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「あ、沙和、おはよう!」
「おはよう、楠木さん」
「茜でいいよ。わたしも今日から沙和って呼ぶから」
朝からそんなことを話して笑い合い、昨日仲良くなった茜ちゃんと廊下を歩く。
茜ちゃんはすごく元気な子だ。まわりのみんなまで明るい気持ちにしてくれる。
途中で砂田さんも合流してきた。ほんわかとした雰囲気の砂田さんは、肩の上でくるんと巻かれた髪を揺らしながら、「江里って呼んで」とわたしに言う。
ちょっと照れくさいけど、彼女たちのやさしさが嬉しい。
窓から日差しが差し込んでいて、転校二日目の今日は、朝から良い天気だった。
「三組の転校生って、あの子でしょ?」
教室に入ろうとしたとき、背中に声が聞こえた。
廊下の窓際に立つ女の子たちが、わたしのことをちらちら見ていたのは、さっきから気づいていたけれど。
「ああ、昨日、由井と……」
恥ずかしくて、逃げるように教室へ駆け込むと、茜ちゃんが笑いながら言った。
「沙和、すっかり有名人だね?」
「有名になんて、なりたくないのに……」
「ムリムリ。もうなってる」
机にスポーツバッグを置き、茜ちゃんが教室の入り口を指さす。下級生らしき女の子がふたり、こちらをのぞきこんでいて、わたしと目が合うとすっと立ち去って行った。
「恨まれるかもよぉ? 由井のこと狙ってた子、けっこういるから」
「え、そうなの?」
「由井って黙ってれば、わりとカッコよく見えちゃうからねぇ。下級生にもファンがいるし。頭ン中、小学生並みなのにね」
茜ちゃんがいたずらっぽい表情で笑い、わたしのことを見る。
わたしはどうしたらいいのかわからなくて、なんとなく苦笑いしながら、茜ちゃんの前に突っ立っていた。
「で、昨日は、本当に由井と帰ったんだって?」
荷物を席に置いてきた江里ちゃんが話に加わる。
「……うん」
「もしかして、由井に付き合おう的なことを言われた?」
「たぶん、ふざけてるんだろうけど……付き合うしかないでしょ、おれたち、とか……」
「ふうん?」
茜ちゃんと江里ちゃんが顔を見合わせる。
「で、でも返事なんてしてないから……だって昨日会ったばかりの人だよ? わたしあの人のこと、なんにも知らないし……」
転校早々、下級生にまで恨まれるなんて、勘弁してほしい。
「けど……向こうは案外、本気だったりして」
茜ちゃんがふっと真面目な顔つきでそう言った。
「由井はねぇ、誰とも付き合わないって有名だったの。モテるくせに、今まで絶対、彼女作らなかった」
茜ちゃんの声に、男の子たちの騒ぎ声が重なる。教室に入ってきた集団の中に、由井くんがいることを無意識に確認している自分に気づき、戸惑ってしまう。
「あ、新庄さん」
目が合った。昨日、手をつないで帰ったことを思い出して恥ずかしくなる。とっさに顔をそむけたけれど、由井くんは何事もなかったような態度で近寄ってくる。
「おはよ、新庄さん」
「……おはよう」
周りの視線が痛い。
よそ者はよそ者らしく、目立たずおとなしくしていようって、転校する前に誓ったはずなのに。こんなことになるなんて、まったく想定外だった。
「今日も待ってる。一緒に帰ろうよ」
「わたし……部活入るつもりだから」
「へぇ、何部?」
答えられない。だって嘘だもの。由井くんから逃げるための嘘。
「ゆーい。あんまり沙和を困らせないでよ」
「あ、なんだ、茜いたのか」
「ちょっ……あんたねぇ!」
「おれには沙和ちゃんしか見えなかった」
茜ちゃんの前で声を立てて笑っている由井くんは、やっぱり調子がよくて、悩みなんか何にもないように見えた。
きっと気のせいだったんだ。昨日の由井くんの横顔が、今にも消えてしまいそうなほど寂しく感じたのは。
「部活なんか入らなくていいよ。それよりおれと付き合おう? な、沙和ちゃん」
黙ったまま、由井くんの顔を見たら目が合って、自分の心臓が音を立てているのがわかる。
「昨日のとこで待ってる。沙和ちゃんが来るまで待ってるから」
「わ、わたし……」
「返事は聞かないって言っただろ?」
からかうように笑ってから、由井くんはわたしに背中を向けた。
「ねぇ、由井って、本当にまだ沙和のこと待ってるのかな?」
体育館でボールを弾ませながら、茜ちゃんと江里ちゃんが話している。
放課後ふたりに誘われて、わたしはバレー部の見学に来ていた。
「まさか。もうあきらめて帰ったでしょ? 待ってたらそれこそストーカーだよ」
「でも由井ってさ、ちょっとわけわかんないところあるよね? 待ってるって言ったら、本当に何時間でも待ってるような気がする」
「うーん、確かに。あのおバカな男子たちでさえ、由井が本気でキス決行するなんて、誰も思ってなかったって言ってたしねぇ……」
茜ちゃんたちがちらりとわたしの顔を見る。わたしは「ありえないよ」と笑って首を振る。
由井くんはもういるはずがない。こんな時間まで、わたしのことを待っているわけがない。
「あ、いたいた。茜ー!」
片手をブンブンと振り回しながら、同じバレー部の男の子が駆け寄ってくる。ほっそりしていて、背がひょろひょろと高い、由井くんと仲のいい男の子。
