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7/30

 その日は北風の吹く寒い日だった。雪は昨日から降り続いていて、街も学校もグラウンドも、何もかもが真っ白に染まっている。

「あー、由井、やっと来たぁ」

「今頃? サボり過ぎじゃね?」

 由井くんが学校に来たのは四時間目の始まる前。体育の授業の前だった。

「由井、お前、四時間目が体育だから来たんだろ?」

「バーカ。そんな小学生みたいなことするか。風邪ひいて、具合悪かったんだよ」

「だったら来るな。風邪菌持ってきやがって」

「ウメ。そんなに欲しかったら、分けてやってもいいけど?」

「わー、バカ、寄るな! 由井っ、てめぇ……」

 男の子たちとふざけ合っている由井くんを、遠くから見る。教室の中はあたたかくて、由井くんの周りには、たくさんの友達がいて……。

 だけど由井くんは、本当に心から笑えているのかな……なんて思ってしまうのは、やっぱり考えすぎだろうか。

「沙和ー? 体育館行くよー」

「あ、うん」

 茜ちゃんたちに誘われて教室を出た。

 最後に一度だけ振り返ったら、わたしを見ている由井くんと目が合った。


「沙和、聞いた? 体育の時、由井がぶっ倒れて、保健室に運ばれたんだって」

「え?」

 茜ちゃんからそれを聞いたのは、ちょうど江里ちゃんとお弁当を広げた時だった。

「あー、あいつ具合悪いって言ってたもんね」

「あれ、本気だったんだね」

 ふたりの会話にわたしも割り込む。

「それで? 由井くん、大丈夫なの?」

「大丈夫みたいだよ。さっきウメが見てきたらしいけど、もうケロッとしてたって」

 なんだか胸がざわざわした。さっき最後に見た、由井くんの何か言いたげな表情を思い出して、いてもたってもいられなくなる。

「わたし……ちょっと見てくる」

「あ、沙和?」

 食べようとしたお弁当にふたを閉め、気づいたらわたしは教室を飛び出していた。


 保健室へと続く廊下は、冷たく冷え切っていた。

 窓の外には雪が降っていて、遠くで生徒たちの笑い声がやけに大きく響いた後、あたりはしんと静まり返った。

 保健室の前で息を整える。そして引き戸に手をかけようと右手を伸ばした時、ガラッと音を立ててそれが開いた。

「ゆ、由井くん?」

「沙和ちゃん」

 わたしの目の前に立っていたのは、少し髪が乱れた、ジャージ姿の由井くんだった。


「体育で柔道やってたらさ、急に目がまわって、意識吹っ飛んだ」

 音のない廊下を歩きながら、由井くんはわたしの隣で少し笑う。

「やっぱり学校なんか来るんじゃなかった。おとなしく家に帰るよ」

 外は白い雪が降っていた。わたしは立ち止まって由井くんに言う。

「わたし、送るよ」

 由井くんも足を止めて、わたしを見る。

「沙和ちゃんが?」

「いつも送ってもらってばかりだもん。今日はわたしが、由井くんを家まで送る」

 ふっと息を吐くように笑う由井くん。やがてその手がゆっくりと伸びて……わたしの背中をそっと自分の胸に引き寄せた。

「ゆ、由井くん?」

「沙和ちゃんの体、あったけぇ……」

 誰もいない冷たい廊下で、由井くんがぎゅっとわたしの体を抱きしめる。

 どうしよう……こんなところで……どうしよう……。

 だけどそれはなんだかとても気持ちがよくて、わたしはその手を振り払うことができなかった。

「由井くんは、熱いよ……熱、あるんじゃない?」

「そうかもな……」

「早く帰って寝たほうがいいよ……」

 耳元で聞こえる由井くんの息づかい。壊れそうなほど激しく動いているわたしの心臓。

 冷え切った廊下は寒いはずなのに、触れ合った体と体がすごく熱い。

「沙和ちゃん……」

 由井くんの体がそっと離れる。顔を上げたらすぐ近くで目が合って……恥ずかしいのに、視線をはずすことができなくて……。

 ほんの少し見つめ合ったあと、由井くんがわたしの前でつぶやく。

「やっぱ、やめとこ。風邪うつしたら悪いから」

 自分の顔が赤くなるのがわかる。そんなわたしを見て由井くんが笑っている。

 キス……されるかと思った。

「本当に送ってくれるの?」

「え?」

「沙和ちゃん、授業サボって……本当におれのこと、送ってくれるの?」

「……いいよ」

「すっげぇ、うれしい」

 由井くんの手が、そっとわたしの手をにぎる。

 ひっそりとした廊下を、由井くんと手をつないで歩いた。

 遠くで男の子たちの騒ぎ声が聞こえて、それを注意する先生の声が響いても、由井くんはわたしの手を離してはくれなかった。


 午後の授業はサボってしまった。こんな大胆なことをしたのは、もちろん生まれて初めてだ。

