そんなことにはなんないよ。だってつきあってないし」
「じゃあ時間の都合もあるし、おばあちゃんしだいってことにしとく。今日の夜メールする」
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「あら、平気よ」買ってきた食材が入った紙袋をキッチンカウンターに置きながら、祖母はあっさりと答えた。「またやるのかと思って、今年は十三日、有給をとってるもの」
「まじで」
彼女が苦笑う。「でもなにも言われないから、先走っちゃったのかと思ってたわ。夕食はあなたが学校に行ってるあいだに作っておくから、クッキーでもチョコでも、時間の許す限り没頭できるわよ」
祖母も計画的らしい。「わかった。みんなに配るぶんもなんか作りたいって言ってるけど、平気かな」
「クッキーなら大丈夫なんじゃない? 彼女たちが本命の相手に別のものを作りたいっていうなら、チョコレートをかけたプチカップケーキとかね」
今さらだが、私ではなくアニタのほうが祖母に甘えている気がしてきた。
「わかった。電話してくる」
きっと祖母にとって、この有給はかなり大きな賭けだったに違いない。アニタが言いだして友達に配るなにかを作る可能性はじゅうぶん考えられただろうが、私がそれに乗るかどうかは微妙だった。本命と義理との違いの提案も、やはり大きな賭けのような気がする。
もしかすると私が実は病んでいて、バレンタインになんの行動も起こそうとしない私に、十三日に有給をとったと知られれば、やさしい祖母は、私を傷つけたと自分を責めるかもしれない。
だが私は、なにも不快には思わなかった。バレンタインなんてものは、世間が勝手に騒いでいるだけの普通の日だ。なんなら、売れ残った高級チョコレートを安く買うためのただのきっかけの日だ。
電話越し、アニタは甲高い声で喜んだ。チョコレートをかけたプチカップケーキというのに、とても興味を示していた。さっそくペトラに電話すると言うので、電話を切った。
アニタママだって、料理はできる。ただ、お菓子はあまり作らない。今は。私たちが小学校四年生だった頃、お菓子作りに没頭していた時期があった。毎日料理本片手になんだかんだとお菓子を作っては、私たちに食べさせていた。おいしかったり微妙だったりと、レシピが難しくなるほど、出来にムラができるようになった。しかも夕食が手抜きになるという家庭内への影響と、単に飽きたという理由から、アニタママはお菓子を作ることをやめた。
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その日、夜九時すぎ。
また、マスティから電話が鳴った。無視しようかと思いながらも、窓から外を見下ろした。スクーターに乗った彼がひとり、家の前にいる。私は溜め息をついて電話に応じた。
「なーに」
「出てこい」マスティが言った。「今すぐ」
「あんたなにするかわかんないからイヤ」
「あ? んじゃ今から家の中乗り込んで、真剣に犯していいわけ?」
真剣に犯すって、なんだろう。「その前に真剣に殺すわよ」似たような言葉を返してやった。
無視された。「いいから出てこい。キスくらいならしてやる」
「警察呼んでいいですか」
「わかったから、出てこいって。じゃないとほんとに家乗り込むぞ」
なぜ放っておいてくれないのだろう。「わかった。ちょっと待ってて」
こういう時、祖母にはマスティとブルが来てるから少し出てくる、と言うだけだ。なにも訊かれない。気をつけてと言われるだけ。バレンタインの件も含め、祖母は私の扱い方をよくわかっているらしい。




