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「由井くん、痛いよ……」
人通りの少ない住宅街までたどり着いたとき、わたしの声を聞いた由井くんは、やっとその手を離してくれた。
「あ、ごめん」
「ううん、大丈夫」
そう言って首を振ったけれど、強くつかまれた腕がまだ少し痛い。由井くんにこんなふうにされたのは、初めてのことだった。
「……お母さん、泣いてたみたいだった」
「知らねぇよ。何年も息子ほったらかしにしておいて、今さら何しに来たんだか」
わたしの顔を見ないまま、由井くんはゆっくりと歩き出す。
「でも由井くん、前に言ったよね? あんな母親でも、やっぱり好きだったって」
「それは昔の話。あいかわらず自分勝手な女なんだよ、あの人は」
自分のお母さんを『あの人』って呼ぶ由井くん。だけどきっと由井くんは、突然現れたお母さんの姿に、戸惑っているだけなんだと思う。
だってさっき、わたしの腕をつかんだ由井くんの手は――少しだけ震えていたから。
「だけどお母さんは会いに来たんだよね? 由井くんしか頼る人がいないんだよね?」
わたしの前で立ち止まった由井くんの肩に、白い雪がふわりと落ちる。
「どんなに憎くても、由井くんのお母さんは生きてる。由井くんを産んでくれたお母さんは、生きてるんだよ」
わたしを産んでくれたお母さんは、もうこの世にいないけど。どんなに会いたくても、会うことはできないけど。
「沙和ちゃん?」
由井くんが振り向いてわたしを呼ぶ。だけどわたしは顔を上げることができない。
涙があふれて……こんなところで泣きたくなんかないのに。
「沙和ちゃん……ごめん」
うつむいたまま必死に首を振る。
わたしに謝ったりしないで。わたしはただきっと、お母さんのいる由井くんに嫉妬しているだけ。
それはわかっているのに……一度あふれた涙は、どうしても止まってはくれない。
「沙和ちゃん」
すぐ近くで聞こえる由井くんの声。
――甘えたっていいんじゃない?
さっき聞いた由井くんの言葉が、今になって胸に響く。
両手をのばして由井くんの袖をつかんだ。そのまま顔を由井くんの胸に押し付けて……。
「ごめんね……ちょっとだけ」
ちょっとだけ、今ここで泣いてもいいかな?
由井くんの手がわたしの背中にまわる。そしてもう片方の手がわたしの頭に触れて、ぎゅっと体ごと抱きしめられた。
どうしよう……心臓が壊れてしまいそう。だけど、ものすごく、あったかい。
由井くんの胸で声を上げて泣いた。
お葬式のときでさえ、こんなに泣かなかったのに。どうしてだか今ごろになって、お母さんとの思い出が次々と頭に浮かんでくる。
由井くんはそんなわたしを抱きしめたまま、ひと言もしゃべろうとしなかった。
もしかしたら由井くんも、泣きたかったのかもしれない。
空から落ちる冷たい雪が頬に触れ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をゆっくりと上げる。
目の前に見えるのは、そんなわたしに笑いかける由井くんの顔。
「ヤバい顔になってるよ? 沙和ちゃん」
そう言う由井くんの目も、真っ赤に潤んでいるじゃない。
わたしはポケットからハンカチを取り出し、笑って見せた。
「涙ふいたら行こう。風太が待ってる」
「うん」
由井くんの手が、さりげなくわたしの手を握る。わたしはそっと目を閉じて、そのぬくもりを感じ取る。
小雪の舞う道を、由井くんと手をつないで歩いた。
このままずっと、由井くんの家につかなければいいのに……。
そんなことを心の奥で願いながら、わたしはぎゅっと、つないだ手に力をこめた。
「わーい、さわちゃん、ふうのおうちに来てくれたんだぁ!」
久しぶりに由井くんの家を訪れたわたしに、風太くんが駆け寄ってきてくれた。
「ふうちゃん、元気だった?」
「うん!」
夏の終わりにお母さんが亡くなってから、風太くんに会ったのは今日が初めてだ。
「ねぇ、さわちゃん、上がって、上がって。ぼくのかなちゃん、見せてあげるからー」
わたしの腕に絡みついてくる風太くん。
「おーい、ふう。ぼくのかなちゃんってなんだよ? お前のものじゃないだろ?」
「いいの! ぼくのかなちゃんなんだもん!」
「シスコン確定だな」
風太くんの前で由井くんが笑う。こんなふうに、風太くんとやりとりしている由井くんがすごく好き。
「沙和ちゃん。来てくれたのね」
そんなわたしにかけられた声は貴子さんだ。貴子さんの腕にはまだ小さな赤ちゃんが抱かれている。
「こんにちは。急におじゃましちゃって、ごめんなさい」
「いいのよ。どうぞ上がってください」
「ママー、さわちゃんに、かなちゃん見せてあげてー」
わたしから離れた風太くんが、貴子さんのスカートを引っ張る。貴子さんは穏やかに微笑んで、わたしに奏ちゃんを見せてくれた。
「わぁ、かわいい……」
「ママー、ぼくも見るー」
貴子さんの足もとでぴょんぴょんと飛び跳ねている風太くんを、由井くんがさりげなく抱き上げる。
「もう、うるさいなぁ、お前は」
そんなことを言いながらも、由井くんは風太くんの高さを、わたしの目線に合わせてくれる。
貴子さんの腕の中でうとうとしている奏ちゃんを、わたしと由井くんと風太くんの三人で見つめた。
小さくてまだ頼りない、風太くんの家の新しい家族。
「すっげぇ、かわいいだろ? こいつ」
「うん」
「ずっと一緒にいると、めんどくさいこととかもあるけどさ」
由井くんはそう言って少し笑って、奏ちゃんの小さな指先に触れる。
「それでもおれだったら捨てたりしない。自分の子どもを絶対捨てたりしない」
「由井くん……」
「なんてな」
黙り込んだわたしと貴子さんに軽く笑いかけて、由井くんは抱き上げていた風太くんを床に下した。
「あー、腹減ったぁ。ふう、なんか食いもんない?」
「さっきスーパーで買ったチョコがあるよー。こうちゃんにも分けてあげるー」
部屋の中に入っていく由井くんのあとを、風太くんが追いかける。残されたわたしはちょっとぎこちなく、貴子さんのことを見上げる。
「とってもいい子なのよ。あの子」
ひとり言のようにつぶやいた貴子さんの言葉。
「いい子なの。とても……」
「はい。わかってます」
わたしの声に貴子さんが微笑む。わたしもそんな貴子さんに笑顔を見せて、由井くんがしていたように、奏ちゃんの指先にそっと触れてみた。