* Asset
一月四日、朝の八時半前。
旅行に行く祖母を玄関先で見送った私は、本気でへこんでいた。
なぜって、喜んだから。
二泊三日、祖母がいないということにではない。誰にも邪魔されることなく、アゼルと一緒にいられるかもということに。マブではそうはいかない。邪魔されない時ももちろんあるけれど、突然押しかけてこられる可能性が、ないとは言えない。だってみんな、鍵を持っている。
だが祖母の家なら、その可能性はない。玄関ベルを無駄に鳴らすことはしないだろうし、まさか壊す勢いでドアを叩いたりはしないだろうし、携帯電話の電源さえ落としておけば、邪魔はされないはずだ。
そんなことを昨日の夜から考えていて、祖母を乗せた迎えの車が走り去った瞬間、私は本気で喜んだ。
そして次の瞬間、本気でへこんだ。
最低だ、と。
でも考えてもしかたがないので、さっさとマブへと出かけた。
マブには、マスティもブルもいなかった。リーズとニコラも。ついでに言えば、スクーターもなかった。彼らが乗りまわしているからだ。
脱いだコートをリビングのソファに置いてアゼルの部屋に入る。彼はまだ眠っていた。南京錠は首についたまま。
私は彼の隣に寝転んだ。
無言。
無言。
無言。
なんか喋れと私が言うと、彼は目を閉じたまま笑った。
「早いわ」
「もうすぐ九時になる。おばあちゃんはもう行った。食料はインスタントや冷凍食品をたくさん買ってくれてる。みんなが来ても平気なようにって。デリバリーがよかったらって、お金ももらってる。二階以外でなら、煙草も吸っていいとか言われてる。どうしよう、本気でへこんでる」
目をこすると、彼は私をブランケットの中に引き入れて腕枕をした。
「なんで」
「喜んだの。自由だーみたいな。最低」
「お前はいつも自由だろ」
「そうだけど、でも最低だよね。食わせてもらってんのに、気持ちがあんたを優先したのよ。ありえない」
「ああ──まあ、言わなきゃわかんねえからいいんじゃね」
「でもへこんだ」
そう言って、私は彼の胸にすがるように抱きついた。温かい。
「んじゃ今日はあいつら呼ぶか」アゼルが言った。「夕方か夜──九時頃にはデボラが帰ってくることにする。したら家にいてもいなくても、普通に遊べる。家に呼んでも帰らせられる」
「でも私の部屋、ゲームもなにもないからな。リーズとニコラが平気でも、マスティとブルは飽きるじゃん」
「それは言えてる。んじゃ、飯をお前の家で食う。俺らは今からお前の家。一発ヤッて、お前が飯作る。食ったらここに戻ってくる。いつもどおり。夕方お前の家に行って、あいつらも一緒に飯。で、帰らせる」
“する”のを予定に入れるなよ。「おとなしく帰るかな」
「さあ。酒持ち込まなきゃ平気だと思うけどな。俺らはマーケットにでも行くとか言えばいいんじゃね」
「今年一発目のソフトクリーム、買おうか」
「そりゃいい」と、アゼル。「最初にお前が引いた当たり以外、何回買っても当たらねえもんな」
一昨年の八月から、実は何度か買っている。ぜんぶはずしてるが。
「やっぱ貴重だったんだよ。なのに私は食べられなかったっていう謎」
「あれがなかったら俺、お前にキスとかしてなかったかも」
「意味わかんない」
「当たりを奪った代わりにキスしてやった」
私は笑った。「なにそれ。私は当たりを奪われたうえに、好きでもない男にファーストキスまで奪われたのよ。どんだけ可哀想だと思ってんの?」
「俺なんか、やっと施設出て帰ってきたと思ったら、自分の定位置に知らねえガキがいるんだぞ。しかも態度激悪。またイライラが増えんのかと思ったし」
「ある意味増えたよね」
「ある意味な。っつーかイライラどころじゃなかったけどな。人生めちゃくちゃにされてるわけだから」
「もともとめちゃくちゃじゃない。私と一緒」
「別の意味でだっつの。あげく喧嘩しなくなるし。俺から喧嘩とったらなにが残るんだとか思ってたのに」
「なにが残った? 浮気癖?」
「はいはい」
「じゃあ──ヒトに嫌がらせをする力」
「それは昔から」
「じゃあ──去年一年で新しく発見したことといえば、意外と聞き上手なところ」
「まあ、特になんもねえよっていうな」
私は無視した。「ヒトをやたらと惚れさせる能力」
