8
二階にある由井くんの部屋は、思ったより綺麗に片付いていて、ちょっと意外だった。
男の子の部屋ってもっと散らかっているのかと、勝手に想像していたから。
「一時間くらいしたら、車で送ってくれるってさ。おじさんが」
部屋に戻ってきた由井くんが、小さな缶ジュースを差し出しながら、待っていたわたしに言う。
「はい、これ。貴子さんから」
由井くんはオレンジジュースを開けて、わたしに押し付けると、ごろんとベッドの上に横になった。
「なんか……かえって迷惑だったね」
「いいんだよ、ついでだから。今日はふうの誕生日だろ? 三人でファミレス行くんだってさ」
「由井くんは、行かないの?」
「おれ、食欲ないし」
ふっと笑う由井くんと目が合う。
「由井くん……」
言いかけたその時、わたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「風太くん?」
振り向くと風太くんが、ドアの隙間からこちらを覗き込んでいる。
「ふう。なにやってんだよ? 入ってこいよ」
「だってパパが……こうちゃんの部屋は行っちゃダメだって……」
「大丈夫だよ。入ってこい!」
風太くんの顔がふわっと明るくなって、部屋の中へぱたぱたと駆け込んでくる。
「さわちゃん、ご本読んで!」
「え、あ、いいよ」
ちらりと振り返ると、由井くんが寝ころんだまま、わたしたちのことを眺めている。わたしはすぐに目をそらし、風太くんの持ってきた絵本を受け取る。
「これ、さっき、ママに買ってもらったんだぁ」
「そう……よかったね」
風太くんを膝に乗せ、絵本を開いた。わたしも小さかった頃、お母さんにこうやって本を読んでもらったことを思い出す。
窓の外は冷たい雪。だけど部屋の中はあたたかくて、風太くんのぬくもりはやわらかくて、由井くんの視線はすごくやさしい。
絵本を読むわたしの声だけが、静かな部屋に響く。風太くんは心地よさそうに、わたしにもたれかかっている。
「……由井くん、あっち向いてて。はずかしい」
わたしの声に、由井くんが笑った。
このままずっと、こうやっていられたら……新しい生活のことも、お母さんの病気のことも、麻野先輩のことも……全部忘れて、こうやっていられたらいいのに。
「……おしまい」
風太くんの前で絵本を閉じる。風太くんは大切そうに絵本を抱えると、わたしの膝から降りて立ち上がった。
「今度はおもちゃ、持って来てもいい?」
「ん、いいよ」
「さっきパパとママが買ってくれたんだー。さわちゃんに見せてあげるね」
風太くんが元気よく駆け出し、部屋を出て行く。
「嬉しそうだね。風太くん」
そんな背中を見送りながら、わたしがつぶやく。
「わたしも嬉しかったな。誕生日って」
小さい頃、誕生日にはいつもケーキを買ってもらって、息を吹きかけてろうそくの火を消すのが好きだった。
そしてその思い出の中で、かすかに残っているお父さんの記憶は、わたしを見守るやさしい笑顔だった気がするのだ。
「沙和ちゃんも、風太と同じだな」
由井くんの冷めたような声が聞こえて振り返る。
「同じって?」
「幸せなんだなって意味」
ちょっとバカにしたみたいに笑って、由井くんがベッドの上に起き上がる。
「由井くんは……幸せじゃないの?」
「幸せだよ? おれも。沙和ちゃんみたいな可愛い子と、抱き合えたしキスもしちゃったし」
「ふざけないで」
由井くんが黙ってわたしを見る。由井くんの後ろの窓の向こうに、白い雪がちらついている。
「これから知ればいいって……言ったよね?」
一言ずつ、確かめるようにつぶやいた。
「教えて欲しいの。由井くんのこと」
由井くんが時々見せる表情。動物園で聞いた言葉。
わたしは由井くんのことを、もっともっと知りたい。
階段の下から聞こえてくるのは、風太くんの走り回る足音とはしゃぎ声。そしてそれをなだめるような貴子さんの声。
暖房のきいた部屋の中は、雪景色の外とは別世界のようにあたたかくて、静かで……。
「いつも……五百円くれたんだ。うちの母親」
「え?」
由井くんがそう言って、わたしに小さく笑いかけた。
「これでなんか買って食べてきなさいって。浮気相手を家に連れ込んで、自分が好きなことしている間。邪魔だったんだろうな、おれのことが」
心臓がとくんと音を立てて、指先が震える。由井くんはそんなわたしを見ながら続けて言う。
「父親はめったに家に帰ってこないしさ。帰ってくれば暴力ふるうから怖くて……だから両親が別れてほっとした。これであの父親に会わなくてすむって」
床に座ったまま、制服のスカートをぎゅっとにぎる。
「おれさ、勝手に母親とふたりで暮らせると思ってたんだよね。あんな母親でも、やっぱり好きだったから。気に入られようと思って必死に笑顔作って、なんでも言うこときいて……」
由井くんの聞きなれた声が、ほんの少しかすれる。
「だけどあの夜、あの人はおれに五百円くれてさ……そのまま、いなくなっちゃった」
ペタペタと階段をのぼってくる小さな足音と、スリッパを履いた足音が近づいてくる。ドアの向こうから聞こえるのは、風太くんの幼い声。
「さわちゃぁん。もう帰るんだってぇ」
がっかりしたような表情で、ドアを開けた風太くんの後ろに、貴子さんも立っている。
「ごめんなさいね。ちょっと早いんだけど……よかったら、車に乗っていって?」
「え、あ、はい。すみません」
「外で待ってるわね」
あわてて荷物をかき集め、立ち上がってコートをはおる。風太くんはそんなわたしと、由井くんの顔を見比べている。
「レストランでハンバーグ食べるんだよ。こうちゃんは行かないの?」
「おれはびょうきなの。ふう、おれの分まで食ってきな」
「さわちゃんは?」
「ごめんね、わたしも行けない。また遊びに来るから」
風太くんの頭をそっとなで、振り返って由井くんを見る。
「いい人たちだろ? おれのおじさんとおばさん」
由井くんがそう言って、いつもみたいに笑顔を見せる。
「だからおれは幸せなんだよ。いい人たちに引き取ってもらえて……すっげぇ、幸せ」
本当に? 本当にそうなの?
