* Feather Of Fallen Angel
数時間前、彼は確かにここに居た。
彼は確かにここに居て、私に触れた。
確かにここに居て、私にキスをした。
ここに居て、私を抱いた。
確かに、ここに居たのに。
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眠いのに、どうしてもベッドで眠る気にはなれなかった。だからって、ラグの上に行く気にもなれなかった。だから床に腰をおろして、ベッドにもたれた。立てた両脚を抱え込み、顔を伏せて目を閉じた。
なにを思えばいいのか、さっぱりわからない。どうすればいいのか、まったくわからない。
わからないから、一昨日アゼルに言ったことを訂正しようと思った。
頭はよくない。やっぱり、ただのバカだ。
他に、なにを言ったっけ。
根気強い。根気強いってなに? 意味がわからない。
努力ができる? できてない。──いや、していたのかな。呼び出されたにしても、行かないのが正解。バカ。ただのバカ。
バカ。
バカ。
バカ。
もうやだ。なにも考えたくない。
南京錠。
なぜあんなこと、したのだろう。その仕返しなのかな。罰なのかな。受け入れてもらえたと思っていたけれど、まだ終わっていなかったのかな。
わけがわからない。
だって、あいつがなにを考えているかなど、わからない。
猿。
猿。
猿。
“約束”は、絶対だと思っていた。
“施設に戻るようなことはしない”という約束と、南京錠の“TWD”は、絶対だと思っていた。
南京錠に“Never Go Back To Rehab”──“NGBTR”も一緒に、彫っておくべきだったのかな。それをしても、けっきょくあいつは行く気がするから笑える。
“そういう人間”なのではない。“そういう人間”でいたいだけ。
バカな猿。
バカ猿。
バカ猿。
バカ猿。
もうやだ。シャワー浴びたい。
もうやだ。なにも考えたくない。
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気づけば昼になっているらしかった。ベッドの上、傍らで携帯電話が鳴っている。寝た覚えはないけれど、寝ていたのかもしれない。よくわからない。
ただシャワーを浴びて、アゼルの荷物が残ってることに気づいた。私はそれを無視した。無視して、チェストから煙草とライターを取り出した。
黒いバスローブ姿のまま、ベッドに寝転んだ。煙草を吸った。なにも考えてないと思う。私自身、状況を理解してるのかどうかすら、怪しい。
電話はまた、ブルからだ。
「今お前の家の前にいる」彼が言う。「出てこい。渡すもんがある」
「めんどくさい」と、私は答えた。
「すぐ終わるって。ニコラとリーズも来てる。マスティも」
「──ポストの中、見て。アゼルのメモがホントなら──ポストの中に、家の鍵があると思う。でも、ひとりで来て。マスティもリーズもニコラも、他は誰も入れないで」
「──心配してる」
──心、配。
私は鼻で笑った。
「私、心配されるのも同情されるのも、大嫌い。慰めなんかいらない。そんなもの、なんの役にもたたない。今キレかけてんの。来られても、なにするかわかんない。だからやめて。こっちも持って帰ってもらわなきゃいけないものがあるけど、なんなら窓からそれ投げるから、そっちの“渡すもの”は、ポストの中でもドアの前でも、置いてってくれればいい。そしたらあとで取りに行く」
考えているのか、ほんの少し沈黙し、彼は溜め息をついた。
「わかった。行くからちょっと待ってろ」
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ブルが部屋にあがってきた時、私はベッドヘッドにクッションをはさんでもたれ、煙草を吸っていた。朝彼が電話してきてから、すでに五本は吸っている。おそらくこれは六本目。でも吸えば吸うほど身体がだるくなっていくから、やっぱり寝ていないのだと思った。もしかすると、精神的に疲れすぎているからかもしれないけれど。
