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 麻野先輩に彼女ができたことを一佳から聞いたのは、雪が音もなく降り続く夜だった。

 相手の彼女は、わたしもよく知っているテニス部の後輩の女の子。

 高校を卒業した先輩が、後輩指導のため夏休みに何度か部活に顔を出しているうちに、どういうわけかその子とそういう関係になってしまったらしい、と一佳が教えてくれた。

「最近の先輩ね、悔しいほど幸せそうに笑ってるんだよ」

 電話の向こうで一佳が言う。

 ああ、よかった……先輩はいま、幸せなんだ。

 綺麗事なんかじゃなく、心の底からそう思えるのは、最後に見た先輩の寂しそうな笑顔が、ずっと頭の隅に引っかかっていたから。

「で、沙和のほうはどうなのよ? 例の彼とは」

「どうって……どうにもならないよ、由井くんとは」

 電話の向こうで、一佳が大げさにため息をつく。

「あんたそれで満足なわけ? このままずっと片思いでいいとか?」

「そういうわけじゃないけど……」

「沙和が自分で選んだんだよね? 会いに行った先輩じゃなく、その彼のことを」

「……うん」

「だったらさ、もう一度沙和の気持ち伝えてみるとか。だって向こうの恋は、絶対叶うはずないんだから」

 絶対叶うはずない……その通り。

 由井くんだって、そんなことはちゃんとわかってる。わかってるから……自分が変わろうとしているんだ。

「こっちの友達にもそう言われてるんだけどね……」

「でしょう? 麻野先輩だってきっと思ってるよ? 沙和に幸せになって欲しいって」

 一佳の声を耳の奥で聞く。

 幸せになるって、どういうことなんだろう。いまのわたしは幸せじゃないのかな。なんだかもうわからなくなっちゃった。

 カーテンの隙間から窓の外を見た。

 静かに、静かに降り積もる雪。その中に取り残されて、なんだかわたしだけが前に進んでいないような、そんな気がした。


 久しぶりに降り注ぐ朝の日差しと、窓にぶつかって崩れる雪の音で目が覚めた。

 ベッドの上で目をこすってから、まさかと思って窓を開ける。

 頬に当たる冷たい風。朝日に反射してキラキラと輝く雪。そして寒そうにこちらを見上げている由井くんが、わたしを見ていつもみたいに笑った。

「……由井くん」

「沙和ちゃん、おはよう」

「お、おはよう」

 そう言いながら自分がパジャマ姿ってことに気づいたけれど、それよりもとにかく嬉しくて、寒いのに胸が熱くなる。

「一緒に学校行こうよ」

「……うん!」

 たったこれだけのことなのに、はしゃいだような声を上げてしまった。

 だってこんなふうに由井くんが迎えに来てくれることなんて、もうたぶんないんじゃないかって、思っていたから。


 雪の積もった通学路を由井くんと歩く。

「どうしたの? 急に誘いに来たりして」

「うん? なんとなく」

 なんとなくと言われても、喜んでいるわたしがいる。

 隣を歩く由井くんとの間隔も、並んだ背の高さも、歩く歩幅も……そんな些細なことのすべてが心地よくて、なんだか愛しい。

 もしかしてこれだけで、わたしは幸せになれるのかもなんて、頭の隅で考えたりする。

「昨日、おじさんの所にさ……母親から連絡があった」

 前を向いたままの由井くんが、わたしの隣でそう言った。

「どうしてもおれに会いたいって。会わせてくれって頼みこんできたって……」

「それで……由井くんは、会うの? お母さんに」

「うん。そうしようかと思ってる。おじさんたちも、会って来いって言うし」

 小さく息を吐いたあと、由井くんはわたしを見る。

「この前は突然だったから、あんなこと言っちゃったけど……やっぱり沙和ちゃんが言うとおり、おれを産んでくれた母親だし……」

「うん」

「今さら会って話して……どうなるわけでもないんだけど」

「それでも会ったほうがいいと思う、お母さんに」

 あの日の由井くんのお母さんの必死な声を思い出す。わたしにはあの声が演技だなんて思えない。

「ほんとに、そう思う?」

「うん。会う意味はあると思う」

 わたしがうなずいたら、由井くんがさっぱりしたような表情で笑った。

「やっぱり沙和ちゃんに言ってよかった」

