6
――ごめん。ちょっと遅れる。
日曜日。駅前の広場に立ったわたしは、小さくため息をつきながら、スマートフォンのメッセージを閉じた。
自分から誘ったくせに遅刻? わたしは早めに起きて、早めに準備して、早めに家を出て来たっていうのに。
ふてくされた顔をしたわたしが、ショップのガラス窓に映る。
軽く内側に巻いた髪。買ったばかりのコートとブーツ。そして首には、一番お気に入りのマフラー。
こんなにおしゃれをしたのは、麻野先輩とのデート以来だ。
もしかしてわたし……うかれてる?
「あ、いたいた。沙和ちゃーん!」
もう聞き慣れた声が耳に聞こえる。駅から出てくる人波をかき分けるようにしながら、わたしに手を振る由井くんの姿。
そしてもう片方の手には……小さな手がつながれていた。
「由井くん……と、風太くん?」
「ごめん、ごめん。遅くなって」
由井くんが風太くんを引っ張るようにして、わたしの前に駆け寄ってくる。
「出かける瞬間、こいつに見つかっちゃってさぁ。ついてくるってきかないんだよ」
「そうだったの」
「いい? こいつ連れて行っても」
由井くんと手をつないだ風太くんが、きょとんとした顔でわたしのことを見上げている。
「ほら、ふう。お姉ちゃんに『お願いします』だろ?」
無理やり由井くんに頭を下げられた風太くんが、舌足らずな声で「お願いしましゅ」と言う。
そんなふたりが、歳の離れた本当の兄弟みたいで微笑ましくて、わたしの口元も思わずゆるんだ。
「もちろん、いいよ。こちらこそ『お願いします』」
風太くんの前にしゃがみ込んでそう言うと、風太くんが嬉しそうに由井くんを見上げた。
「よかったな。ふう」
「うん!」
風太くんの頭にぽんっと手をのせる由井くん。その顔は、わたしが今まで見た、どの表情よりも穏やかだ。
そんな由井くんを見られただけで、「来てよかった」なんて思ってしまうわたしは、本当にどうかしちゃったのかもしれない。
「どうぶつえん、こっちだよー」
すぐにわたしに懐いてくれた風太くんは、わたしたちを誘導するように、歩道をちょこちょこと走って行く。
「こらっ、ふう! 勝手に行ったら危ないだろ! 手!」
風太くんを追いかける由井くんが、差し出した右手。風太くんは立ち止まり、ぎゅっとその手を握りしめる。
今日、由井くんとつながっているのは、風太くんなんだ。
「おねえちゃん」
風太くんがわたしを呼ぶ。
「おねえちゃんも!」
わたしの前に開かれた小さな手のひら。わたしはそっとその手をにぎる。
「おねえちゃんの手、つめたーい! こうちゃんの手はあったかいのに」
「冷え症なんだよ。沙和ちゃんは」
「ひえしょうってなあに?」
ふたりの声を聞きながら、なんだか心がぽかぽかしてくる。
「由井くん。いつも風太くんに言われてたんだね?」
「え? なにを?」
「由井くんの手、あったかいねって」
風太くんを真ん中にして、三人で手をつないで歩く。ちょっぴり照れくさいけど、やっぱり嬉しい。
やわらかくて小さい風太くんの手をにぎりながら、わたしは由井くんの手のぬくもりを思い出していた。
「こっちにねー、おさるさんがいるんだよー」
街外れにある、古くて小さな動物園につくと、風太くんは慣れた様子で駆けだした。
「よく来るの? ここ」
そんな風太くんの姿を目で追いながら、わたしは隣にいる由井くんに聞いた。
「しょっちゅう来てるよ。風太にとっては庭みたいなもん」
そう言って笑う由井くんと並んで、雪の残る遊歩道を歩く。
「わたしは動物園なんて久しぶり。小さい頃はよく、お父さんに連れて行ってもらったみたいなんだけど、あんまり覚えてないし」
そうなんだ。わたしには、お父さんの記憶がほとんどない。
「ひとつだけ、かすかに覚えているのは……お父さんに肩車してもらって、動物を見たこと」
「なんの動物?」
「……よく、覚えてないの」
なんで覚えてないんだろう。なんで忘れちゃったんだろう。お父さんとの思い出、もっとたくさん欲しかったのに。