ブルは私の家の鍵をナイトテーブルに置くと、ベッドに腰かけ、「マブでアゼルのじいさんと話した」と言った。着替えを取りに来たらしい。それでも詳しいことはやっぱり教えてもらえなかった、と。
彼が続ける。「一年、更生施設に入れるって。しかも──ベネフィット・アイランドのじゃなくて、アマウント・ウィズダムのに」
アマウント・ウィズダム──同じフォース・カントリー地方にある、ベネフィット・アイランドの隣のプレフェクチュールだ。
私は煙草の煙を吐き出した。
「そんなのどうでもいい」視線を合わせないまま答える。「渡すものってなに」
ブルは私の傍らに、アゼルのフォールディングナイフと鍵を置いた。
「ナイフは、アゼルがお前に渡せって」
──殺される覚悟は、してるらしい。
こんなものもらっても、困る。「その鍵は?」
「マスティが、あいつの部屋に鍵つけた。ひととおりの着替えはじいさんが持ってったし、つってもそれほど持ち込めるわけじゃねえんだけど。オレらの服も、紛れ込んでたのは出したから、もうあいつのもんしか残ってねえ。マスティが、お前に渡すって」
言いたいことは、わかる。誰にも入られたくないだろって、そう言いたいのだろう。
「そんなのもらっても、困る」
「どっちにしても、オレらも入んねえよ。あの部屋は、確かにあいつの部屋だけど、お前とあいつの部屋みたいにもなってた」
──私たちの、部屋。
私はまた、鼻で笑った。
「たぶんなんか、勘違いしてるよね」灰が長くなった煙草を、脇にある灰皿で潰し消した。「──待たないよ」待つ義理なんか、ない。「私はそんな約束、した覚えはない」
彼は探るような眼で私を見ている。「──別れるとかなんとかって話は、なにも言ってなかったって」
私は無視した。「そこにある紙袋、持って帰って。あいつが持ってきた着替え。ここに置いてかれても困る。あいつの部屋の鍵は持ってってくれてかまわない」
「一年なんてすぐだろ」
──すぐ?
「昔みたいに理性がぶっ飛んだのかもしれねえけど、あいつだって後悔はしてるはずだ。まえみたいに、退所が長引くようなことはしねえよ」
最初に会った時のことを、言っているのか。
「一年なんてすぐだって」
私は身体を起こしてフォールディングナイフを手に取り、出したブレードの刃先をブルの喉元に突きつけた。
ブレードを出す私の仕草は笑えるほど、アゼルと似た手つきだった。
「あんた、なにもわかってない」私は、彼に言った。「“待つこと”が私にとって、どれだけ苦痛なのか、わかってない。“捨てられた人間”にとって、一日が、一ヶ月か、三ヶ月が、半年が、一年が──どれだけ長いものか、ぜんぜんわかってない。
家に帰りたくなくなる気持ち、わかる? 家に帰るってことは、夕食を食べてシャワーを浴びて、眠るってこと。眠るってことは、みたくもない夢をみるかもしれないってこと。私の場合はそのまえに、両親の夜中の喧嘩があったけどね。それが終わっても、眠るのはずっと怖かった。やっと静かになったと思ったのに、もし眠って、その光景を夢にみたらどうする? 私は一晩に二度も怯えることになる。実際、喧嘩のあと夢で同じ光景を繰り返したこと、何度もあったわよ。おかげでそのうち、“またか”って思うようになったけど。
“捨てられた人間”にとって、“自分を捨てた人間”の夢をみることが、どれだけ苦痛だと思ってんの? 毎晩毎晩その夢をみて、夜中に飛び起きる覚悟を、絶望を味わう覚悟をして眠りにつかなきゃならない。やっとの思いで朝になって、どうにか一日を終えて、だけどけっきょく“眠り”からは逃げられないから、家に帰らなきゃならない。っていうか、どこに行っても同じ。けっきょくは眠ることになる。それを毎日、三百六十五日繰り返すのよ。味わったこともないくせに、一年がすぐ? どの口が言ってんの?
