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 卒業式の数日前、由井くんの家に遊びに行った。

「おめでとう、沙和ちゃん。短大合格したんでしょう?」

「さわちゃん、ようちえんのせんせいになったのー?」

 玄関でわたしを出迎えてくれたのは、奏子ちゃんを抱いた貴子さんと、また少し大きくなった風太くんだ。

 わたしは貴子さんに「ありがとうございます」と言ってから、風太くんの前にしゃがみ込んだ。

「まだね、先生になったわけじゃないの。これからお勉強して、先生になれたらいいなって思って……」

「沙和ちゃんならなれるわよ。きっといい先生に」

 貴子さんがわたしに微笑みかける。

「さわちゃんがせんせいになったら、ぼく、さわちゃんのいるようちえんに行くー」

「本当? 嬉しいな」

 風太くんの頭をなでてから、そっと立ち上がって貴子さんを見る。

 久しぶりに会った貴子さんは、少し頬がふっくらとして、とても幸せそうに見えた。


「あれ、沙和ちゃん、もう来たの? いま迎えに行こうと思ったのに」

 階段の上から由井くんの声が聞こえた。

「上がっておいでよ」

「うん。おじゃまします」

 由井くんの部屋に上がるのは初めてじゃないはずなのに、なんだかとても緊張する。

 そんなわたしのスカートを、風太くんの小さな手が握りしめた。

「ふうも行っていい?」

 わたしを見上げる風太くんの目が、くりくりとして可愛らしい。

「うん。いいよ」

 勝手に答えてしまったわたしに、由井くんの不満そうな声が降ってくる。

「ふうー。お前もうちょっと、空気読めよなぁ?」

 由井くん。こんな小さな子にそれはちょっと無理じゃない?

 風太くんは由井くんを見上げたまま、きょとんとした顔をしている。

「しょうがねぇ、ふうも来い!」

「うん! さわちゃん、またご本読んでくれる?」

「いいよ」

「いま、持ってくるねー」

 パタパタと走って行く、風太くんの背中を見送りながら靴を脱ぐ。

 もういちど「おじゃまします」と言って、由井くんの待つ二階の部屋に向かおうとしたら、貴子さんに声をかけられた。

「沙和ちゃん、あの……」

 一瞬言いにくそうに言葉を切った後、貴子さんは穏やかな表情に戻ってわたしに言った。

「洸介のこと、よろしくお願いします」

 貴子さんに頭を下げられて困ってしまう。お願いしますと言われても、わたしはまだ由井くんに、なんにもしてあげられない。

 だけどいつかきっと、わたしも由井くんのすべてを包み込んであげられるような、そんな人になりたいから……だから……。

「はい」

 そう答えて頭を下げる。

 すると階段の上から顔を出した由井くんが、あきれたような声を出した。

「なにやってんだよ、ふたりでぺこぺこしちゃって。沙和ちゃん早くおいでよ」

「うん。いま行く」

 顔を上げたら貴子さんが微笑んでいて、わたしも自然と笑顔になった。


 由井くんの部屋に入ると、いくつかの段ボール箱が無造作に積まれていた。

「一応引っ越しの準備してんの。そんなに荷物はないから、宅配便で送ってもらおうかと思って」

 一つの箱をぽんっと叩いて由井くんが言う。

 そうか、そうだよね。由井くん、本当に引っ越しちゃうんだ。

 わかりきっていることなのに、物が少なくなった部屋を見ると切なくなる。

「さわちゃーん、これ読んでー」

 風太くんが絵本を抱えて駆け込んできた。子ぎつねが手袋を買いに行くお話だ。

 わたしが座ると、風太くんはその膝の上にちょこんと乗って、絵本のページを開いた。

「……由井くん」

「なに?」

「そんなにじろじろ見ないで? 恥ずかしいじゃない」

「なに言ってんの。沙和ちゃん先生になるんだろ? こんなことで恥ずかしがっててどうすんだよ?」

「だって……子ども達に見られるのと、由井くんに見られるのは違うもん」

 由井くんはおかしそうに笑ってから、ベッドの上にごろんと仰向けになる。

「じゃあ見ない。沙和ちゃんの声、聞いてる」

 なんだかそれも恥ずかしいけど……。

 絵本に視線を移して、ゆっくりと物語を読む。膝の上の風太くんは黙って聞いてくれている。

 部屋の中はあたたかくて、静かで、とても心地よい。

 前にも同じことあったな。あの頃わたしは、由井くんのことをなんにも知らなくて。

 あれからつらいことも、悲しいことも、嬉しいことも、幸せなことも、たくさんあって――そしていまのわたしたちがいるんだ。

「……おしまい」

「つぎ、違う本、持ってくるー」

 風太くんが嬉しそうに立ち上がって、部屋を飛び出していく。

「階段、気をつけてねー」

 そう声をかけてから、ベッドの上の由井くんを見る。


「由井くん?」

 絵本を読み始めてから、由井くんは一言も話しかけてこない。

「寝ちゃったの?」

 そっとベッドの脇に近寄って、目を閉じている由井くんの顔を見下ろす。

 その瞬間、由井くんの手がすっと伸びて、わたしの背中をぐっと引き寄せた。

「ちょっ……由井くんっ」

 ベッドの上に倒れ込むようにして、わたしは由井くんに抱きしめられる。

「やだ……ふうちゃんが来ちゃう」

「まだ来ないよ」

「貴子さんだって下にいるのに」

「大丈夫だって」

 由井くんの手がわたしの髪をなでる。触れ合った体と体がすごく熱くて……心臓が止まってしまいそう。

 だけどわたしに触れている由井くんの手も、かすかに震えているのがわかった。

「沙和ちゃん……」

 由井くんの声がすぐ近くに聞こえて、わたしはぎゅっと目を閉じる。

 やがてわたしの頬にあたたかいものが一瞬だけ触れて……すぐにわたしの体はベッドの上に押し戻された。

「続きは……おれが迎えに来た時に」

「……バカ」

 ベッドの上に起き上がった由井くんが、からかうように笑っている。

「さわちゃーん、持ってきたよー」

 ぱたぱたと小さな足音を立てて、風太くんが駆け寄ってきた。

「ふう、お姉ちゃんに読んでもらってな。おれ、なんか飲み物持ってくる」

 さりげなく立ち上がった由井くんが、風太くんの頭をぽんっとなでる。

 わたしはぺたんと床に座って、部屋を出て行く由井くんの背中を目で追っていた。

 ねぇ、迎えに来るっていつ?

 由井くんの気持ちは、納得しているつもりだけど……期限もわからない未来を待っているだけなのは、すごく不安で心細い。

「さわちゃん? どうしたの?」

 絵本の上にぽたりと落ちた雫。

 こんな小さな子に心配かけるなんて大人げないけど……わたしは耐え切れずに、ぽろぽろと涙をこぼしてしまった。

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