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卒業式の朝、わたしはお母さんの写真に話しかけた。
「お母さん、わたしも今日で高校卒業だよ?」
写真の中のお母さんはいつも穏やかに微笑んでいる。
本当はわたしのことを叱ってもらったり、悩みを聞いてもらったりして欲しいけど……そんな願いはもう二度と叶わない。
「見て、お母さん。今日でこの制服姿も見納め」
立ち上がって写真の前でくるりと回る。もう着なれたチェックのスカートが、お母さんの前でふわりと揺れた。
「沙和ちゃん。まだ時間、大丈夫なの?」
少しおしゃれをしたおばあちゃんが、部屋の中をのぞきこんでくる。おばあちゃんは今日、わたしの卒業式に喜んで出席してくれる。
「はぁい、いま行きます」
鏡の前で髪を整え、おばあちゃんに挨拶をする。
「おばあちゃん、行ってくるね」
「沙和ちゃん。本当におめでとう」
穏やかに微笑んだおばあちゃんの顔が嬉しい。お母さんが亡くなってから、おばあちゃんもずっと元気がなかったから。
「おばあちゃん」
玄関先で見送ってくれるおばあちゃんに振り返る。
「これからもよろしくね」
わたしの声に、おばあちゃんは幸せそうにうなずいてくれた。
卒業式で茜ちゃんも江里ちゃんも泣いていたけど、わたしはなぜか泣けなかった。
壇上に立つ校長先生の話や、卒業生代表の挨拶を耳の片隅で聞きながら、わたしは斜め前に座る由井くんの、制服を着た背中をずっと見ていた。
はじめてこの学校へやってきた日。雪の降る校庭を、寒そうに背中を丸めて、ひとりで歩いていた由井くん。あのときからずっと、わたしは由井くんから目が離せなかった。
「で、お前いつ、横浜に行くんだよ?」
教室に戻り最後のホームルームが終わって、他のクラスの友達も一緒に写真を撮っているとき。わたしは由井くんに話しかけている、梅田くんの声を聞いた。
「うん、まぁ、そのうち」
「そのうちっていつだよ?」
「うるせぇなぁ……お前、おれがいなくなるのがそんなに寂しいの?」
いつもの調子で言い合っている由井くんたちをぼんやりと眺める。
「由井ー、おれはなぁ、誰にも見送ってもらえないお前がかわいそうだと思って、わざわざ見送りに行ってやろうかと……」
「見送りとかいらないし。そういうの苦手なんだよ」
そんなことを言っている由井くんは、わたしにもこの街を発つ日を教えてくれない。
「それじゃ、おれ帰るわ」
普段の放課後と同じようにそう言って、由井くんは梅田くんの肩をぽんっと叩く。
「あっれー、由井、帰っちゃうのー?」
「沙和とのツーショット、撮ってあげるのにぃ」
「いらない、いらない。代わりに梅田でも撮ってやって」
茜ちゃんと江里ちゃんに手を振った由井くんは、もう一度「それじゃ」と笑って教室を出て行く。
「沙和、一緒に帰らなくていいの?」
「え、ああ、うん」
「最後なのにぃ?」
「余裕だね」
茜ちゃんと江里ちゃんがそう言って笑う。
ううん、余裕なんか全然ない。
さっき渡り廊下の隅で、由井くんと美菜さんが話しているのを見かけた。
最近彼氏と別れたっていう美菜さんは、由井くんの前で泣いていた。
ふたりがなにを話していたのか知らない。泣き出してしまった美菜さんに、由井くんがなんて言葉をかけたのかわからない。
ただ胸がすごく痛くて、逃げるようにその場を離れた。
余裕なんて全然ないんだ。だけどわたしにできることは、由井くんを信じることだけだから……。
「ね、それよりこの後どこ行く?」
「この制服姿も最後だもんねぇ」
「女子だけでさ、パーッといこうよ、パーッと!」
おどけた調子の茜ちゃんを見て、わたしと江里ちゃんが笑う。
けっこう気に入ってたこの制服も、もう着ることはなくて、こんなふうに友達と教室で騒ぐのも、今日で本当に最後なんだな……。
茜ちゃんと江里ちゃんと遊んで食べて写真を撮って、家に帰る頃、空は夕焼け色だった。
「また絶対集まろうね」
三人で約束して別れた後、わたしは雪の残る道をひとりで歩いた。
三月に入ったばかりの風は、まだ冷たい。首元のマフラーを巻き直してポケットに手をつっこんだとき、スマートフォンが震えた。
「もしもし? 沙和ちゃん、いま何してる?」
電話の相手は由井くんだった。
「これから家に帰るとこ。どうしたの? 由井くん」
めったに電話なんてしてこないのに。歩道の隅に立ち止まって、由井くんの言葉を逃さないように耳を澄ます。
由井くんは少しの間黙り込んだあと、いつもみたいに冗談っぽく言った。
「ほんとはさ、黙って行こうと思ってたんだ。最後に沙和ちゃんの顔見たら、おれ、決心鈍りそうだったから」
由井くんの声の向こうでアナウンスが流れる。近づいて通り過ぎるのは電車の音。
「いま……どこにいるの?」
「駅。特急来るの待ってる」
「どうして、言ってくれなかったの?」
「だからぁ……見送られるのとか苦手なんだって」
そんなこと言ったって……わたしまだ由井くんに、「さよなら」も「またね」も言ってない。
「でもよかった。最後に沙和ちゃんの声聞けて」
わたしはまだよくないよ。自分ひとりで満足しないで。
「わたし、今から行く!」
「え?」
「今から駅に行くから!」
それだけ言って電話を切って、わたしは今歩いてきた道を走り出した。