* Unmoved
帰りのバスの中。
左手の薬指につけた、カレルヴォから受け取ったリングを、じっと見つめていた。
やっぱり誰かがいると、それなりに笑っていられる。そうしようと努力できる。今日はこの指輪を完成させるという目的があったからかもしれないけれど。
内側に彫る名前を“AZEL”にしなかったのは、言い訳が欲しかったからだ。こんなものを作ってつけたのは、私が傷ついていなくて、気にもしていなくて、寂しがったり、恋しがったりしていないっていうのを、形にして残すためだ。なにより、自分に言い聞かせるためだ。
喪失も裏切りも嘘も憎しみも、私はもう、慣れてる。
違う、慣れていた。
慣れていたのに、それが私だったのに、アゼルがそれを忘れさせた。特に二度目の浮気から、約十ヶ月のあいだ──少なくともこの数ヶ月だけは、アゼルは私から、それらを消した。喧嘩もしたけど、泣いたりもしたけど、ずっとそばにいてくれた。絶対的な存在になっていた。
なのに、消えた。
捨てられることが私にとって、どれだけ苦痛かを知っているくせに。消えようとした私を、あれだけ怒ったくせに。よりによって、一緒にいた時に喧嘩しに行った。私が眠っているあいだに、私と一緒にいた場所から。最低だ。
“Damn”や“Sit”も彫ってもらうべきだったか。もしくは“Foolish”とか。悪口など、言いはじめればらキリがないのだが。本当は“Solitude”も刻印してもらいたかったけれど、文字数的に無理だった。残念だ。でも入れなくてよかったかもとも思う。だって寂しいなんて、思いたくはないのだから。
指輪を、右手指で包んだ。
認めてしまえばラクになる。ゲルトはそう言った。私もそう思う。
だけど認めてしまったら、よけい苦しくもなる気がする。すがる女にはなりたくない。私のなりたくない女になってしまう。
学校でも、シャワーを浴びる時も眠る時も、ずっとこの指輪をつけてるから、どうか早く、完璧な憎しみに変わって。
愛を消して、私をラクにして。
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危うく、バスを乗り過ごすところだった。祖母には、少し遅くなるけど夕食は家で食べるとメールを送っている。気を抜くとそこらじゅうに現れそうなアゼルの面影から逃げるよう、祖母の家へと急いだ。
祖母の家。
リビングに入ると、多すぎる気がする夕食がカウンターに用意されていた。キッチンで祖母が振り返る。
「あら、おかえり」
キッチンカウンターの上に並べられた、軽く六人分はあるだろう、種類の豊富な品々を見やりながら訊いた。「ただいまだけど、なに? 多すぎない?」
彼女は天井を指差した。「あなたの部屋に、みんなが来てるわ。リーズとニコラ、ブルとマスティ。私が仕事から帰ったら、家の前にいたの。リーズとニコラは今日、学校をサボっちゃったらしいんだけど。あなたに会いにきたって。遅くなるってメールがあったわよって言ったんだけど、待つって」
三日後だという話ではなかったのか。まだ一日なのだが。「そう」
「ごめんね。そっとしておいたほうがいいかもって言ったんだけど、顔だけでも見たいって」
「おばあちゃんが悪いんじゃない」心配されることはわかっている。アニタですら、そうした。「会ってくる」
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階段をあがりながら、どうにか“顔”をつくろうと試みた。“不機嫌”や“怒り”を抜かなければいけないぶん、やっかいな作業だ。ただの無愛想でとおさなければならない。祖母が彼らのぶんまで夕食を用意しているとなると、それを無駄にしないためにも、気分よくいてもらわなければならない。
そう、“いつも”のように。
これを乗り越えれば、またひとつ強くなれることを、私は知っている。
ただ、気がかりなこともある。
