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「風邪ひくよ?」
由井くんの後ろに立ってつぶやいた。
「沙和ちゃん……」
振り向いた由井くんがわたしを見上げる。
「わたしのこと……待ってたの?」
「待ってるって言っただろ?」
由井くんはその場に立ち上がると、制服の埃を払いながら、わたしに向かっていつもみたいに笑いかけた。
「わたし……あなたとは付き合えないから」
「なんで?」
「なんでって……だってわたし、あなたのこと何にも知らないし」
「だったらこれから、知ればいいじゃん?」
わたしの前で由井くんが笑う。そして勝手にわたしの手をとり、そっと握った。
「手……つなぐなんて言ってない」
「沙和ちゃんの手、やっぱり冷たい」
悪びれた様子もない由井くんの手を、わたしはやっぱり振り払うことができない。
「……由井くんの手は……あったかいんだね」
「よく言われる」
「女の子に?」
「違うよ」
ふっと笑った由井くんが、ゆっくりと歩き出す。わたしはその隣を、あたたかい手に握られながら歩く。
ふたりで歩く二度目の帰り道。聞きたいことはたくさんあった。
どうして今まで誰とも付き合わなかったの? どうしてわたしなの? わたしのこと、かわいそうだから、かまってくれてるの?
「……これから、お母さんの病院に行くの」
「じゃあそこまで送る」
隣から聞こえる由井くんの声。空からふわりと落ちた雪は、わたしたちの足もとで、すぐにとけて消えてしまった。
学校の門を出て、静かな並木道を抜け、少し広い道路に出る。
病院まで続くこの道沿いには、たくさんの店が並んでいたけれど、わたしはまだどの店にも入ったことがない。
「だったら今度、おれが連れてってやるよ。店だけじゃなくて、動物園とか遊園地とかも」
どういう意味かな……それ、本気なのかな。
買い物客で賑わうスーパーの前を通り過ぎる。店の前で焼いている焼き鳥の香り。
お父さんに連れられた女の子が、その焼き鳥を買って、手をつないで帰っていく。
――お父さんが死んじゃって、お母さんは入院してるんでしょ? かわいそうな子なんだってね?
さっきの女の子たちの言葉が頭をよぎる。
「こうちゃぁん!」
突然背中に声がかかった。まだ幼い、男の子の声。
わたしの隣の由井くんが立ち止まり、その手がさりげなくわたしから離れた。
「こうちゃん!」
「なんだ、風太じゃん。お前、どこから来たの?」
「そこのスーパー。ママとお買いもの来たんだよ」
振り向いた由井くんに駆け寄ってくる三歳くらいの可愛らしい男の子。由井くんは慣れた感じでその子をひょいっと抱き上げる。
「勝手に出てきたら、ママが心配するぞ?」
「だってこうちゃんを見つけたんだもん」
そう言いながら男の子が、わたしの顔をちょっと恥ずかしそうに見る。
「あ、こいつ、いとこの風太。一緒に住んでるんだ」
「一緒に住んでる?」
つぶやいたわたしの声に重なるように、若い女の人の声が聞こえてきた。
「ふうちゃん! 勝手に出て行ったらだめでしょう!」
スーパーの袋を両手に持って、あわてた様子で駆け寄ってくる、風太くんのお母さんらしき人。茶色くて柔らかそうな長い髪が、ふわりと風に揺れる。
「ほら、ふう。ちゃんとママに謝れよ」
「だってぇ……」
「だってじゃないだろ? ごめんなさいは?」
由井くんに、ふくれたほっぺをつつかれて、風太くんが小さく頭を下げる。
「ママ。ごめんなしゃい」
風太くんのあどけない声に、お母さんが安心したように微笑む。由井くんは抱きかかえた風太くんをそんなお母さんに引き渡し、満足そうに笑って言った。
「じゃあな、風太。にいちゃんたちはデートの途中だから」
不思議顔の風太くんを抱いたお母さんが、笑顔でわたしに会釈する。わたしはどうしたらいいのかわからないまま、ただ同じように頭を下げた。
「じゃあ……」
「あ、こうちゃん。今日はバイトないの? お夕飯は一緒に食べれる?」
由井くんに声をかける、風太くんのお母さん。
