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 ――ごめん。ちょっと遅れる。

 日曜日。駅前の広場に立ったわたしは、小さくため息をつきながら、スマートフォンのメッセージを閉じた。

 自分から誘ったくせに遅刻? わたしは早めに起きて、早めに準備して、早めに家を出て来たっていうのに。

 ふてくされた顔をしたわたしが、ショップのガラス窓に映る。

 軽く内側に巻いた髪。買ったばかりのコートとブーツ。そして首には、一番お気に入りのマフラー。

 こんなにおしゃれをしたのは、麻野先輩とのデート以来だ。

 もしかしてわたし……うかれてる?


「あ、いたいた。沙和ちゃーん!」

 もう聞き慣れた声が耳に聞こえる。駅から出てくる人波をかき分けるようにしながら、わたしに手を振る由井くんの姿。

 そしてもう片方の手には……小さな手がつながれていた。

「由井くん……と、風太くん?」

「ごめん、ごめん。遅くなって」

 由井くんが風太くんを引っ張るようにして、わたしの前に駆け寄ってくる。

「出かける瞬間、こいつに見つかっちゃってさぁ。ついてくるってきかないんだよ」

「そうだったの」

「いい? こいつ連れて行っても」

 由井くんと手をつないだ風太くんが、きょとんとした顔でわたしのことを見上げている。

「ほら、ふう。お姉ちゃんに『お願いします』だろ?」

 無理やり由井くんに頭を下げられた風太くんが、舌足らずな声で「お願いしましゅ」と言う。

 そんなふたりが、歳の離れた本当の兄弟みたいで微笑ましくて、わたしの口元も思わずゆるんだ。

「もちろん、いいよ。こちらこそ『お願いします』」

 風太くんの前にしゃがみ込んでそう言うと、風太くんが嬉しそうに由井くんを見上げた。

「よかったな。ふう」

「うん!」

 風太くんの頭にぽんっと手をのせる由井くん。その顔は、わたしが今まで見た、どの表情よりも穏やかだ。

 そんな由井くんを見られただけで、「来てよかった」なんて思ってしまうわたしは、本当にどうかしちゃったのかもしれない。


「どうぶつえん、こっちだよー」

 すぐにわたしに懐いてくれた風太くんは、わたしたちを誘導するように、歩道をちょこちょこと走って行く。

「こらっ、ふう! 勝手に行ったら危ないだろ! 手!」

 風太くんを追いかける由井くんが、差し出した右手。風太くんは立ち止まり、ぎゅっとその手を握りしめる。

 今日、由井くんとつながっているのは、風太くんなんだ。

「おねえちゃん」

 風太くんがわたしを呼ぶ。

「おねえちゃんも!」

 わたしの前に開かれた小さな手のひら。わたしはそっとその手をにぎる。

「おねえちゃんの手、つめたーい! こうちゃんの手はあったかいのに」

「冷え症なんだよ。沙和ちゃんは」

「ひえしょうってなあに?」

 ふたりの声を聞きながら、なんだか心がぽかぽかしてくる。

「由井くん。いつも風太くんに言われてたんだね?」

「え? なにを?」

「由井くんの手、あったかいねって」

 風太くんを真ん中にして、三人で手をつないで歩く。ちょっぴり照れくさいけど、やっぱり嬉しい。

 やわらかくて小さい風太くんの手をにぎりながら、わたしは由井くんの手のぬくもりを思い出していた。


「こっちにねー、おさるさんがいるんだよー」

 街外れにある、古くて小さな動物園につくと、風太くんは慣れた様子で駆けだした。

「よく来るの? ここ」

 そんな風太くんの姿を目で追いながら、わたしは隣にいる由井くんに聞いた。

「しょっちゅう来てるよ。風太にとっては庭みたいなもん」

 そう言って笑う由井くんと並んで、雪の残る遊歩道を歩く。

「わたしは動物園なんて久しぶり。小さい頃はよく、お父さんに連れて行ってもらったみたいなんだけど、あんまり覚えてないし」

 そうなんだ。わたしには、お父さんの記憶がほとんどない。

「ひとつだけ、かすかに覚えているのは……お父さんに肩車してもらって、動物を見たこと」

「なんの動物?」

「……よく、覚えてないの」

 なんで覚えてないんだろう。なんで忘れちゃったんだろう。お父さんとの思い出、もっとたくさん欲しかったのに。

「でもそれって、いい思い出なんだろ? お父さんとの」