アゼルが消えて、私はまた、いろんなことがどうでもよくなっている。他の誰が消えてもいい気がしている。そんなわけがないと、頭ではわかっている。
ゲルトやアニタは大事な存在として、私の中に刷り込まれている。だけどそれ以外、もうどうでもいい気がする。理由のひとつは、おそらく自棄になっていて、“消えるなら勝手に消えろ”と思いたいから。そして、これ以上失うのが怖いというのもある。“愛して失う”のが怖いのだ。これ以上大切なものが壊れていくのを、私はもう、見たくはない。“大切だ”と意識したくないから、傷つきたくないから、“勝手に消えろ”と思い込もうとしている。
気づけば二階のドアの前で立ち止まっていた。このドアを開ければ、そこからが私の部屋。階段があって、屋根裏部屋に着く。彼らがいる。
ゆっくりと、深呼吸をした。
私はやっぱり、ゲルト以外の前で泣く気にはなれない。泣きそうになってもそれを止める。平気なふりをする。それが私だ。
もう一度深呼吸すると、ノブに手をかけ、ドアをゆっくりと開けた。
ドアを閉めた音のおかげか、小さく聞こえていた話し声がやんだのがわかった。それすら溜め息の元なのだが。
階段をのぼりきる数段手前で立ち止まり、彼らを観察した。
ラグの上に集まった彼らは四人共、揃ってこちらを見ている。リーズはあからさまに心配した表情で、ニコラは心配を隠そうとしているけど隠しきれていない表情で。ブルはこちらの出方を伺うような表情で──だがマスティは、なんだかわからない。心配だけではない。深刻そうだ。
「なんか用?」
私が訊くと、奥に腰をおろしているマスティを除く三人が、無言のまま顔を見合わせた。マスティだけはじっとこちらを見ている。ふいに立ち上がると、マスティは彼らのあいだを通って私の前まで来た。
彼が腰をおろした瞬間、三日前の、アゼルと体育倉庫に忍び込んだ時のことを思い出した。こんなふうに思い出すことすら、苦痛の種になる。夢の引き金になる。
じっと私の目を見つめ、マスティはつぶやくように切りだした。
「──なんでお前、そんな平気な顔してんの?」
なぜと訊かれても。「──あんたは、なんで今にも泣きそうな顔してんの?」
「してねえよ」
「してる」と言って、私は右手で彼の頬に触れた。アゼルとは違う肌触りだ。
頬の上、左手で私の手を握ると、マスティはうつむいた。
なぜ“泣きそうな顔をしてる”と言ったのかはわからない。直感的にそう感じたのだろう、気づいけば口にしていた。
「こういうの、やめて。泣かないのが私の“普通”なの。平気な顔をしてるのが私なの。私になにかを求められても困る。そっちがへこんでるんだとしても、私は慰めたりしない。あんたたちの前で泣きわめくことだって、絶対にしない。他の誰よりも、あいつがそれをわかってる。私が理由を求めたりしないってことも、待ったりしないってことも、あいつはぜんぶわかってる。それが私だから。あいつひとりのために、他のものまでめちゃくちゃにしたくないの。お願いだから、普通にしてよ」
「──“普通”が、わかんねえ」
この二年間、“アゼルが居た”のが、彼にとっての、“普通”。
「わかるでしょ。私のキライなものばっかり好きで、ああ言えばこう言って、なんでも適当で、平気でヒトの肩組んで、平気でツレの女にキスするような男。それがあんた。あいつがいてもいなくても変わらない。死んだわけじゃないんだから、あんたはいつものように待てばいい。期間が今までより長いだけ。他はなにも変わらない」
「──お前、マブに来ねえじゃん」
「さすがに無理。暴れる可能性があるから無理。でももらった鍵は、ちゃんと持ってる」クローゼットの中、アゼルの学ランの胸ポケットに、フォールディングナイフやメモと一緒に入れている。「行くとしたら、人知れず行く。どれだけゲイなのか知らないけど、おばあちゃんやゲルトまで巻き込まないでよ。あれでも一応、私のこと心配してくれてるんだから」