「それはお前が勝手に」
「ヒトを夢中にさせといて、冷たい時がある。地獄と天国を見せてくれる。実はわりとやさしい。面倒見がいい。私がキライなパンクスタイルの格好を平気でして、しかもそれを似合ってると思わせる。でもツナギ着てる時が、私はいちばん好き。なのに、それをほとんど見せてくれないところがムカつく。でも見れた時はラッキーだと思えるから、そこは気にしてない。仕事はじめて、目的があるからかもしれないけど、実は根気強いことも知った。機械や車に詳しくなった。手先が器用だってのも知った。努力できるってわかった。運動神経もいいし、実は頭がいいのかもってことも知った。少なくとも私よりは。実は礼儀正しいってのも、去年知った」
私は顔を上げ、左手で彼の頬を撫でた。
「喧嘩しなくても、ちゃんとある。私はあんたが殴り合いの喧嘩するところを見たことがないけど、それ以外にもちゃんと、私以上に、いいところはたくさんある。あんたのいちばんの長所は、音楽以外には無関心だった私を、ここまで夢中にさせたこと。あんたのおかげで、私も昔よりは、ヒトの気持ちを考えるようになった気がする。誰かを好きになるって気持ちがわかったから。ヒトを変える力だって、あんたは持ってる。私がちゃんと知ってる」
アゼルは困惑混じりの、だけど愛おしげな眼で私を見ている。
右手で私の頬に触れると、彼はなにも言わず、私にキスをした。
深くて激しい、真っ赤なキスを、何度も何度もした。
“そういう人間だ”と、決まり文句のように言っていたあの言葉を、アゼルは二度目の浮気から、言わなくなったような気がする。
その言葉に、どれだけ彼が自分を憎む気持ちが入っているか、私にはわかる。“同類”だから、わかる。
だけど、きっとそれは、あまりいいことではないのだろう。
なにをするかは、私もアゼルも、自分で決めている。きっと、誰でもそうだ。周りが強制してくるからとか、遺伝だとか、そんなことを理由にすることもあるけれど、それは、理由を作ろうとするからそうなるだけだ。
自分を責め続けて、自分を好きになれなくて、自分に自信がなくて、周りを憎み続けて、だけどなにを責めればいいのかわからず、よく考えてみれば周りだったり、過去が関係していたりもするから、“環境”のせいにする。
だけどそれを理由にするとしても、自分自身を否定していいことにはならないのだろう。理性がぶっ飛んで、周りが見えなくなって、考えなしに口走ったり、行動したりしたとしても、誰かがそれを見て、自分の存在を否定したとしても、自分だけは、それをしてはいけないのだろう。
だけどやっぱり環境が、過去が、そうさせることはある。自分自身を認めたくても、できない時はある。自分を認めるということは、一部の人間にとっては、本当に難しいことだ。
だったら、誰かが認めればいい。短所だけじゃないって、知っていればいい。
私ならそれができる。欠陥だらけだけど、それだけではないと、私が知っていればいい。知って、認めればいい。
自分自身を愛せない彼を、私が愛せばいい。
「──どっちがいいんだ」唇を離し、私の上に乗っているアゼルが訊いた。「今ここでヤんのと、お前の家行ってからヤんのと」
私の息はもう、乱れている。彼が欲しくて、たまらない。
「──あんたは、どっち?」
彼は額を合わせて目を閉じた。
「わかんねえ」
私も、わからない。「──じゃあ、あいだをとる。最後まではいかない。私も──焦らして、それから、家に行く」
アゼルは苦笑った。
「途中でやめる自信ねえよ」
「それは、私も同じ。でもそれができたら、そのあとはもう、場所がどうこうなんて言わない。そんな空気の読めないことはしない。私の部屋までなんて、待つ自信がない」
「──それは言えてる」
私たちはまた、キスをした。真っ赤なキスを、夢中でした。
「──つける?」アゼルが訊いた。
避妊具。「──今は、いい。いらない」
「同感」
そしてまたキスをして、私たちはひとつに繋がった。
アゼルが私の身体を激しく動き、私が果てそうになったら止まって、三度それを繰り返すと、私たちはどうにか身体を離した。
服を着て、ベッドから飛び出して、アゼルの着替えを用意して──誰かが来る前にと、さっさとマブを出た。




