24
麻野先輩に彼女ができたことを一佳から聞いたのは、雪が音もなく降り続く夜だった。
相手の彼女は、わたしもよく知っているテニス部の後輩の女の子。
高校を卒業した先輩が、後輩指導のため夏休みに何度か部活に顔を出しているうちに、どういうわけかその子とそういう関係になってしまったらしい、と一佳が教えてくれた。
「最近の先輩ね、悔しいほど幸せそうに笑ってるんだよ」
電話の向こうで一佳が言う。
ああ、よかった……先輩はいま、幸せなんだ。
綺麗事なんかじゃなく、心の底からそう思えるのは、最後に見た先輩の寂しそうな笑顔が、ずっと頭の隅に引っかかっていたから。
「で、沙和のほうはどうなのよ? 例の彼とは」
「どうって……どうにもならないよ、由井くんとは」
電話の向こうで、一佳が大げさにため息をつく。
「あんたそれで満足なわけ? このままずっと片思いでいいとか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「沙和が自分で選んだんだよね? 会いに行った先輩じゃなく、その彼のことを」
「……うん」
「だったらさ、もう一度沙和の気持ち伝えてみるとか。だって向こうの恋は、絶対叶うはずないんだから」
絶対叶うはずない……その通り。
由井くんだって、そんなことはちゃんとわかってる。わかってるから……自分が変わろうとしているんだ。
「こっちの友達にもそう言われてるんだけどね……」
「でしょう? 麻野先輩だってきっと思ってるよ? 沙和に幸せになって欲しいって」
一佳の声を耳の奥で聞く。
幸せになるって、どういうことなんだろう。いまのわたしは幸せじゃないのかな。なんだかもうわからなくなっちゃった。
カーテンの隙間から窓の外を見た。
静かに、静かに降り積もる雪。その中に取り残されて、なんだかわたしだけが前に進んでいないような、そんな気がした。
久しぶりに降り注ぐ朝の日差しと、窓にぶつかって崩れる雪の音で目が覚めた。
ベッドの上で目をこすってから、まさかと思って窓を開ける。
頬に当たる冷たい風。朝日に反射してキラキラと輝く雪。そして寒そうにこちらを見上げている由井くんが、わたしを見ていつもみたいに笑った。
「……由井くん」
「沙和ちゃん、おはよう」
「お、おはよう」
そう言いながら自分がパジャマ姿ってことに気づいたけれど、それよりもとにかく嬉しくて、寒いのに胸が熱くなる。
「一緒に学校行こうよ」
「……うん!」
たったこれだけのことなのに、はしゃいだような声を上げてしまった。
だってこんなふうに由井くんが迎えに来てくれることなんて、もうたぶんないんじゃないかって、思っていたから。
雪の積もった通学路を由井くんと歩く。
「どうしたの? 急に誘いに来たりして」
「うん? なんとなく」
なんとなくと言われても、喜んでいるわたしがいる。
隣を歩く由井くんとの間隔も、並んだ背の高さも、歩く歩幅も……そんな些細なことのすべてが心地よくて、なんだか愛しい。
もしかしてこれだけで、わたしは幸せになれるのかもなんて、頭の隅で考えたりする。
「昨日、おじさんの所にさ……母親から連絡があった」
前を向いたままの由井くんが、わたしの隣でそう言った。
「どうしてもおれに会いたいって。会わせてくれって頼みこんできたって……」
「それで……由井くんは、会うの? お母さんに」
「うん。そうしようかと思ってる。おじさんたちも、会って来いって言うし」
小さく息を吐いたあと、由井くんはわたしを見る。
「この前は突然だったから、あんなこと言っちゃったけど……やっぱり沙和ちゃんが言うとおり、おれを産んでくれた母親だし……」
「うん」
「今さら会って話して……どうなるわけでもないんだけど」
「それでも会ったほうがいいと思う、お母さんに」
あの日の由井くんのお母さんの必死な声を思い出す。わたしにはあの声が演技だなんて思えない。
「ほんとに、そう思う?」
「うん。会う意味はあると思う」
わたしがうなずいたら、由井くんがさっぱりしたような表情で笑った。
