7
その日は北風の吹く寒い日だった。雪は昨日から降り続いていて、街も学校もグラウンドも、何もかもが真っ白に染まっている。
「あー、由井、やっと来たぁ」
「今頃? サボり過ぎじゃね?」
由井くんが学校に来たのは四時間目の始まる前。体育の授業の前だった。
「由井、お前、四時間目が体育だから来たんだろ?」
「バーカ。そんな小学生みたいなことするか。風邪ひいて、具合悪かったんだよ」
「だったら来るな。風邪菌持ってきやがって」
「ウメ。そんなに欲しかったら、分けてやってもいいけど?」
「わー、バカ、寄るな! 由井っ、てめぇ……」
男の子たちとふざけ合っている由井くんを、遠くから見る。教室の中はあたたかくて、由井くんの周りには、たくさんの友達がいて……。
だけど由井くんは、本当に心から笑えているのかな……なんて思ってしまうのは、やっぱり考えすぎだろうか。
「沙和ー? 体育館行くよー」
「あ、うん」
茜ちゃんたちに誘われて教室を出た。
最後に一度だけ振り返ったら、わたしを見ている由井くんと目が合った。
「沙和、聞いた? 体育の時、由井がぶっ倒れて、保健室に運ばれたんだって」
「え?」
茜ちゃんからそれを聞いたのは、ちょうど江里ちゃんとお弁当を広げた時だった。
「あー、あいつ具合悪いって言ってたもんね」
「あれ、本気だったんだね」
ふたりの会話にわたしも割り込む。
「それで? 由井くん、大丈夫なの?」
「大丈夫みたいだよ。さっきウメが見てきたらしいけど、もうケロッとしてたって」
なんだか胸がざわざわした。さっき最後に見た、由井くんの何か言いたげな表情を思い出して、いてもたってもいられなくなる。
「わたし……ちょっと見てくる」
「あ、沙和?」
食べようとしたお弁当にふたを閉め、気づいたらわたしは教室を飛び出していた。
保健室へと続く廊下は、冷たく冷え切っていた。
窓の外には雪が降っていて、遠くで生徒たちの笑い声がやけに大きく響いた後、あたりはしんと静まり返った。
保健室の前で息を整える。そして引き戸に手をかけようと右手を伸ばした時、ガラッと音を立ててそれが開いた。
「ゆ、由井くん?」
「沙和ちゃん」
わたしの目の前に立っていたのは、少し髪が乱れた、ジャージ姿の由井くんだった。
「体育で柔道やってたらさ、急に目がまわって、意識吹っ飛んだ」
音のない廊下を歩きながら、由井くんはわたしの隣で少し笑う。
「やっぱり学校なんか来るんじゃなかった。おとなしく家に帰るよ」
外は白い雪が降っていた。わたしは立ち止まって由井くんに言う。
「わたし、送るよ」
由井くんも足を止めて、わたしを見る。
「沙和ちゃんが?」
「いつも送ってもらってばかりだもん。今日はわたしが、由井くんを家まで送る」
ふっと息を吐くように笑う由井くん。やがてその手がゆっくりと伸びて……わたしの背中をそっと自分の胸に引き寄せた。
「ゆ、由井くん?」
「沙和ちゃんの体、あったけぇ……」
誰もいない冷たい廊下で、由井くんがぎゅっとわたしの体を抱きしめる。
どうしよう……こんなところで……どうしよう……。
だけどそれはなんだかとても気持ちがよくて、わたしはその手を振り払うことができなかった。
「由井くんは、熱いよ……熱、あるんじゃない?」
「そうかもな……」
「早く帰って寝たほうがいいよ……」
耳元で聞こえる由井くんの息づかい。壊れそうなほど激しく動いているわたしの心臓。
冷え切った廊下は寒いはずなのに、触れ合った体と体がすごく熱い。
「沙和ちゃん……」
由井くんの体がそっと離れる。顔を上げたらすぐ近くで目が合って……恥ずかしいのに、視線をはずすことができなくて……。
ほんの少し見つめ合ったあと、由井くんがわたしの前でつぶやく。
「やっぱ、やめとこ。風邪うつしたら悪いから」
自分の顔が赤くなるのがわかる。そんなわたしを見て由井くんが笑っている。
キス……されるかと思った。
「本当に送ってくれるの?」
「え?」
「沙和ちゃん、授業サボって……本当におれのこと、送ってくれるの?」
「……いいよ」
「すっげぇ、うれしい」
由井くんの手が、そっとわたしの手をにぎる。
ひっそりとした廊下を、由井くんと手をつないで歩いた。
遠くで男の子たちの騒ぎ声が聞こえて、それを注意する先生の声が響いても、由井くんはわたしの手を離してはくれなかった。
午後の授業はサボってしまった。こんな大胆なことをしたのは、もちろん生まれて初めてだ。
