22
「失礼しました」
職員室のドアを閉めると、わたしは廊下を走り出した。
朝降っていた雪はもう止んでいたけれど、空はまだどんよりと曇ったままだ。
音楽室から流れる楽器の音に背中を押されながら、昇降口に向かう。
ひっそりとした玄関に見えたのは、一年前と同じ由井くんの背中だ。
「遅いよ、沙和ちゃん」
声をかけたわたしに、由井くんが振り向いて笑いかける。
「来てくれないかと、思っちゃったじゃん?」
「進路のことで……先生に呼ばれてて」
上がってしまった息を、気づかれないように整える。だけど職員室からここまで、ずっと走ってきたこと、きっと由井くんにはバレてしまっているだろう。
「進路、まだ決まんないの?」
由井くんの声に、わたしは靴を履き替えながら答える。
「うん……おばあちゃんは進学を勧めてくれてるんだけど……いつまでもおばあちゃんちで、甘えてるわけにはいかないし」
お母さんがいなくなった今、頼れる人はおばあちゃんしかいないけど、いつまでも頼ってばかりじゃいられないってこと、わたしにだってわかる。
「甘えたっていいんじゃない?」
そんなわたしに由井くんが言った。
「沙和ちゃんがいたほうが、おばあちゃんだって喜ぶと思うしさ。沙和ちゃん今まですごく頑張ってきたんだから、少しくらい誰かに甘えたっていいと思う」
顔を上げて由井くんを見た。由井くんはほんの少し笑って歩き出す。わたしはその後を追いかけるようについて行く。
なんだか――涙が出そうだ。
色のない空はどこか寂しくて……わたしは決してつながれることのない由井くんの手を、ぼんやり眺めながら歩いた。
「でも……突然おじゃましちゃって、いいのかな?」
国道沿いの歩道を歩きながら、由井くんにつぶやく。
風太くんに会いたいのは本当だけど、貴子さんに会うのは、やっぱりなんとなく気まずい。
「いいんだよ。でも本当は風太さ、沙和ちゃんに会いたいっていうより、妹を見せたいんだよ、きっと」
「妹……」
「そう、奏ちゃん。すっげぇ、かわいいんだよ、マジで」
風太くんに奏子ちゃんっていう妹が生まれたことは、由井くんからもらったメッセージで知っていた。だけどこんなに嬉しそうに、由井くんからその話を聞くのは、今日が初めてだ。
「由井くん……」
「うん?」
空を見ている由井くんの横顔につぶやく。
「大丈夫なの?」
由井くんの視線がゆっくりとわたしに移る。
「……なにが?」
そんなことを言われて言葉に詰まる。だってなんて言っていいかなんて、わからなかったから。
由井くんはいつもみたいに軽く笑って、また空を見上げて言った。
「おれさ、なんか謝られたりしちゃってんの。『こうちゃん、ごめんね。あなたのことは家族としか思えない』なんて、あの人から。悪いのは、おれのほうなのにさ」
冷え切った空気に由井くんの声が響く。
「それ以外はなんにも変わらない。おじさんのおれに対する態度も、貴子さんの態度も。大人の余裕なんだろうな。ジタバタしてるのは、子どものおれだけってこと」
いつまでたっても変わらない気持ちも、決して変えることのできない気持ちも……あるんだ。
「由井くんはまだ……貴子さんのこと、好きなの?」
頬に当たる風が冷たい。わたしの吐く息が白い。
「よく……わかんね」
空に向かってつぶやいた由井くんの声は、どことなくかすれていた。
「家族だなんて言われちゃったら……好きだとか嫌いだとか、そういうの、なんだかもうわかんなくて……ただ、卒業したら、あの家は出ようと思ってる」
「あの家出て、どこに行くの?」
「さあ……」
「また突然いなくなったりしたら、わたし嫌だよ?」
わたしの声に由井くんがほんの少し笑う。
「その時は一番に、沙和ちゃんに言うよ」
わたしたちの脇を車が通り過ぎる。わたしは黙ったまま、由井くんの隣を歩く。
空からは今にもまた、冷たい雪が落ちてきそうだ。
「洸介?」
その時、並んで歩くわたしたちに、女の人の声がかかった。
「ああ、やっぱり洸介だ」
由井くんが声の方向に顔を向けて、わたしもその視線を追う。歩いている人を押しのけるようにして駆け寄ってくるのは、わたしの見たことのない女の人。
そしてその瞬間、由井くんの動きがぴたりと止まった。
「洸介、あんた大きくなって……当たり前かぁ、あんたと別れたの、小学生の頃だったもんねぇ」
目の前に立つ人の目元は由井くんにそっくりで……わたしはすぐに気づいてしまった。
この人、由井くんのお母さんだ。
「何しに……来たんだよ?」
絞り出すように声を出した由井くんは、お母さんの顔を見ようとはしなかった。
「何しにって……あんたに会いに来たんじゃない。この街にいるって聞いて捜しまわってたら、まさかこんなところでばったり会えるなんてねぇ」
黒いワンピースに真っ赤なコートを羽織って、派手なメイクをしたお母さんは、由井くんのことなんかお構いなしのように勝手に続ける。
「一目見てすぐにわかったわよ。もう高校生なのよねぇ……お母さん好みの男に成長してくれて嬉しいわ」
「ふざけんなよ」
由井くんがゆっくりと顔を上げてつぶやく。
「おれに会いに来たとか、なに考えてんだか全然わかんねぇ。今さらお母さんだって? 笑わせんな。自分の子ども人に育てさせておいて、あんたバカじゃねぇの?」
「洸介……」
振り返った由井くんが、ぐっとわたしの腕をつかむ。
「行こう。沙和ちゃん」
「え……」
そのまま由井くんにひっぱられるように歩き出す。そんなわたしたちの後を、由井くんのお母さんが追いかけてくる。
「ちょっと待って、洸介。怒んないでよ。お母さんにだって、いろいろ事情があったんだから」
「事情?」
立ち止まった由井くんが、ほんの少し口元をゆるめる。
「へぇ……息子を捨てるほど大事な事情があったんだ」
「洸介、ちゃんと聞いて」
「聞きたくない」
お母さんが伸ばした手を振り払うようにして、由井くんが歩き出す。わたしの腕を、強く強く握りしめたまま。
「洸介! ごめんね! お母さんが悪かったわ」
わたしたちの背中に、お母さんの泣きそうな声が響く。
「もうあんたしか頼る人がいないの! わたしにはあんたしかいないの! だから……」
その後の声は聞き取れなかった。由井くんは振り返らずに進んで、わたしはそんな由井くんに引かれるままに歩くだけ。
ふと頬に冷たいものが触れた。空を見上げたら、白い雪がちらちらとまた舞い落ちてきた。