「うん」
「こうちゃん! 今日のご飯はカレーなんだよ! こうちゃんカレーだいすきでしょ?」
「うん、好きだよ。楽しみにしてる」
風太くんにそう言ってから、由井くんはふたりに背中を向けて歩き出す。わたしはもう一度頭を下げてから、そんな由井くんを追いかけた。
「由井くんっ」
歩道を歩く由井くんの足取りは、さっきより少しだけ速い。
「デートとか、言わないでくれる? わたしたちまだ付き合ってない」
わたしの言葉に由井くんが笑い出す。
「沙和ちゃん、まだそんなこと言ってんの? 意外としつこいな」
「だって……わたしやっぱり、よく知らない人と、付き合うなんてできないもの」
「じゃあ、お友達から始めましょうか? 今さらだけどな」
からかうように笑って、由井くんは前を見たままわたしの隣を歩く。
風が強い。空気が冷たい。このままずっと、雪は降り続くのかな。
いやだな……雪。
「さっきの人……」
すっかり暗くなった空を見上げてつぶやく。
「綺麗な人だったね」
「ああ、風太のママな」
「ママには見えないね。すごく若くて、お姉さんみたい」
「だろ? あの人はおれの親父の弟のお嫁さん。おれ、そこんちに居候してんの」
「そう……なんだ」
それきり由井くんはしゃべらなくなった。わたしも何も話さなかった。
並んで歩くふたりの間隔は変わらないのに……その日は二度と、由井くんはわたしの手を握ろうとはしなかった。
「ごめんね、お母さん、遅くなって」
「わたしは大丈夫よ。沙和、転校したばかりで忙しいでしょう?」
「全然。部活やってるわけでもないし」
お母さんのベッドは、八階の窓際だった。窓の外に見えるのは、かすかに灯る街の灯り。
「テニスは、もうやらないの?」
消毒の匂いが漂う真っ白なベッドの上で、お母さんが表情を曇らせる。
お母さんの顔……また少し痩せたみたい。
「テニス部はないんだって。でもバレー部の見学してきた」
「バレー部に入るの?」
「ううん。たぶん……部活はやらない」
お母さんが心配そうにわたしを見ている。わたしは無理に明るく笑ってみせる。
「だってやりたい部活ないんだもん。それよりバイトでも探そうかな」
「沙和……」
お母さんは、今にも「ごめんね」ってつぶやきそうだ。
「大丈夫だよ。わたしね、もう友達できたの。彼氏だってできたんだから」
「彼氏? ちょっと早くない?」
そう言ってお母さんが、やっと少し微笑んでくれた。
大好きなお母さん。お父さんが亡くなってから、いくつも仕事を掛け持ちして、たったひとりでわたしを育ててくれた。あんまり体、丈夫じゃないのに、ずっと無理してきたんだよね。
ごめんね。ごめんね。今まで気付いてあげられなくて。わがままばかり言ってきて、本当にごめんなさい。
「だから……わたしは大丈夫。心配しないでね」
ベッドに上半身を起こしたお母さんが、そっとわたしの髪に触れる。
小さい頃からわたしの頭をなでてくれた手は、細く痩せてしまって、いくつもの点滴の痕が痛々しく残っていた。
「沙和……もう帰りなさい。遅くなると、危ないから」
「……うん」
お母さんのぬくもりが、わたしから離れる。その瞬間、胸がきゅっと痛くなる。
「じゃあ、また来るね」
「彼氏もいいけど、勉強もちゃんとやるのよ」
「はぁい」
お母さんに手を振って病室を出る。明るいナースステーションの前を通り過ぎ、ひと気のない廊下を歩いて、エレベーターの前で立ち止まる。
どうしよう……お母さんが死んじゃったら……。
突然、そんな想いが頭の中をぐるぐると駆け巡って、息が苦しくなる。
エレベーターのドアが開き、何人かの人が降りてきた。その人たちと入れ替えに、わたしは下りのエレベーターに乗る。
ゆっくりと、ひとつずつ下がっていく階数。ぼんやりと目で追っていたその数字が、かすかに滲んでいく。
面会時間の終わりを告げる、メロディーを聞きながら病院を出た。
どうしようもない不安に押しつぶされそうで……だけど大声で泣くことも出来なくて……。
アスファルトの歩道は、もううっすらと白く染まっていた。