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今年一番冷え込んだ朝、何かが窓に当たる音が聞こえて目が覚めた。
「さむぅ……」
パジャマの上にフリースを羽織って、カーテンを開ける。するとどこからか飛んできた雪の塊が、窓にぶつかってぱしゃっとくずれた。
「さわちゃーん!」
まさかと思って窓を開ける。冷たい空気が一気に部屋の中へ流れ込む。
「おはよー。迎えに来たー」
「由井くん? もう大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫、全然元気。沙和ちゃん、一緒に学校行こう!」
大声でそんなことを言われてはずかしくなる。
もう、やめてよ。小学生じゃないんだから。
だけど、朝日に反射する雪と、由井くんの無邪気な笑顔がキラキラ見えて……すぐにでも外へ飛び出したい気持ちになっていた。
由井くんと手をつないで、朝の道を歩く。
ふざけたようなしゃべり方も、何の悩みもなさそうな笑顔も、あたたかい手のぬくもりも、全部いつもと変わらなくて。昨日聞いた話も、作り話だったんじゃないかなんて思ってしまう。
「……やっぱり、恥ずかしいよ」
「なにが?」
「手」
学校が近くなって、同じ制服を着た生徒たちの姿が多くなる。並んで歩くわたしたちのことを、ひやかしながら追い越していく男の子もいる。
「いいじゃん。おれたち、付き合ってるんだから」
付き合ってる……そうなのかな?
こんなふうに手をつないで歩いていれば、そう見えるかもしれないけれど。
何かが違うような気がするのは、どうしてなんだろう。
「あれ、沙和、今日はひとり?」
「由井と一緒じゃないの?」
放課後、靴を履き替えていたわたしに声をかけてきたのは、茜ちゃんと江里ちゃんだ。
「うん、なんかバイト先から急に呼ばれたみたいで、急いで帰った」
「へぇ、めずらしい。あいつ、いっつも、沙和にべったりだったのにねぇ」
「じゃあさ、一緒にケーキ食べに行かない? 今日部活が休みになっちゃって」
ふたりに誘われて、嬉しかったけど少し迷った。今日はこのまま真っすぐ、お母さんの病院に行こうと思っていたから。
「あ、ごめん。沙和は無理かな?」
そんなわたしの前で、茜ちゃんが申し訳なさそうに言う。胸がつきんと痛くなる。
「いろいろ忙しいもんね?」
「う、ううん。大丈夫。わたしも行きたい。つれてって」
かわいそうな子、なんて思われたくない。友達に気を使われるのなんて嫌だ。
わたしはふたりの前でにこやかな笑顔を作る。
「じゃ、行こう。駅前に新しくできたスイーツのお店、すっごくかわいいんだよ」
「店員さんがイケメンだしねぇ」
「茜ちゃんはそれが目的なんでしょ?」
「ちがうってー!」
三人で笑い合って校舎を出る。
ベッドの上のお母さんに、心の中で「ごめんなさい」と謝りながら。
にぎやかな繁華街は、クリスマスカラーに彩られていて、どこも華やかだ。耳に聞こえてくるのは、クリスマスソング。
茜ちゃんと江里ちゃんは、イブに誰と過ごすかって話で盛り上がっている。わたしはそんなふたりの会話を聞きながら思った。
そういえばこの街を歩く時、いつもわたしの隣には由井くんがいた。だからなのかな。友達と一緒に歩いていても、なんとなく中途半端で落ち着かない。
「ねぇ沙和、由井の誕生日っていつか知ってる?」
「えっ?」
急に茜ちゃんが振り返ってわたしに言うから、どきんとしてしまう。
「知らない……」
「クリスマスイブなんだよ。プレゼントは、まとめて一個しかもらえないってやつ?」
茜ちゃんと江里ちゃんの笑い声が、店先に流れる明るい音楽と重なる。
「そういえば、あいつ去年、美菜からプレゼントもらってなかった?」
「いや、ウメが言うには受け取らなかったらしい。もらえるもんはもらっときゃいいのに。あいつ何様のつもりだよーって、ウメがあきれてた」
美菜って子の名前は前にも聞いたことがある。たぶん由井くんのことを、好きだった子。
「あ、でもそれ、一年も前の話だからね?」
茜ちゃんがわたしを見て、念を押すように言ってくれる。
「そうそう。今の由井は『沙和ちゃんしか見えない』だもん」
「ちょっと他の子が入り込むすきもないよねぇ」
「……そんなことないよ」
そんなことない。
こんなに由井くんのそばにいても、わたしは由井くんのこと、なんにもわからないままだもの。
「ねぇ、あとでさ。みんなで由井のプレゼント買いに行くとか?」
「あ、いいね。誕生日兼クリスマスプレゼント!」
「あたしらに選ばせたら、なに選ぶかわからないけどねー」
茜ちゃんたちは勝手に盛り上がって、笑いながら店の中へ入って行く。わたしはそんなふたりのあとを追いかけ、ふとその場に足を止めた。
「沙和? どうした?」
茜ちゃんが振り返ってわたしに声をかける。
「あ、ううん。なんでもない」
思わず立ち止まった足を動かし、茜ちゃんたちに駆け寄る。だけど足が上手く動いてくれない。
ふたりの話題はすでに、別の男の子の噂話に移っていて、わたしはもう一度だけ、そっと後ろを振り返る。
サンタクロースやツリーがディスプレイされた雑貨屋さんの前に、見慣れた制服を着た後ろ姿。そしてその隣には、穏やかに微笑む女の人の横顔。
ふたりは店頭に並んだぬいぐるみやお菓子を手にとっては、なにやら相談するように話している。
由井くんと、貴子さん――どうして?