「でもそれって、いい思い出なんだろ? お父さんとの」
由井くんの声を聞きながら、かすかな記憶を手繰り寄せる。
お父さんにしてもらった肩車。高くて気持ちよくて、そして嬉しかった。だからきっとそれは『いい思い出』なんだ。
「うん」
わたしが答えたら由井くんが笑った。
「ならいいじゃん。おれには、いい思い出なんかひとつもないよ」
「ひとつも?」
「うん。ひとつも」
由井くんが立ち止まってわたしを見る。どこか冷めたような表情で。
「おれが生まれてきたのは、間違いだったんだよ……あの両親にとって」
風太くんの、わたしたちを呼ぶ声が聞こえてきた。由井くんはすっとわたしから視線をそらし、何事もなかったように歩き出す。
だけどわたしは立ち止ったまま、その場を動くことができなかった。
はしゃぎながら、走り回る子どもたち。手をつないで歩く親子連れ。子どもの写真を撮るお父さん。
わたしの周りの人たちは、誰もみんな幸せそうで……。
勢いよく駆け寄ってきた風太くんの体を、由井くんが青い空に向かって高く抱き上げる。風太くんは声を上げて、嬉しそうに笑っている。
だけど背中を向けた由井くんは、どんな顔で風太くんのことを見上げていたんだろう。
動物園を後にする頃、空は茜色に染まっていた。
閉園のアナウンスが響くまで遊びまわった風太くんは、疲れ切ってしまったのか、由井くんの背中で眠っている。
「……慣れてるんだね?」
風太くんをおぶって歩く由井くんに、わたしがつぶやく。
「まあね。おれはこいつが、貴子さんのお腹の中にいるときから知ってるし。おむつも替えたし、風呂も入れてやったしな」
小学生まで横浜に住んでいたっていう由井くん。お父さんとお母さんが離婚して、それきり会ってないって言ってた。
――おれが生まれてきたのは、間違いだったんだよ……。
さっき聞いた言葉が胸の奥に引っかかって、なんだかもやもやが晴れない。
そんなわたしに、由井くんが聞いてきた。
「沙和ちゃんはさ……どうして彼氏と別れたの?」
「え……」
「この前言ってただろ? 彼氏と別れたって」
由井くんに顔をのぞきこまれそうになって、わたしはさりげなく視線をそらす。
「それは……わたしが引っ越すことになったから」
「それだけ?」
少し考えてこくんとうなずく。
わたしが引っ越しなんてしなければ、わたしたちはきっとまだ続いていた。
「バッカだなぁ、その彼氏。そんな理由で、こんな可愛い子と別れちゃうなんて」
ゆっくりと顔を上げて由井くんを見る。由井くんは、ずり落ちそうになった風太くんをひょいっと背負い直して、わたしに向かって笑いかける。
「バカだよ。その男、本当に」
わたしはなにも言えなかった。『そんな理由』で別れを決めたのは、わたしも同じだ。
「ま、そのおかげで、おれは沙和ちゃんと付き合えたわけだけど」
由井くんがそう言って、夕焼け空を見上げる。わたしはその横顔を見ながらつぶやいた。
「由井くんだって……好きな人、いたんじゃない?」
黙ったままの由井くんの頬に、夕日が当たっている。
「もしかしたら今も……好きな人、いるんじゃないの?」
「どうして?」
立ち止まった由井くんがわたしを見る。
「どうしてそう思うの?」
「どうしてって……」
どうしてだろう。どうしてそんなこと思ったんだろう。わからない。わからないけど。
由井くんが時々見せる表情が、なんだかとてもやるせなくて……もしかしたらそんな恋をしてるんじゃないかって……なんとなく感じたの。
「沙和ちゃん」
黙り込んだわたしの前で、由井くんが小さく微笑んでつぶやく。
「今度はふたりだけで、出かけような」
歩道に立つわたしたちの脇を、何台かの車が通り過ぎる。
風太くんは気持ちよさそうに、由井くんの背中で眠っていて、夕日がそんな風太くんの頬をほんのり茜色に染めている。
歩き出した由井くんを、追いかけるように足を踏み出す。
目の前にあるその背中は、手を伸ばせばすぐに届きそうなのに……由井くんの気持ちは、わたしには届かないほど、ずっと遠くにあるように感じた。