休み時間、よく由井くんと一緒に騒いでいるから、同じクラスの人だと思っていた。だけど実は隣のクラスの人なんだと、さっき江里ちゃんが教えてくれた。
「なによー、ウメ」
茜ちゃんはそんな彼を横目で見て、面倒くさそうにつぶやく。ウメと呼ばれた男の子は、茜ちゃんに駆け寄ると、わたしの顔を見てこう言った。
「あ、噂の転校生の沙和ちゃんだ」
やだな……「噂」になってるんだ、わたし。
「由井がめちゃくちゃ気に入ってる子」
「そんなことはどうでもいいから。何か用なの? あたしに」
「ああ、そうそう。さっき由井に、映画のチケット二枚もらってさぁ。一緒に行かね?」
「ちょっ……こんなところで、そんな話しないでよ!」
「じゃあどこですんだよ? どこで話したって変わんねぇだろ?」
「ウメのバカっ!」
茜ちゃんが心なしか頬を赤らめ、ウメって男の子のジャージを引っ張るようにして、体育館の隅へ連れて行く。
江里ちゃんはくすくす笑いながら、わたしの隣で説明してくれる。
「あいつ梅田。男子バレー部のキャプテンで、茜の彼氏」
「彼……なの?」
「そう。いつもあんな感じ」
体育館の隅では、いつの間にかチケットを受け取った茜ちゃんが、梅田くんの話にうんうんと素直にうなずいている。
同じ部活の彼氏と彼女――ふたりの姿を見ていたら、麻野先輩のことを思い出した。
――先輩はきっと後悔してるんだよ。沙和にあんなこと言っちゃって。
そうなのかな。もしそれが本当だったら……わたしたちはどうなるんだろう。
「ごめんね。わたしそろそろ帰らなきゃ」
「え、もう?」
梅田くんを手で追い払うようにしてから、茜ちゃんが駆け寄ってきた。
「今日はお母さんの病院に寄ることになってるの」
「そうなんだぁ……」
茜ちゃんと江里ちゃんが顔を見合わせる。微妙な空気が流れるのを感じた。
「ごめんね。またゆっくり見学させてもらう」
「いつでもおいで」
「ウチの部、ゆるーいから楽だよぉ? なんたってキャプテンがあんなだし」
「おい、それっておれのことか?」
茜ちゃんたちの笑い声に見送られながら、わたしはひとり体育館を出た。
窓の外はもう薄暗くなっていた。
部活に入ったと言えば、きっとお母さんもおばあちゃんも喜んでくれるだろう。ふたりとも、わたしが新しい学校に馴染めるか、心配してくれていたから。
だけどわたしは――自分だけが楽しめる気持ちには、全然なれなかった。
わたしに優しくしてくれるおばあちゃん。沙和ちゃんが来てくれて嬉しいよって言ってくれた。でも足が悪くてあまり外へ出かけられないおばあちゃんに、いろいろ無理させちゃっていると思う。
お母さんは自分の入院のせいで、わたしに転校させたこと、すごく気にしている。自分の病気のことだけ考えていればいいのに。簡単には退院することができない重い病気のくせに。
だからわたしは決めたの。ふたりの前では、絶対「やだな」なんて口にしないって。
静まり返った渡り廊下を過ぎると、靴箱の並ぶ昇降口についた。
凍りつきそうな空気を吸い込みながら、わたしは無意識のうちにあたりを見回している。
いるはずはないと思いながらも……どこかでほんの少しだけ、期待をしていたのかもしれない。
「いるわけ……ないよね」
口元から吐き出たのは、ため息まじりの自分の声。わたし、何を期待しているんだろう。バカみたい。
靴に履き替え玄関の外を見る。冷たい北風が吹きこんできて、思わず体を震わせる。
そんなわたしの耳に、誰かの話し声が聞こえて、ついその方向に視線を移した。
「由井くん……」
扉の向こう側で座り込んでいる男の子の背中。その周りに立って話しかけているのは、隣のクラスの女の子たちだ。
「由井ー、あんた本当に、あの転校生と付き合うつもり?」
かすかな笑い声と一緒に聞こえてくる女の子の声。
立ち聞きなんていやらしいことしたくはないのに、どうしてもわたしの足は動こうとしない。
「あんたたしか、美菜に言ったよねぇ? おれは誰とも付き合う気はないって」
「は? おれ、そんなこと言ったっけ?」
「うわ、サイテー、忘れてるし」
「美菜が泣くわ」
女の子たちのあきれた声と甲高い笑い声。背中を向けた由井くんが、一緒に笑っているかどうかはわからない。
「由井、あんたさ、同情してるんじゃないの? あの、沙和って子に」
ひとりの女の子の声に、心臓がどくんと音を立てる。
「お父さんが死んじゃって、お母さんは入院してるんでしょ? かわいそうな子なんだってね?」
「だからかまってやってるの? たしかに頼りなくて、ひとりじゃなんにもできなそうな子だけど?」
「そう思うなら、思ってればいいよ。寒いから、お前ら、もう帰れ。今晩また、雪降るってさ」
由井くんが女の子たちを振り払うように、右手をひらひらさせる。
「あんたはぁ? まだ待ってるの?」
「もうフラれちゃったんじゃないのー?」
「うるせぇなぁ、さっさと帰れって」
声を立てて笑いながら、女の子たちが帰っていく。
わたしは黙って、その場に座ったままの由井くんの背中を見つめる。
冷え切った空気。ぼんやりと灯るあかり。遠ざかっていく明るい声。
ふと由井くんが空を見上げて、わたしもその視線を追いかける。
「雪……」
頭をかすめる、どこか懐かしい記憶。
由井くんの手が空に伸びて、白い雪をつかむように、そっと握りしめた。