彼の声が低くなった。「──ゲイじゃねえ」気に障ったらしい。
「ゲイじゃん。なんであんたが傷心なわけ? 意味がわからない。こっちに慰めを求めないでよ。あんたがへこめばへこむほど、ゲイにしか思えなくなる。っていうか女もいけるから、バイなの?」
数秒沈黙したあと、彼はゆっくりと顔を上げて私を睨んだ。
「お前、マジでキレる」
私は静かに反論した。「キレたいのはこっち。勝手にヒトの家に乗りこんで、わざわざ空気重くしないで。しかもおばあちゃんに夕食まで用意させて、なにしに来たのよ。わざわざ自分がゲイですって宣伝しに来たの?」
彼は怒っている。「ゲイじゃねえっつってんだろ」
「ゲイだってこと公表するのはほんの一部だとか、まえにそんな話してたよね。これで晴れて、あんたもその“一部”の仲間入り──」
マスティは右手を私の腰にまわして私の身体を支え、左手で私の顔を引き寄せると、私にキスをした。頬にでも額にでもなく、唇に。
フレンチ約五秒。
私は、驚かなかった。目を閉じることも、見開くこともしなかった。
唇を離し、まだ近いままの私の眼を見て再度言う。
「ゲイじゃねえ」
「じゃあバイ」
「動じないとこがマジでムカつく」
「あんたなんかに私は動かせないわよ」
「アゼルが動かせたんだから、俺だって動かせるだろ」
「無理よ。あいつのせいで、私の心は完全に枯れた。私は呪われたの。誰のことも好きになれないし、誰と寝てもきっと、比べて不満に思って終わり。あいつはそうなるよう私に仕込んだの。でももう、あいつにだって私は動かせない。私は誰のものにもならない。それより早く下におりないと、せっかくの夕食が冷めちゃう」
「マジで俺らのぶんもあんのか」
「食ったらすぐ帰ってね」
「ここにテレビ持ってくるってどうよ。新しいたまり場」
「笑えるけど、それしたらマジでキレるわよ。なんならあんたも、マブに女連れ込めばいいじゃない。鍵返すから、復讐の意味も兼ねて、あいつの部屋をホテル代わりに使えばいいじゃない」
「それは無理」
「もう離して。次やったらマジでキレる。私がブルになにしたか、聞いたよね」
彼はまだ身体を離そうとしない。「聞いた。ブルがお前をキレさせたから、俺はお前を泣かせに来た。──つもりだったんだけど」
「だから、無理。私はキレるしか脳がないからね。離さないなら、階段から突き落とすわよ。目撃者ならいる。弱ってるところにつけこもうとしたあんたに襲われそうになったって言えば、私は正当防衛で許される。大人を騙すのは得意なの」
表情には出さなかったがおそらく、彼はその気になれば私がそれを実行するだろうと理解した。
「──お前、どうかしてる」
マスティはやっと私から手を離した。私は呆気にとられているというか、不安げにこちらを見ていたブルたちへと視線をうつした。
「夕食、おばあちゃんが用意してくれてる。おばあちゃんに心配かけたくないから、できるだけ普通にして。あと、遊びにくるんじゃないなら、こんなふうに家に押しかけてくるのはやめて。で、さっさと食って帰って。歩きすぎて疲れてるの」
そう言ってバッグをフロアに放り投げると、私は向きなおってまた階段を下におりた。
夕食は、いつものバカ騒ぎのようにはならなかった。私がリビングで食べることにしたことと、祖母が仕事をしてくると言って二階にあがったこともあり、ただ話をしながら食べるという状態だった。
だけどブルが私の指輪に気づき、それを見せると、彼はふきだして苦笑った。マスティとリーズは絶句して、ニコラも苦笑った。私は気にしなかった。ちなみに彼ら、スクーターはリーズの家に置いてきたらしい。気づかなかったはずだ。
夕食を食べ終わると、彼らは「またな」と言って帰っていった。
ケイからメールが入っていた。告白されて、恋愛感情はよくわからないけど、私の投資に応えるためにつきあうと。




