27
卒業式の数日前、由井くんの家に遊びに行った。
「おめでとう、沙和ちゃん。短大合格したんでしょう?」
「さわちゃん、ようちえんのせんせいになったのー?」
玄関でわたしを出迎えてくれたのは、奏子ちゃんを抱いた貴子さんと、また少し大きくなった風太くんだ。
わたしは貴子さんに「ありがとうございます」と言ってから、風太くんの前にしゃがみ込んだ。
「まだね、先生になったわけじゃないの。これからお勉強して、先生になれたらいいなって思って……」
「沙和ちゃんならなれるわよ。きっといい先生に」
貴子さんがわたしに微笑みかける。
「さわちゃんがせんせいになったら、ぼく、さわちゃんのいるようちえんに行くー」
「本当? 嬉しいな」
風太くんの頭をなでてから、そっと立ち上がって貴子さんを見る。
久しぶりに会った貴子さんは、少し頬がふっくらとして、とても幸せそうに見えた。
「あれ、沙和ちゃん、もう来たの? いま迎えに行こうと思ったのに」
階段の上から由井くんの声が聞こえた。
「上がっておいでよ」
「うん。おじゃまします」
由井くんの部屋に上がるのは初めてじゃないはずなのに、なんだかとても緊張する。
そんなわたしのスカートを、風太くんの小さな手が握りしめた。
「ふうも行っていい?」
わたしを見上げる風太くんの目が、くりくりとして可愛らしい。
「うん。いいよ」
勝手に答えてしまったわたしに、由井くんの不満そうな声が降ってくる。
「ふうー。お前もうちょっと、空気読めよなぁ?」
由井くん。こんな小さな子にそれはちょっと無理じゃない?
風太くんは由井くんを見上げたまま、きょとんとした顔をしている。
「しょうがねぇ、ふうも来い!」
「うん! さわちゃん、またご本読んでくれる?」
「いいよ」
「いま、持ってくるねー」
パタパタと走って行く、風太くんの背中を見送りながら靴を脱ぐ。
もういちど「おじゃまします」と言って、由井くんの待つ二階の部屋に向かおうとしたら、貴子さんに声をかけられた。
「沙和ちゃん、あの……」
一瞬言いにくそうに言葉を切った後、貴子さんは穏やかな表情に戻ってわたしに言った。
「洸介のこと、よろしくお願いします」
貴子さんに頭を下げられて困ってしまう。お願いしますと言われても、わたしはまだ由井くんに、なんにもしてあげられない。
だけどいつかきっと、わたしも由井くんのすべてを包み込んであげられるような、そんな人になりたいから……だから……。
「はい」
そう答えて頭を下げる。
すると階段の上から顔を出した由井くんが、あきれたような声を出した。
「なにやってんだよ、ふたりでぺこぺこしちゃって。沙和ちゃん早くおいでよ」
「うん。いま行く」
顔を上げたら貴子さんが微笑んでいて、わたしも自然と笑顔になった。
由井くんの部屋に入ると、いくつかの段ボール箱が無造作に積まれていた。
「一応引っ越しの準備してんの。そんなに荷物はないから、宅配便で送ってもらおうかと思って」
一つの箱をぽんっと叩いて由井くんが言う。
そうか、そうだよね。由井くん、本当に引っ越しちゃうんだ。
わかりきっていることなのに、物が少なくなった部屋を見ると切なくなる。
「さわちゃーん、これ読んでー」
風太くんが絵本を抱えて駆け込んできた。子ぎつねが手袋を買いに行くお話だ。
わたしが座ると、風太くんはその膝の上にちょこんと乗って、絵本のページを開いた。
「……由井くん」
「なに?」
「そんなにじろじろ見ないで? 恥ずかしいじゃない」
「なに言ってんの。沙和ちゃん先生になるんだろ? こんなことで恥ずかしがっててどうすんだよ?」
「だって……子ども達に見られるのと、由井くんに見られるのは違うもん」
由井くんはおかしそうに笑ってから、ベッドの上にごろんと仰向けになる。
「じゃあ見ない。沙和ちゃんの声、聞いてる」
なんだかそれも恥ずかしいけど……。
絵本に視線を移して、ゆっくりと物語を読む。膝の上の風太くんは黙って聞いてくれている。
部屋の中はあたたかくて、静かで、とても心地よい。
前にも同じことあったな。あの頃わたしは、由井くんのことをなんにも知らなくて。
あれからつらいことも、悲しいことも、嬉しいことも、幸せなことも、たくさんあって――そしていまのわたしたちがいるんだ。
「……おしまい」
「つぎ、違う本、持ってくるー」
風太くんが嬉しそうに立ち上がって、部屋を飛び出していく。
「階段、気をつけてねー」
そう声をかけてから、ベッドの上の由井くんを見る。
「由井くん?」
絵本を読み始めてから、由井くんは一言も話しかけてこない。
「寝ちゃったの?」
そっとベッドの脇に近寄って、目を閉じている由井くんの顔を見下ろす。
その瞬間、由井くんの手がすっと伸びて、わたしの背中をぐっと引き寄せた。
「ちょっ……由井くんっ」
ベッドの上に倒れ込むようにして、わたしは由井くんに抱きしめられる。
「やだ……ふうちゃんが来ちゃう」
「まだ来ないよ」
「貴子さんだって下にいるのに」
「大丈夫だって」
由井くんの手がわたしの髪をなでる。触れ合った体と体がすごく熱くて……心臓が止まってしまいそう。
だけどわたしに触れている由井くんの手も、かすかに震えているのがわかった。
「沙和ちゃん……」
由井くんの声がすぐ近くに聞こえて、わたしはぎゅっと目を閉じる。
やがてわたしの頬にあたたかいものが一瞬だけ触れて……すぐにわたしの体はベッドの上に押し戻された。
「続きは……おれが迎えに来た時に」
「……バカ」
ベッドの上に起き上がった由井くんが、からかうように笑っている。
「さわちゃーん、持ってきたよー」
ぱたぱたと小さな足音を立てて、風太くんが駆け寄ってきた。
「ふう、お姉ちゃんに読んでもらってな。おれ、なんか飲み物持ってくる」
さりげなく立ち上がった由井くんが、風太くんの頭をぽんっとなでる。
わたしはぺたんと床に座って、部屋を出て行く由井くんの背中を目で追っていた。
ねぇ、迎えに来るっていつ?
由井くんの気持ちは、納得しているつもりだけど……期限もわからない未来を待っているだけなのは、すごく不安で心細い。
「さわちゃん? どうしたの?」
絵本の上にぽたりと落ちた雫。
こんな小さな子に心配かけるなんて大人げないけど……わたしは耐え切れずに、ぽろぽろと涙をこぼしてしまった。