「やっぱり沙和ちゃんに言ってよかった」
「え?」
「ほんとはさ、まだ少し迷ってたんだ。会ってもきっとこの前みたいに、文句しか言えないような気もして……でもやっぱりちゃんと会って、ちゃんと話してくる」
由井くんの気持ちもなんとなくわかる。
由井くんはずっと、突然いなくなってしまったお母さんのことを憎んでいたと思う。だけどそれは、お母さんのことが大好きだったから。
そしてそんなお母さんに迎えにきてもらうことを、本当はずっと待っていたんじゃないのかな……。
白い雪を踏みしめながら歩く。
由井くんはいま少しだけ、前に進もうとしている。
わたしは……どうなんだろう。
「ねぇ、由井くん」
「うん?」
目を合わせるのが恥ずかしくて、遠くを見つめたままつぶやく。
「手、つないでもいい?」
少し震えたわたしの声に、隣の由井くんがかすかに微笑んだ気がした。
「こんな男でよかったら」
わたしの手が、由井くんのあたたかなぬくもりに包まれる。なぜだか初めて手をつないだ日のことを思い出して、胸が熱くなる。
――だいすき。
いまならはっきりわかるこの気持ち。そっと、声にならない声でつぶやいてみる。
由井くんは前を見たまま、そんなわたしの左手をぎゅっと握りしめる。
由井くんが、お母さんの住む横浜へ行ってしまうと聞いたのは、それからしばらくたった、クリスマス前のことだった。
「由井ー! お前なんでそんな大事なこと、おれに黙ってたんだよ!」
昼休みの廊下で叫んだ梅田くんの声は、少し離れた場所にいたわたしと茜ちゃんの耳にも、十分過ぎるほど聞こえてきた。
「黙ってたわけじゃねぇよ。ついこの間決めたことだし。別にすぐいなくなるわけでもないし」
「だけどいきなり横浜って……お前なんにも考えてないな?」
「まぁ、なんとかなるだろ? 住むところはあるんだから、あとは仕事探す、ってかお前、おれと別れるのがそんなにつらいの?」
「由井ー、お前なぁー!」
大騒ぎしている梅田くんと、それを面白がってからかっている由井くんを横目に、茜ちゃんが言う。
「沙和は、知ってたの? 由井が横浜に行っちゃうこと」
「うん」
「そっかぁ……」
わたしは心配そうな顔をしている茜ちゃんに微笑みかけ、この前由井くんに誘われて、一緒に帰った日のことを思い出した。
お母さんと再会した由井くんは、何度か会って話をして、それを決めたとわたしに言った。
「高校卒業したら、おれもあっちで一緒に暮らすことにした」
「……そうなんだ」
学校からの帰り道を並んで歩きながら、わたしは由井くんの声を聞く。
「なんかあの人ってさ、男がいないと生きていけないらしくて……ひとりじゃなんにもできない人なんだよ」
由井くんがすっと見上げた空は、茜色に染まっている。
「だからおれがそばにいてやろうかなぁって。親に守られるのは無理だとわかったから、おれが守ってやるしかないのかもなぁ、なんて思ってさ」
こくんと小さくうなずいて、由井くんが決めたことに納得しながらも、わたしは心のどこかで反対していた。
――行かないで。わたしのそばにいてくれるって言ったじゃない。
わたしはおばあちゃんの家から通える短大を受験するって、この前決めたばかり。だからわたしが由井くんについて、横浜に行くことなんてできるわけないし……。
だけど――その言葉は、口に出してはいけないんだ。
「うん。そうだね。わたしもそれがいいと思う」
由井くんが黙ってわたしのことを見る。わたしは夕暮れの空を仰ぎながら、必死で涙をこらえていた。
「よし! みんなでクリスマスパーティーしよう!」
わたしの隣で茜ちゃんが言う。
「え?」
「わたしと沙和と、由井と梅田と……それから江里や橘くんも誘って」
「そんな……みんなクリスマスの予定あるんでしょ?」
「大丈夫、大丈夫! ねぇ、ちょっと、由井とウメー!」
茜ちゃんが由井くんたちの立っているところへ駆け寄っていく。わたしはそんな茜ちゃんの背中をぼうっと見送る。
やがてこちらを振り向いた由井くんが、わたしを見てほんの少し微笑んだ。