 荷物を持ってこっそり教室を出て行くわたしに、事情を知った茜ちゃんたちは、にやにやしながら「がんばって」なんて言ってくれた。「先生には上手く話しておくから」と。

 ちょっとの罪悪感を抱えながら昇降口に向かうと、先に出てきた由井くんがわたしを見て、小さく笑った。


 雪の降り積もる道をふたりで帰る。

 由井くんの家はわたしの住む家とは反対方向で、今まで遠回りして送ってくれていたってことに、今ごろ気づく。

 広い道路を曲がって、静かな住宅街に入りこむ。今日の由井くんはやっぱり具合が悪いのか、いつもより口数が少ない。

 わたしが送る、なんて言ったけど、わたしは由井くんの家を知らないし、こんな道来たことないし、ここで由井くんとはぐれたら、それこそ迷子だ。

 なにやってるんだろう……わたし。

「あそこ」

 由井くんがつぶやいて、人差し指を伸ばす。その指先を目で追うと、こぎれいな一戸建ての住宅が目に入った。

「あそこがおれの住んでる家」

「そ、そう。じゃあもうひとりで大丈夫だね?」

 わたしが言ったら、由井くんが吹き出すように笑った。

「おれは大丈夫だけど、沙和ちゃんはひとりで大丈夫なの?」

「え?」

「ひとりで家に帰れるの?」

 帰れない……同じような家が並んだ、同じような道だったもの。どこをどう曲がってここまできたか、実は全然覚えてない。

「うちに寄ってけば? せっかくここまで来たんだし」

「い、いいよっ。それより由井くん、早く寝たほうがいいんじゃない?」

 ふたりでそんなことを言い合っていたら、一台の乗用車が由井くんの家のガレージに入ってきた。


「こうちゃぁん! さわちゃぁん!」

 後部座席のドアが開き、飛び降りてきたのは風太くんだ。

「見て! パパとママにこれ買ってもらったー! ふうのお誕生日ぷれぜんとだよー」

 わたしたちに駆け寄ってくる風太くんは、かわいらしい包装紙で包まれた、大きな箱を抱えている。

「風太くん、今日、お誕生日なの?」

「うん! ケーキもね、買ったんだよ! ね、ママ!」

 風太くんが振り返ると、車から降りた風太くんのお母さんの貴子さんが、にっこり微笑んでわたしに言った。

「こんにちは。沙和ちゃんでしたよね? この間は、風太を動物園に連れて行ってくれて、どうもありがとう」

「あ、いえ……」

「ねぇ、またどうぶつえん行こ! 今日行こ!」

 わたしの足に絡みついてくる風太くん。

「こら、ふう。今日は無理だよ」

 そんな風太くんを由井くんが引き離して、貴子さんに押し返す。

「今日、学校で具合悪くなって、沙和ちゃんに送ってもらったんだ」

「やだ……だから言ったでしょ。今日は無理しないで休めば? って」

 貴子さんは由井くんにそう言ってから、わたしに向かって頭を下げる。

「洸介がお世話になりまして……ありがとうございました」

「いえ、そんな……わたしなにもしてませんから」

 あわてて両手を振ってから、「じゃあ、帰るね」と由井くんに言う。

「ちょっと待って。よかったら上がって行って?」

「そうだよー。さわちゃん、一緒に遊ぼ!」

 風太くんに制服を引っ張られ、苦笑いをしていたら、風太くんのお父さんにまで声をかけられた。

「風太も喜ぶし、少し寄っていってください。あとでお宅までお送りしますから」

「そんな……悪いです」

「さわちゃん、こっち、こっち!」

 風太くんに手を引かれ、仕方なくついて行く。

 本当になんにもしていないのに。こんなに歓迎されちゃって、なんだかとても申し訳なくて、助けを求めるように由井くんに振り返る。

「由井くん……」

 由井くんはぼんやりとそこに立っていた。どこか遠くを見ているような目つきで。

 その視線の先にいるのはわたしじゃなくて、風太くんでもなくて。

 車から荷物を降ろしている貴子さん。その紙袋をさりげなく、風太くんのお父さんが手に取って、家の中へ運ぶ。

「由井くん?」

 もう一度名前を呼んだら、由井くんがいつものように、わたしを見て笑った。

「おれの部屋、おいでよ。沙和ちゃん」

「でも由井くん、熱あるのに……」

「もう下がったよ」

 そしてわたしの手をひく風太くんを、ひょいっと高く抱き上げる。

「ふう! 一緒に遊ぼうかぁ?」

「うん! このおもちゃで遊ぼう!」

「だめだよ、由井くん。ちゃんと寝てなきゃ……」

 背中を向けた由井くんの笑い声が聞こえる。わたしは黙って、その後ろをついて行く。

 玄関先で、由井くんと貴子さんがすれ違った。

 何気なく交わす短い会話。ほんの少しだけ触れ合う肩先。

 由井くんがどんな表情をしていたか、わたしは知らない。

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