「え?」

「ほんとはさ、まだ少し迷ってたんだ。会ってもきっとこの前みたいに、文句しか言えないような気もして……でもやっぱりちゃんと会って、ちゃんと話してくる」

 由井くんの気持ちもなんとなくわかる。

 由井くんはずっと、突然いなくなってしまったお母さんのことを憎んでいたと思う。だけどそれは、お母さんのことが大好きだったから。

 そしてそんなお母さんに迎えにきてもらうことを、本当はずっと待っていたんじゃないのかな……。

 白い雪を踏みしめながら歩く。

 由井くんはいま少しだけ、前に進もうとしている。

 わたしは……どうなんだろう。


「ねぇ、由井くん」

「うん?」

 目を合わせるのが恥ずかしくて、遠くを見つめたままつぶやく。

「手、つないでもいい?」

 少し震えたわたしの声に、隣の由井くんがかすかに微笑んだ気がした。

「こんな男でよかったら」

 わたしの手が、由井くんのあたたかなぬくもりに包まれる。なぜだか初めて手をつないだ日のことを思い出して、胸が熱くなる。

 ――だいすき。

 いまならはっきりわかるこの気持ち。そっと、声にならない声でつぶやいてみる。

 由井くんは前を見たまま、そんなわたしの左手をぎゅっと握りしめる。

 由井くんが、お母さんの住む横浜へ行ってしまうと聞いたのは、それからしばらくたった、クリスマス前のことだった。


「由井ー! お前なんでそんな大事なこと、おれに黙ってたんだよ!」

 昼休みの廊下で叫んだ梅田くんの声は、少し離れた場所にいたわたしと茜ちゃんの耳にも、十分過ぎるほど聞こえてきた。

「黙ってたわけじゃねぇよ。ついこの間決めたことだし。別にすぐいなくなるわけでもないし」

「だけどいきなり横浜って……お前なんにも考えてないな?」

「まぁ、なんとかなるだろ? 住むところはあるんだから、あとは仕事探す、ってかお前、おれと別れるのがそんなにつらいの?」

「由井ー、お前なぁー!」

 大騒ぎしている梅田くんと、それを面白がってからかっている由井くんを横目に、茜ちゃんが言う。

「沙和は、知ってたの? 由井が横浜に行っちゃうこと」

「うん」

「そっかぁ……」

 わたしは心配そうな顔をしている茜ちゃんに微笑みかけ、この前由井くんに誘われて、一緒に帰った日のことを思い出した。


 お母さんと再会した由井くんは、何度か会って話をして、それを決めたとわたしに言った。

「高校卒業したら、おれもあっちで一緒に暮らすことにした」

「……そうなんだ」

 学校からの帰り道を並んで歩きながら、わたしは由井くんの声を聞く。

「なんかあの人ってさ、男がいないと生きていけないらしくて……ひとりじゃなんにもできない人なんだよ」

 由井くんがすっと見上げた空は、茜色に染まっている。

「だからおれがそばにいてやろうかなぁって。親に守られるのは無理だとわかったから、おれが守ってやるしかないのかもなぁ、なんて思ってさ」

 こくんと小さくうなずいて、由井くんが決めたことに納得しながらも、わたしは心のどこかで反対していた。

 ――行かないで。わたしのそばにいてくれるって言ったじゃない。

 わたしはおばあちゃんの家から通える短大を受験するって、この前決めたばかり。だからわたしが由井くんについて、横浜に行くことなんてできるわけないし……。

 だけど――その言葉は、口に出してはいけないんだ。

「うん。そうだね。わたしもそれがいいと思う」

 由井くんが黙ってわたしのことを見る。わたしは夕暮れの空を仰ぎながら、必死で涙をこらえていた。


「よし! みんなでクリスマスパーティーしよう!」

 わたしの隣で茜ちゃんが言う。

「え?」

「わたしと沙和と、由井と梅田と……それから江里や橘くんも誘って」

「そんな……みんなクリスマスの予定あるんでしょ?」

「大丈夫、大丈夫! ねぇ、ちょっと、由井とウメー!」

 茜ちゃんが由井くんたちの立っているところへ駆け寄っていく。わたしはそんな茜ちゃんの背中をぼうっと見送る。

 やがてこちらを振り向いた由井くんが、わたしを見てほんの少し微笑んだ。

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