「バイバイ、沙和ちゃん。おやすみ!」
ふざけたような表情をしてから、由井くんは布団の中にもぐりこんだ。
「お大事に……由井くん」
小さくそれだけつぶやいて、わたしは風太くんに手をひかれて部屋を出た。
由井くんのおじさんの車で送ってもらった。
具合の悪い由井くんを家まで送ったつもりなのに、逆にわたしが送られちゃうって……本当に迷惑なわたし。
「沙和さん……でしたよね?」
運転席のおじさんに声をかけられてはっとする。
「はい」
「洸介は……学校では、どんな感じですか? 家ではほとんど、学校の話をしないので」
「あ、はい。由井くんはすごく明るいです。友達もたくさんいて、いつも笑ってて……と言っても、わたしつい最近、転校してきたばかりなんですけど」
「転校?」
おじさんの隣に座っている貴子さんが、わたしに振り向く。
「はい、横浜から」
「そうだったの……」
貴子さんがうなずいて、静かに前を向く。
アニメソングが流れる車内。わたしの隣のチャイルドシートで、それを口ずさんでいる風太くん。
お父さんとお母さんに望まれて生まれてきた風太くんの誕生日を、これから家族でお祝いするのだ。
「沙和ちゃん」
「はい」
貴子さんの澄んだ声が、風太くんの歌声と重なる。
「あの子……いろいろ事情があって、今、わたしたちと暮らしてるんだけど」
――そのまま、いなくなっちゃった。
さっき聞いた由井くんの言葉が、頭から離れない。
「仲良くして……あげてくださいね?」
その言葉に胸が熱くなって、なんだかすごく泣きたくなった。
家まで送ると言ってくれたおじさんに事情を話して、お母さんの病院の前で降ろしてもらった。
今日は面会に来るつもりはなかったけれど、どうしてもお母さんに会いたくなった。
「お母さん……」
八階の病室へ行くと、お母さんは点滴を受けたまま眠っていた。
音を立てないように気をつけて、ベッドの脇の椅子に座ると、お母さんは静かに目を開いてわたしを見た。
「沙和……来てくれたの?」
「ごめん、お母さん。起こしちゃった?」
「平気よ」
そう言いながらお母さんは、ベッドの上に体を起こす。わたしはそんなお母さんの背中を支えるように手を添える。
お母さん……また少し痩せたみたい。
「何かあった?」
「え?」
上着を肩にかけたお母さんが、穏やかな顔つきでわたしを見ている。
「何か、話したいことでもあるのかな、って思って」
「べつに、なにもないよ?」
そう答えたけれど、お母さんには、きっとなんでもわかってしまうんだろう。
「沙和、今日ね」
お母さんがわたしを見て、静かに微笑む。
「お母さん、ベッドの上でぼうっとしてて……思い出しちゃったのよ」
「なにを?」
「沙和が……生まれた日のこと」
そういえばお母さんは里帰り出産で、わたしはこの病院で生まれたって聞いたことがある。
「あの日も窓の外には雪が降っていてね……隣を向けば生まれたばかりの沙和がいて……すごい難産で大変だったはずなんだけど、あの日のお母さんは、人生で一番って言っていいほど幸せだった」
遠くを見るような目つきのお母さんは、とても幸せそうで……でもわたしはなんだかとてもせつなくて。
「きっとお父さんも、同じ気持ちだったと思うよ?」
お母さんの手がすっと伸びて、いつものようにわたしの髪をやさしくなでる。
わたしはぎゅっと目を閉じて、あふれ出しそうになる涙を必死にこらえる。
「お母さん……」
お母さんの前では、泣かないって決めていた。病気で一番つらいのは、お母さんのはずだから。だからわたしが涙なんか流せない。
「沙和……」
お母さんのやさしい声が耳に響く。
「お母さんの子に生まれてきてくれて、ありがとうね」
その言葉を聞いた途端、こらえていた涙があふれた。