20
「さわちゃーん!」
青い青い夏空の下。待ち合わせ場所で風太くんが手を振っている。
「こんにちは、ふうちゃん! 元気だった?」
「うん!」
駆け寄ったわたしに笑いかける風太くんは、会うたびに大きくなっているような気がする。
「こいつ元気すぎるんだよ。幼稚園が夏休みに入ってから、うるさくてしょーがねぇの」
風太くんの隣でそんなことを言うのは由井くんだ。真っ白なTシャツと、久しぶりに見る笑顔がまぶしくて、わたしはそっと視線をそらす。
約束をしたわけでもないのに、わたしと風太くんと由井くんは、一か月に一度、こんなふうに会うようになっていた。
「今日はどこ行く?」
「どうぶつえん!」
「お前、そればっかだなぁ」
笑顔の風太くんが手を差し出して、わたしはその手をきゅっと握る。そしてその反対側には、風太くんと手をつないだ由井くん。
緑の生い茂った並木道を、いつものように三人で歩く。
高校三年生になったわたしは、相変わらずおばあちゃんと暮らしていて、別のクラスになった由井くんも、やっぱり風太くんたちと一緒に暮らしていた。
雪に覆われていた街が鮮やかな緑に染まった以外、変わったことはなにもない。
わたしの気持ちも、たぶん、由井くんの気持ちも……。
「由井くん、ひとつお願いがあるの」
手すりにもたれて、サル山に夢中になっている風太くんを眺めながらわたしが言う。
「なに? ソフトクリームならこの前おごってやっただろ?」
「そういうんじゃなくて……」
隣にいる由井くんがわたしを見る。その視線がなんとなく照れくさくて、わたしは空を見上げて言った。
「今度ね、わたしのお母さんに会ってくれないかな?」
「お母さんに?」
「うん。一番初めに仲良くなってくれたお友達として」
ふっと笑った由井くんが、わたしと同じように空を見る。
「いいよ。おれも沙和ちゃんのお母さんに会いたいし」
お母さんはまだ入院している。そしてお母さんの病状がよくないことを、由井くんも知っている。
こんなこと、思いたくはないんだけど……お母さんと面会ができるうちに、どうしても一度由井くんに会って欲しかった。
「さわちゃーん、ぼくのど乾いちゃった!」
「なんか飲もうか。なにがいい? ふうちゃん」
「ぼくソフトクリームがいい!」
「じゃあ、こうちゃんにおごってもらおう」
「はぁ? なんでおれ? てかソフトクリーム飲み物じゃねーし」
「わーい! ぼくチョコレートがいいなー」
「わたしはバニラ。よろしくね、由井くん」
「お前ら、話聞けよ!」
こうやってたわいのない話をするのが好き。
この先どうなるのかなんてわからないけど。この先のこと、考えていないわけではないんだけど。
蝉の大合唱を聞きながら、木陰のベンチに座ってソフトクリームを食べた。
目の前の池を、真っ白な白鳥が二羽、気持ちよさそうに泳いでいる。
「ねぇ、赤ちゃんが産まれたら、一緒に連れてきてもいい?」
無邪気な顔で風太くんが言う。もうすぐ風太くんの弟か妹が生まれるんだ。
「そうだね。そうしたら四人で来ようか?」
「ママも連れてきていい? いいでしょ、こうちゃん」
口の周りをソフトクリームだらけにして、風太くんが由井くんを見上げる。
「お前、ママ好きだなぁ」
「こうちゃんだって、好きでしょ? ママのこと」
少し頬をゆるませた由井くんが、黙って池の向こうを見る。わたしはさりげなく、そんな由井くんの横顔を見つめる。
蒸し暑い風がわたしたちの間を吹き抜けて、どうしても埋められないその距離がもどかしかった。
数日後。由井くんとふたりでエレベーターに乗って、お母さんの病室へ向かった。
消毒の匂いが漂うこの廊下を、もう何回歩いたことだろう。
「お母さん……」
窓際のベッドの上で、今日もお母さんは眠っていた。最近のお母さんは、うとうとと眠っていることが多い。
「お母さん」
ベッドの脇でささやくように呼んだら、お母さんはうっすらと目を開けてわたしを見た。
「ああ、沙和ちゃん、お帰り。お腹すいたでしょう?」
ベッドに横たわったままのお母さんが、か細い声で言う。
「ごめんね。まだお夕飯できてないの」
わたしは黙って首を振る。
夢を見ているのか、記憶が混乱しているのか。お母さんは最近いつもこんな感じだ。
「お母さん。今日はね、お友達を連れてきたの」
お母さんの耳元でささやいてから顔を上げる。部屋の入口にいた由井くんが、ゆっくりとわたしの隣に立つ。
「同じ学校の由井くんだよ」
「こんにちは」
由井くんの声にお母さんが目を細めて、静かに微笑んだ。
「お母さん……」
そんなお母さんを見たら、どうしようもなく切なくなって……。
「あのね、由井くんはね、わたしの一番大切なひとなの」
言うつもりもなかった言葉を、わたしはお母さんに告げている。
「わたし……由井くんのことが、好きなの」
お母さんの手がゆっくりと伸びて、わたしの頬をそっとなでる。その手は力がなく弱々しかったけれど、わたしにはお母さんの言いたいことがわかる気がした。
「お母さん……」
声にならない声でつぶやく。お母さんの痩せた手を握って、ただ涙を流すわたしのことを、由井くんは何も言わないで見守ってくれていた。
「今日はごめんね……へんなこと言っちゃって……」
由井くんと一緒に病院を出た。空は茜色に染まっている。
「べつに大丈夫だよ。おれは」
隣に並んだ由井くんの声を聞いていたら、なんだか無性に恥ずかしくなった。
夏の終わりの空の下を歩く。好きな人と歩いているのに、ひとりでいるよりもずっと寂しい。
「沙和ちゃんさ、前におれに言ったよね」
国道わきの歩道を歩きながら由井くんが言う。
「自分ひとりで生きてるなんて思わないで、って」
乾いたと思った涙がまたあふれそうになって、それをわたしはぐっとこらえる。
「沙和ちゃんはひとりじゃないよ。おばあちゃんがいるし、茜も江里もいるし……それにおれだって……」
由井くんの声がじんわりと胸に沁みこんだ。
わたしは――ひとりなんかじゃない。
「おれでよければそばにいるよ。だから元気出しなって」
由井くんがそう言って、わたしの頭をふわふわっとなでる。
そんなことされたら……わたし、勘違いしちゃうじゃない。
届かない想いを抱えて歩いた夏の日。
大好きなお母さんと永遠のお別れをしたのは、それから一週間後のことだった。