 由井くんの声を聞きながら、かすかな記憶を手繰り寄せる。

 お父さんにしてもらった肩車。高くて気持ちよくて、そして嬉しかった。だからきっとそれは『いい思い出』なんだ。

「うん」

 わたしが答えたら由井くんが笑った。

「ならいいじゃん。おれには、いい思い出なんかひとつもないよ」

「ひとつも?」

「うん。ひとつも」

 由井くんが立ち止まってわたしを見る。どこか冷めたような表情で。

「おれが生まれてきたのは、間違いだったんだよ……あの両親にとって」

 風太くんの、わたしたちを呼ぶ声が聞こえてきた。由井くんはすっとわたしから視線をそらし、何事もなかったように歩き出す。

 だけどわたしは立ち止ったまま、その場を動くことができなかった。

 はしゃぎながら、走り回る子どもたち。手をつないで歩く親子連れ。子どもの写真を撮るお父さん。

 わたしの周りの人たちは、誰もみんな幸せそうで……。

 勢いよく駆け寄ってきた風太くんの体を、由井くんが青い空に向かって高く抱き上げる。風太くんは声を上げて、嬉しそうに笑っている。

 だけど背中を向けた由井くんは、どんな顔で風太くんのことを見上げていたんだろう。


 動物園を後にする頃、空は茜色に染まっていた。

 閉園のアナウンスが響くまで遊びまわった風太くんは、疲れ切ってしまったのか、由井くんの背中で眠っている。

「……慣れてるんだね?」

 風太くんをおぶって歩く由井くんに、わたしがつぶやく。

「まあね。おれはこいつが、貴子さんのお腹の中にいるときから知ってるし。おむつも替えたし、風呂も入れてやったしな」

 小学生まで横浜に住んでいたっていう由井くん。お父さんとお母さんが離婚して、それきり会ってないって言ってた。

 ――おれが生まれてきたのは、間違いだったんだよ……。

 さっき聞いた言葉が胸の奥に引っかかって、なんだかもやもやが晴れない。

 そんなわたしに、由井くんが聞いてきた。

「沙和ちゃんはさ……どうして彼氏と別れたの?」

「え……」

「この前言ってただろ? 彼氏と別れたって」

 由井くんに顔をのぞきこまれそうになって、わたしはさりげなく視線をそらす。

「それは……わたしが引っ越すことになったから」

「それだけ?」

 少し考えてこくんとうなずく。

 わたしが引っ越しなんてしなければ、わたしたちはきっとまだ続いていた。

「バッカだなぁ、その彼氏。そんな理由で、こんな可愛い子と別れちゃうなんて」

 ゆっくりと顔を上げて由井くんを見る。由井くんは、ずり落ちそうになった風太くんをひょいっと背負い直して、わたしに向かって笑いかける。

「バカだよ。その男、本当に」

 わたしはなにも言えなかった。『そんな理由』で別れを決めたのは、わたしも同じだ。

「ま、そのおかげで、おれは沙和ちゃんと付き合えたわけだけど」

 由井くんがそう言って、夕焼け空を見上げる。わたしはその横顔を見ながらつぶやいた。


「由井くんだって……好きな人、いたんじゃない?」

 黙ったままの由井くんの頬に、夕日が当たっている。

「もしかしたら今も……好きな人、いるんじゃないの?」

「どうして?」

 立ち止まった由井くんがわたしを見る。

「どうしてそう思うの?」

「どうしてって……」

 どうしてだろう。どうしてそんなこと思ったんだろう。わからない。わからないけど。

 由井くんが時々見せる表情が、なんだかとてもやるせなくて……もしかしたらそんな恋をしてるんじゃないかって……なんとなく感じたの。

「沙和ちゃん」

 黙り込んだわたしの前で、由井くんが小さく微笑んでつぶやく。

「今度はふたりだけで、出かけような」

 歩道に立つわたしたちの脇を、何台かの車が通り過ぎる。

 風太くんは気持ちよさそうに、由井くんの背中で眠っていて、夕日がそんな風太くんの頬をほんのり茜色に染めている。

 歩き出した由井くんを、追いかけるように足を踏み出す。

 目の前にあるその背中は、手を伸ばせばすぐに届きそうなのに……由井くんの気持ちは、わたしには届かないほど、ずっと遠くにあるように感じた。

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