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 二階にある由井くんの部屋は、思ったより綺麗に片付いていて、ちょっと意外だった。

 男の子の部屋ってもっと散らかっているのかと、勝手に想像していたから。

「一時間くらいしたら、車で送ってくれるってさ。おじさんが」

 部屋に戻ってきた由井くんが、小さな缶ジュースを差し出しながら、待っていたわたしに言う。

「はい、これ。貴子さんから」

 由井くんはオレンジジュースを開けて、わたしに押し付けると、ごろんとベッドの上に横になった。

「なんか……かえって迷惑だったね」

「いいんだよ、ついでだから。今日はふうの誕生日だろ? 三人でファミレス行くんだってさ」

「由井くんは、行かないの?」

「おれ、食欲ないし」

 ふっと笑う由井くんと目が合う。

「由井くん……」

 言いかけたその時、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。

「風太くん?」

 振り向くと風太くんが、ドアの隙間からこちらを覗き込んでいる。

「ふう。なにやってんだよ? 入ってこいよ」

「だってパパが……こうちゃんの部屋は行っちゃダメだって……」

「大丈夫だよ。入ってこい!」

 風太くんの顔がふわっと明るくなって、部屋の中へぱたぱたと駆け込んでくる。

「さわちゃん、ご本読んで!」

「え、あ、いいよ」

 ちらりと振り返ると、由井くんが寝ころんだまま、わたしたちのことを眺めている。わたしはすぐに目をそらし、風太くんの持ってきた絵本を受け取る。

「これ、さっき、ママに買ってもらったんだぁ」

「そう……よかったね」

 風太くんを膝に乗せ、絵本を開いた。わたしも小さかった頃、お母さんにこうやって本を読んでもらったことを思い出す。

 窓の外は冷たい雪。だけど部屋の中はあたたかくて、風太くんのぬくもりはやわらかくて、由井くんの視線はすごくやさしい。

 絵本を読むわたしの声だけが、静かな部屋に響く。風太くんは心地よさそうに、わたしにもたれかかっている。

「……由井くん、あっち向いてて。はずかしい」

 わたしの声に、由井くんが笑った。

 このままずっと、こうやっていられたら……新しい生活のことも、お母さんの病気のことも、麻野先輩のことも……全部忘れて、こうやっていられたらいいのに。


「……おしまい」

 風太くんの前で絵本を閉じる。風太くんは大切そうに絵本を抱えると、わたしの膝から降りて立ち上がった。

「今度はおもちゃ、持って来てもいい?」

「ん、いいよ」

「さっきパパとママが買ってくれたんだー。さわちゃんに見せてあげるね」

 風太くんが元気よく駆け出し、部屋を出て行く。

「嬉しそうだね。風太くん」

 そんな背中を見送りながら、わたしがつぶやく。

「わたしも嬉しかったな。誕生日って」

 小さい頃、誕生日にはいつもケーキを買ってもらって、息を吹きかけてろうそくの火を消すのが好きだった。

 そしてその思い出の中で、かすかに残っているお父さんの記憶は、わたしを見守るやさしい笑顔だった気がするのだ。

「沙和ちゃんも、風太と同じだな」

 由井くんの冷めたような声が聞こえて振り返る。

「同じって?」

「幸せなんだなって意味」

 ちょっとバカにしたみたいに笑って、由井くんがベッドの上に起き上がる。

「由井くんは……幸せじゃないの?」

「幸せだよ? おれも。沙和ちゃんみたいな可愛い子と、抱き合えたしキスもしちゃったし」

「ふざけないで」

 由井くんが黙ってわたしを見る。由井くんの後ろの窓の向こうに、白い雪がちらついている。

「これから知ればいいって……言ったよね?」

 一言ずつ、確かめるようにつぶやいた。

「教えて欲しいの。由井くんのこと」

 由井くんが時々見せる表情。動物園で聞いた言葉。

 わたしは由井くんのことを、もっともっと知りたい。


 階段の下から聞こえてくるのは、風太くんの走り回る足音とはしゃぎ声。そしてそれをなだめるような貴子さんの声。

 暖房のきいた部屋の中は、雪景色の外とは別世界のようにあたたかくて、静かで……。

「いつも……五百円くれたんだ。うちの母親」

「え?」

 由井くんがそう言って、わたしに小さく笑いかけた。

「これでなんか買って食べてきなさいって。浮気相手を家に連れ込んで、自分が好きなことしている間。邪魔だったんだろうな、おれのことが」

 心臓がとくんと音を立てて、指先が震える。由井くんはそんなわたしを見ながら続けて言う。

「父親はめったに家に帰ってこないしさ。帰ってくれば暴力ふるうから怖くて……だから両親が別れてほっとした。これであの父親に会わなくてすむって」

 床に座ったまま、制服のスカートをぎゅっとにぎる。

「おれさ、勝手に母親とふたりで暮らせると思ってたんだよね。あんな母親でも、やっぱり好きだったから。気に入られようと思って必死に笑顔作って、なんでも言うこときいて……」

