* Venus
声がした。
知っている声に、何度も何度も名前を呼ばれた。
私は、目を開けた。
「ああ、よかった──」祖母だ。ベッドの傍らに膝をついてこちらを見ている。「大丈夫? なにがあったの? どうしたの?」
──なに。
すぐには答えず、状況を理解しようとした。
祖母が帰ってきた。
アゼルは約束を破った。
白い羽がたくさん。
アゼルは消えた。
私は捨てられた。
私は眠っていた。
アゼルが更生施設に入った。
私はクッションを引き裂いた。
これは羽。
私は、羽に埋もれて眠っていた。
「──アゼルが、喧嘩で警察に捕まって──更生施設に、入るって」
表情に滲みでている祖母の戸惑いが、さらに大きくなった。「まあ──」
「──それで、なんか、色々、ムカついて──ストレス発散してたら──いつのまにか、寝てた」
心なしか、祖母が一瞬、呆気にとられた気がする。だけどその表情はすぐ、苦笑に変わった。
「それで、クッションをむっつとも、台無しにしちゃったのね」
ああ、ぜんぶやっちゃったのか。「ごめんなさい」
「いいのよ」と言って、祖母は私の髪を撫でた。そして私が手に持っていたはずのフォールディングナイフを、ブレードをしまった状態で、再び私の手元に置いた。「怪我はしてないのね?」
私は小さくうなずいた。
「そう、ならよかった」祖母はベッドに腰かけてまた、私の髪を撫でた。「どのくらい、入るの?」
「一年だって──しかもベネフィット・アイランドのじゃなくて、アマウント・ウィズダムの施設」
「あら──」祖母の表情は曇っている。「──寂しくなるわね」
私は、首を横に振った。
「待たない。本人に伝わったかはわからないけど、もう別れたの。終わった。私はもう、好きじゃない」
祖母は心配するような眼で私を見ている。でも、それを口にしたりはしなかった。
「ちゃんとご飯、食べた?」
「──そういえば今日、なにも食べてない」
「あら。だめよ、そんなんじゃ。おみやげがあるの。夕食のまえにとりあえず、それをいただきましょう。紅茶淹れるから、降りてらっしゃい」
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祖母が部屋を出てから少ししたあと、私は一階におり、顔を洗ってからリビングへと向かった。祖母はリビングのテーブルに紅茶と、おみやげらしいお菓子を数種類、用意してくれていた。私が祖母の隣に座ると、髪についていたらしい羽をとってくれ、ふたりでクッキーを食べはじめた。
「あいつは堕天使なの」と、私はつぶやいた。
祖母が訊き返す。「堕天使?」
「あいつのラストネーム──“ルシファー”。堕天使で悪魔」
「あら、それは違うわよ」彼女はあっさりと否定した。「確かにルシファーは、堕転して悪魔になったけど。彼が堕ちてからの名前は、“サタン”だもの。ルシファーはれっきとした天使よ。神に使えて多くの天使を率いる、十二枚の翼を持った、美しい天使の長。大天使長」
──天使の、長。「──お山の、ボス猿?」
祖母は笑った。
「まあ、どうかしら。でも“ルシファー”って名前は、堕天使や悪魔って意味を持たないと、私は思ってるわよ。“ルシファー”はね、大天使であると同時に、“明けの明星”でもあるの。明け方、東の空に見える星。私たちがいる地球にいちばん近くて、月に次いで二番目に明るい星を差す言葉」
──明けの、明星。「そんないいもんじゃ、ないと思うけど」
「もうひとつ教えてあげる」彼女はにっこりとして言った。「その二番目に明るい星っていうのは、別名、“アプロディーテーの星”とも呼ばれるの」
「──アプ──?」
「“アプロディーテーの星”」繰り返した。「“アプロディーテー”っていうのは、美と愛を司る神話の女神よ。美に誇り高く、最高の美神として選ばれた女神。戦の女神としての側面も持つ」そこまで言うと、祖母はまた私の髪を撫でて微笑んだ。「“戦の女神”かどうかはわからないけど、“美と愛を司る”ってところは、あなたにぴったり。アプロディーテーは、“春の女神”とも呼ばれるから。あなたたちふたりには、“金星”っていう共通点があるわね」
──“金星”っていう、共通点。
「さてと」私が言葉を返す前に祖母が切りだした。「あなた、煙草を吸うみたいだけど?」
灰皿も煙草も、ベッドの上に置いたままだった。「ごめんなさい」
彼女は笑って、私の頭を頬に寄せた。
「怒ってないわ。リーズやニコラが吸うことだって知ってるもの。でも、この際だから教えてちょうだい。お酒は?」
「──ビールを、たまに」
「強いの?」
“強い”の基準が、わからない。「三本飲んでも、眠くなるだけ?」
「あら、強いのね。じゃあワインを飲んだことは?」
「それはない」
「そう。じゃあ飲んでみる?」
え。
「私もワインなら、ちょっと飲むの。時々だけどね。旅行先で思わず買っちゃったのがあるから、今日は夕食を食べながら、飲んでみない? もちろんビールがよければ、お隣にもらってくるけど」
え。
祖母は私の髪にキスをして、また髪を撫でた。
「あなたは本当に強い子ね。でも、無理しないで。煙草を吸うのも、お酒を飲むのも、好きにしてかまわない。ナイフを持ってるのもかまわない。でも外ではあまり、しないほうがいいわ。ナイフは特に、警察もさすがに見過ごせないだろうから。もちろん補導されたら、ちゃんと迎えに行くけど──寂しくなるだろうけど、あなたの正しさの基準を見失わないで。誘惑に負けないで。それだけ、約束してちょうだい」
思わず、泣きそうそうになった。ここでやたら慰められたりしたら、きっと私、どうにかなってた。
泣きたくなくて、笑った。
「うん。ちゃんと、約束する。絶対に、破ったりしない」
私は、アゼルのようにはならない。アゼルなんかに、支配されたりしない。