ふたりの姿が、雑貨屋さんの中に消えていく。
黙ってそれを見送っていたら、頭がなんだかぼんやりしてきて……そのあと食べた美味しいはずのスイーツも、どんな味だったか覚えていない。
バイトに行くんじゃなかったの? 急いで帰ったのは、貴子さんと会うため?
由井くん――わたしに嘘をついた。
その日の夜、由井くんから電話がかかってきた。
「明日の土曜日、どこか行こうよ。今度はふたりきりでさ」
悪びれた様子もなく、いつもの調子で話す由井くんは、わたしがその姿を見ていたことを知らない。
「今日……バイト間に合った?」
「え?」
「急いで帰ったでしょ?」
「ああ、うん」
わたしって、なんて嫌な人間なんだろう。わざと、由井くんを試すような会話をしてる。
「ごめん。わたし、ほんとは見たの」
「何を?」
音のない部屋の中。窓の外は今夜も、雪が降っているのかもしれない。
「由井くんが……貴子さんとふたりで買い物してるとこ」
電話の向こうの由井くんが、一瞬黙り込んだ。わたしは電話を持つ手に力を込める。
「……見てたなら、声かければいいじゃん」
由井くんの声が耳に聞こえた。
「風太のプレゼント選んでただけだよ」
「だ、だったら、最初からそう言えばいいのに……どうしてバイト行くとか嘘つくの?」
「嘘つくとか……そんな大げさなことじゃないだろ? いちいち説明するの、面倒なんだよ」
大げさ? 面倒? わたしに言いたくないことだったんじゃないの?
「……もういい」
「怒ってんの?」
「明日予定あるから行けない」
それだけ言って電話を切った。
なんか……最悪。
布団の上にうつぶせになって、顔をまくらに押し付ける。
たしかに、わたしが大げさだったのかもしれない。なんだ、そうだったの? って笑って言えば、それだけのことだったのかもしれない。
だけど、こんなに気になるのは……貴子さんと一緒にいた由井くんが、すごく幸せそうな顔をしていたから。
布団の上に投げ捨てたスマートフォンから、着信音が流れる。
どうしよう。きっと由井くんからだ。
無視しようかとも思ったけれど、しばらく鳴り続ける着信音に、迷いながら手を伸ばした。
そして画面に映った相手の名前を見て、わたしは思わず息をのんだ。
「も、もしもし」
「もしもし……沙和?」
「麻野先輩?」
「うん」
懐かしい先輩の声が、わたしの耳に響く。
「ごめん、電話なんかしちゃって」
「ううん……」
そう言って首を振ったけど、わたしは戸惑っていた。
前に聞いた、一佳の言葉が頭に浮かぶ。
――先輩はきっと後悔してるんだよ。沙和にあんなこと言っちゃって。
急に胸の奥が、ざわざわと騒ぎ始める。
「今、大丈夫?」
「うん」
「新しい学校は、もう慣れた?」
「うん……まぁ……」
「そっちは寒いの?」
「うん。雪、積もってるよ」
ぎこちない会話が途切れると、ふたりの間に沈黙が流れた。
「ごめん。やっぱり怒ってるよな?」
電話の向こうで先輩がつぶやく。
「別れようって言ったの、おれのほうだもんな」
ため息をつくような先輩の声は、やっぱり優しくて……わたしはこの声がすごく好きだったんだなぁ、なんて、今ごろになって思ったりする。
「でもおれ、すごく後悔してる。今でも沙和のこと忘れられない。まだ……好きなんだ」
まだ……わたしのことが好き?
「沙和は? もうおれになんか会いたくもない?」
「そんなこと……」
胸がドキドキと高鳴って、電話を持つ手がかすかに震える。
嬉しいはずなのに……「好きなんだ」なんて言われて、嬉しいはずなのに……。
「今度……会いに行ってもいいかな?」
耳に聞こえる、やわらかくて心地よい声。
「沙和に……会いに行ってもいいかな?」
わたしはなにも、答えることができなかった。
先輩のその声で、はじめて「好きなんだ」と言われた日を思い出して、ただ目の奥がじんわりと熱くなった。