 由井くんの聞きなれた声が、ほんの少しかすれる。

「だけどあの夜、あの人はおれに五百円くれてさ……そのまま、いなくなっちゃった」

 ペタペタと階段をのぼってくる小さな足音と、スリッパを履いた足音が近づいてくる。ドアの向こうから聞こえるのは、風太くんの幼い声。

「さわちゃぁん。もう帰るんだってぇ」

 がっかりしたような表情で、ドアを開けた風太くんの後ろに、貴子さんも立っている。

「ごめんなさいね。ちょっと早いんだけど……よかったら、車に乗っていって?」

「え、あ、はい。すみません」

「外で待ってるわね」

 あわてて荷物をかき集め、立ち上がってコートをはおる。風太くんはそんなわたしと、由井くんの顔を見比べている。

「レストランでハンバーグ食べるんだよ。こうちゃんは行かないの?」

「おれはびょうきなの。ふう、おれの分まで食ってきな」

「さわちゃんは?」

「ごめんね、わたしも行けない。また遊びに来るから」

 風太くんの頭をそっとなで、振り返って由井くんを見る。

「いい人たちだろ? おれのおじさんとおばさん」

 由井くんがそう言って、いつもみたいに笑顔を見せる。

「だからおれは幸せなんだよ。いい人たちに引き取ってもらえて……すっげぇ、幸せ」

 本当に? 本当にそうなの?

「バイバイ、沙和ちゃん。おやすみ!」

 ふざけたような表情をしてから、由井くんは布団の中にもぐりこんだ。

「お大事に……由井くん」

 小さくそれだけつぶやいて、わたしは風太くんに手をひかれて部屋を出た。


 由井くんのおじさんの車で送ってもらった。

 具合の悪い由井くんを家まで送ったつもりなのに、逆にわたしが送られちゃうって……本当に迷惑なわたし。

「沙和さん……でしたよね?」

 運転席のおじさんに声をかけられてはっとする。

「はい」

「洸介は……学校では、どんな感じですか? 家ではほとんど、学校の話をしないので」

「あ、はい。由井くんはすごく明るいです。友達もたくさんいて、いつも笑ってて……と言っても、わたしつい最近、転校してきたばかりなんですけど」

「転校?」

 おじさんの隣に座っている貴子さんが、わたしに振り向く。

「はい、横浜から」

「そうだったの……」

 貴子さんがうなずいて、静かに前を向く。

 アニメソングが流れる車内。わたしの隣のチャイルドシートで、それを口ずさんでいる風太くん。

 お父さんとお母さんに望まれて生まれてきた風太くんの誕生日を、これから家族でお祝いするのだ。

「沙和ちゃん」

「はい」

 貴子さんの澄んだ声が、風太くんの歌声と重なる。

「あの子……いろいろ事情があって、今、わたしたちと暮らしてるんだけど」

 ――そのまま、いなくなっちゃった。

 さっき聞いた由井くんの言葉が、頭から離れない。

「仲良くして……あげてくださいね?」

 その言葉に胸が熱くなって、なんだかすごく泣きたくなった。


 家まで送ると言ってくれたおじさんに事情を話して、お母さんの病院の前で降ろしてもらった。

 今日は面会に来るつもりはなかったけれど、どうしてもお母さんに会いたくなった。

「お母さん……」

 八階の病室へ行くと、お母さんは点滴を受けたまま眠っていた。

 音を立てないように気をつけて、ベッドの脇の椅子に座ると、お母さんは静かに目を開いてわたしを見た。

「沙和……来てくれたの?」

「ごめん、お母さん。起こしちゃった?」

「平気よ」

 そう言いながらお母さんは、ベッドの上に体を起こす。わたしはそんなお母さんの背中を支えるように手を添える。

 お母さん……また少し痩せたみたい。

「何かあった?」

「え?」

 上着を肩にかけたお母さんが、穏やかな顔つきでわたしを見ている。

「何か、話したいことでもあるのかな、って思って」

「べつに、なにもないよ?」

 そう答えたけれど、お母さんには、きっとなんでもわかってしまうんだろう。

「沙和、今日ね」

 お母さんがわたしを見て、静かに微笑む。

「お母さん、ベッドの上でぼうっとしてて……思い出しちゃったのよ」

「なにを?」

「沙和が……生まれた日のこと」

 そういえばお母さんは里帰り出産で、わたしはこの病院で生まれたって聞いたことがある。

「あの日も窓の外には雪が降っていてね……隣を向けば生まれたばかりの沙和がいて……すごい難産で大変だったはずなんだけど、あの日のお母さんは、人生で一番って言っていいほど幸せだった」

 遠くを見るような目つきのお母さんは、とても幸せそうで……でもわたしはなんだかとてもせつなくて。

「きっとお父さんも、同じ気持ちだったと思うよ?」

 お母さんの手がすっと伸びて、いつものようにわたしの髪をやさしくなでる。

 わたしはぎゅっと目を閉じて、あふれ出しそうになる涙を必死にこらえる。

「お母さん……」

 お母さんの前では、泣かないって決めていた。病気で一番つらいのは、お母さんのはずだから。だからわたしが涙なんか流せない。

「沙和……」

 お母さんのやさしい声が耳に響く。

「お母さんの子に生まれてきてくれて、ありがとうね」

 その言葉を聞いた途端、こらえていた涙があふれた。

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