荷物を持ってこっそり教室を出て行くわたしに、事情を知った茜ちゃんたちは、にやにやしながら「がんばって」なんて言ってくれた。「先生には上手く話しておくから」と。
ちょっとの罪悪感を抱えながら昇降口に向かうと、先に出てきた由井くんがわたしを見て、小さく笑った。
雪の降り積もる道をふたりで帰る。
由井くんの家はわたしの住む家とは反対方向で、今まで遠回りして送ってくれていたってことに、今ごろ気づく。
広い道路を曲がって、静かな住宅街に入りこむ。今日の由井くんはやっぱり具合が悪いのか、いつもより口数が少ない。
わたしが送る、なんて言ったけど、わたしは由井くんの家を知らないし、こんな道来たことないし、ここで由井くんとはぐれたら、それこそ迷子だ。
なにやってるんだろう……わたし。
「あそこ」
由井くんがつぶやいて、人差し指を伸ばす。その指先を目で追うと、こぎれいな一戸建ての住宅が目に入った。
「あそこがおれの住んでる家」
「そ、そう。じゃあもうひとりで大丈夫だね?」
わたしが言ったら、由井くんが吹き出すように笑った。
「おれは大丈夫だけど、沙和ちゃんはひとりで大丈夫なの?」
「え?」
「ひとりで家に帰れるの?」
帰れない……同じような家が並んだ、同じような道だったもの。どこをどう曲がってここまできたか、実は全然覚えてない。
「うちに寄ってけば? せっかくここまで来たんだし」
「い、いいよっ。それより由井くん、早く寝たほうがいいんじゃない?」
ふたりでそんなことを言い合っていたら、一台の乗用車が由井くんの家のガレージに入ってきた。
「こうちゃぁん! さわちゃぁん!」
後部座席のドアが開き、飛び降りてきたのは風太くんだ。
「見て! パパとママにこれ買ってもらったー! ふうのお誕生日ぷれぜんとだよー」
わたしたちに駆け寄ってくる風太くんは、かわいらしい包装紙で包まれた、大きな箱を抱えている。
「風太くん、今日、お誕生日なの?」
「うん! ケーキもね、買ったんだよ! ね、ママ!」
風太くんが振り返ると、車から降りた風太くんのお母さんの貴子さんが、にっこり微笑んでわたしに言った。
「こんにちは。沙和ちゃんでしたよね? この間は、風太を動物園に連れて行ってくれて、どうもありがとう」
「あ、いえ……」
「ねぇ、またどうぶつえん行こ! 今日行こ!」
わたしの足に絡みついてくる風太くん。
「こら、ふう。今日は無理だよ」
そんな風太くんを由井くんが引き離して、貴子さんに押し返す。
「今日、学校で具合悪くなって、沙和ちゃんに送ってもらったんだ」
「やだ……だから言ったでしょ。今日は無理しないで休めば? って」
貴子さんは由井くんにそう言ってから、わたしに向かって頭を下げる。
「洸介がお世話になりまして……ありがとうございました」
「いえ、そんな……わたしなにもしてませんから」
あわてて両手を振ってから、「じゃあ、帰るね」と由井くんに言う。
「ちょっと待って。よかったら上がって行って?」
「そうだよー。さわちゃん、一緒に遊ぼ!」
風太くんに制服を引っ張られ、苦笑いをしていたら、風太くんのお父さんにまで声をかけられた。
「風太も喜ぶし、少し寄っていってください。あとでお宅までお送りしますから」
「そんな……悪いです」
「さわちゃん、こっち、こっち!」
風太くんに手を引かれ、仕方なくついて行く。
本当になんにもしていないのに。こんなに歓迎されちゃって、なんだかとても申し訳なくて、助けを求めるように由井くんに振り返る。
「由井くん……」
由井くんはぼんやりとそこに立っていた。どこか遠くを見ているような目つきで。
その視線の先にいるのはわたしじゃなくて、風太くんでもなくて。
車から荷物を降ろしている貴子さん。その紙袋をさりげなく、風太くんのお父さんが手に取って、家の中へ運ぶ。
「由井くん?」
もう一度名前を呼んだら、由井くんがいつものように、わたしを見て笑った。
「おれの部屋、おいでよ。沙和ちゃん」
「でも由井くん、熱あるのに……」
「もう下がったよ」
そしてわたしの手をひく風太くんを、ひょいっと高く抱き上げる。
「ふう! 一緒に遊ぼうかぁ?」
「うん! このおもちゃで遊ぼう!」
「だめだよ、由井くん。ちゃんと寝てなきゃ……」
背中を向けた由井くんの笑い声が聞こえる。わたしは黙って、その後ろをついて行く。
玄関先で、由井くんと貴子さんがすれ違った。
何気なく交わす短い会話。ほんの少しだけ触れ合う肩先。
由井くんがどんな表情をしていたか、わたしは知らない。