待つなら勝手にやって。私は待ったりしない。マブにだって行く気はないし、思い出にすがるつもりも、あいつを恋しがるつもりもない。あいつがここから喧嘩しに行ったその瞬間に、私たちは別れた。終わったの。私はもうあいつを好きじゃないし、愛してもない。ただの憎しみの対象。私を捨てた両親と同じ。そのうちどうでもよくなる。私はそれを待つだけ。
解ったら、さっさとあいつの荷物を持って、ここから出て行って。そのうちおばあちゃんが帰ってくるから、玄関の鍵は開けたままでかまわない。気が向いたら自分で閉めるから、そのままでかまわない。かまわないから、さっさと出てって」
彼の表情がなにを抱えているのか、私は、理解しようとしなかった。だから、よくわからない。
ブルは、どうにかといった様子で口を開き、気遣わしげに私の名前を呼んだ。
「──ベラ──」
私はナイフを左手に持ち替えて振り下ろし、左後方にあったクッションを突き刺した。
「──お願いだから」うつむいたまま、言った。「──出てって。ひとりにして」
数秒して、彼はやっと立ち上がり、紙袋を持って、部屋を出た。
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耳を澄ますと、玄関のドアが閉まる音がして、私はやっと、顔をあげた。部屋には誰もいなかった。
ゆっくりと、クッションのほうに向きなおる。私は目を開けていたけれど、なにも見えていない気がした。
クッションに刺さったままのナイフをまた、右手に持ち替える。
間違った握り方。
間違った使い方。
クッションからナイフを引き抜くと、中から白い羽根が顔を出した。
かまわずまた、ナイフを振り上げ、それを思いきり、クッションに向かって振り下ろした。
引き抜いて、振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
間違った握り方。
間違った使い方。
何度も何度も、繰り返した。
振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
何度めかで、ナイフを持ったまま、裂け目からクッションを左右に引き破った。ビリビリと音をたてて破れた布の中から、たくさんの白い羽が出てきた。羽は宙を舞い、ひらひらと落ちていった。
それが雪に見えて、私はまた、別のクッションに向かって、ナイフを振り下ろした。
何度も何度も繰り返して、また、裂け目からクッションを引き破った。
クッションは、私の心。
私はまた、ナイフを振り下ろし、次のクッションを引き裂いた。
ズタズタにされて、引き裂かれた、私の心。
足りなくて、また、ナイフを突き刺して、クッションを引き裂いた。
中から出てくるのは、あいつの羽。
たくさんの、堕天使の羽。
それとも、あいつが堕転して奪われた、失った、天使の羽?
またひとつ、クッションをダメにした。
正直、喧嘩したことは、どうでもいい。捕まらなきゃよかった。私はたぶん、怒ったけど、呆れて、許しただろう。
だけどあいつは、施設に入った。
私を、捨てた。
両親と、同じ。
信じさせて、期待させて、裏切った。
私の心をまた、ズタズタに引き裂いた。
愛したのに。
私を、独りにした。
天国から地獄に、突き落とした。
私はまた、独りになった。
泣かない。泣いてなんかやんない。
寂しがったり、恋しがったりなんかしてやんない。
大嫌い。大嫌い。大嫌い。
あんたが私を捨てるなら、私もあんたを捨ててやる。
また、クッションを引き裂いた。
南京錠ははずさない。期待させてやる。ほんとに一年で戻ってくるのかどうか知らないけど、戻ってきて、もし会ったとしても、私は南京錠をつけてて、まだ約束を守る気でいるんだって、思いこませてやる。信じさせてやる。
だけどやりなおすつもりはない。捨ててやる。つきあってても別れてても喧嘩するんだから、施設に入るんだから、どっちだろうと意味はない。あいつの人生がどうなろうと、私には関係ない。知ったことじゃない。
それであいつが死んだ時、私は、死なない。
代わりに、花束を贈ってやる。違うな、天使の羽か。悪魔の羽は持ってるんだろうから、天使の羽を贈ってやる。
約束なんか、破ってやる。
大嫌い。大嫌い。大嫌い。
あんたのもんになんか、絶対に絶対に絶対に、なってやらない。




