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「新庄さんは、前の学校で部活やってたの?」
放課後。バレー部の練習に行く楠木さんと、彼女の親友だという砂田さんと並んで歩く。
「うん。テニス部だった」
「あー残念。ウチ、テニス部ないんだよねぇ」
「バレーなんかどう? 一緒にやらない?」
女の子との、たわいのないおしゃべりにホッとする。
朝からトラブルはあったものの、クラスの女の子たちはみんな気さくでやさしくて、わたしは転校初日からひとりぼっちになることはなかった。
知らない学校での、はじめての一日がなんとか終わる。
「それじゃ、またね。新庄さん」
「うん。さよなら」
昇降口の手前で手を振って、楠木さんたちと別れる。
部活をやっている生徒たちは、すでにそれぞれの場所へ散らばっていて、家に帰る生徒たちは、もう学校を出てしまったようだ。
音楽室から流れてくるバラバラな楽器の音。廊下の向こうから聞こえる明るい笑い声。ひと気のない冷え切った靴箱。
「あ……」
踏み出しかけた足を止める。
玄関の隅に寄りかかり、たったひとりで外を眺めている男の子の横顔。
その姿は色のない世界に今にも溶け込んで消えてしまいそうで……どうしてなのかな……無性に切ない気持ちになった。
「由井……くん?」
思わずその名前をつぶやいた。振り返った彼が、どこか無表情な視線を私に投げかける。
「もしかして……待っててくれたの?」
なに言ってるんだろう……約束したわけでもないのに。なに言ってるんだろう、わたし。
ひとりで戸惑うわたしに、彼の表情が緩む。
「遅いよ、新庄さん。凍え死ぬ」
「だって……わたし、一緒に帰るなんて一言も……」
「おれ、返事は聞かない主義なの」
そう言ってふざけたように笑うのは、やっぱり教室で騒いでいたあの由井くんだ。
すると由井くんの右手が、すっとわたしの前に差し出された。
「な、なに?」
「手つないで、帰ろうよ」
「なんでそんなこと……」
「もうキスもしちゃったしさ。付き合うしかないっしょ? おれたち」
自分の顔がほてるのがわかって、それが無性に恥ずかしくて……わたしはその手を無視して早足で歩き出す。
校舎の外へ出た途端、冷たい風が頬を吹き付けた。いつもとは違う、キンッと冷え切った空気。
ああ、そうか。ここはわたしの住んでいた街じゃないんだ。
張りつめていた糸が切れたかのように、次々と思い出が込み上げてくる。
坂道から港が見えた通学路。ちょっとだけ寄り道した小さなカフェ。わたしの隣にいつもいたあの人――。
泣きたくなんてないのに、涙があふれそうになる。
「新庄さん」
「ついてこないで」
薄暗くなった道を振り向かないで歩く。朝、うっすらと積もっていた雪は、もう残っていない。
「新庄さんってば」
背中にしつこく響く声。どうしてわたしのこと、放っておいてくれないの?
「わたしはっ、あなたのことなんか……」
すっと左手に、あたたかいぬくもりがすべりこんでくる。
「冷たいんだなぁ、新庄さんの手」
「ちょっ……離して……」
「言ったでしょ? おれ、返事は聞かない主義だって」
由井くんがわたしの手を握ったまま、からかうように笑う。
どこまで本気なの? どこまで冗談なの? わたしは何を信じたらいいの?
「おれの手、あったかいだろ?」
ゆっくりと顔を上げるわたしの隣で、由井くんがいたずらっぽくつぶやいた。
「手袋がわりに使っていいよ」
風に揺れる街路樹。ぼんやりと灯る街灯のあかり。由井くんの吐く白い息。
振り払おうとすれば振り払えたのに……わたしは由井くんに手を握られたまま、歩き慣れない道を歩いた。
本当はどうしようもなく不安で心細くて……ただ誰かに、すがりつきたかっただけかもしれない。
ただ誰かに……誰でもいいから――。
「沙和、どうだった? 新しい学校は」
おばあちゃんが用意してくれた二階の六畳間で、わたしはスマートフォンを耳に当てる。部屋の中にはまだ開けていない段ボール箱が、いくつも積まれたままだ。
「うーん……なんか、ヘンな一日だった」
「なにそれ?」
電話の向こうでくすくす笑っているのは、小学校からの親友、一佳。
しっかり者でお姉さんタイプの一佳は、何をやってもスローペースなわたしとは正反対の性格だけど、なぜだか誰よりも気が合った。
「あたしずっと心配してたんだよ? 沙和んち、いろいろ大変なのにさ。あたしがそばにいてあげられたらいいんだけど」
いろいろ大変……一佳にも、そう思われてるんだ。
「大丈夫。こっちの人、みんないい人そうだし」
明るい声でそう言いながら、わたしは由井くんのことを思い出す。
今日はじめて会った人なのに、結局あの手を振り払うことができず、家の前まで送ってもらった。
それにわたしたち、もっととんでもないことまでしてる。
どうしよう。この話、一佳に話したほうがいいのかな。喉がひりひりと乾いてきた。
「あのね、一佳……」
「ん?」
やっぱりダメだ。初めて会った男の子に、クラス中の人が見ている前でキスされたなんて……恥ずかしすぎて言えないよ。
「ごめん。なんでもない」
わたしの声に一佳が一瞬黙り込む。それから少し言いにくそうに、その名前を口にした。
「沙和。今日部活に、麻野先輩が来たよ」
「え……」
久しぶりに聞いた名前に、胸がざわざわと騒ぎ出す。
「麻野先輩もね、沙和のこと、すごく心配してるみたい」
「で、でも……先輩とはもう……」
「沙和ともう一度、話をしたいって言ってた。もしかしたら電話かかってくるかもよ? 先輩から」
なんで? どうして?
頭にぼんやりとよみがえるのは、真夏のテニスコート。
眩しい太陽の日差しの下で、わたしがいつも目で追っていたのは先輩の姿だった。
ひとつ年上の彼は、いつもさわやかで、やさしくて、後輩からも慕われていて……だから彼に「好きなんだ」と言われた日は、信じられなくて涙が出た。
先輩と付き合った一年あまりの日々。
毎日一緒に帰って、休みの日はふたりで出かけて、手をつないで、キスをして……こんな夢みたいな日がずっと続けばいいと思っていた。
――無理だよ……おれ、自信ない。
先輩からそう言われたのは、わたしの引っ越しと転校が決まったことを伝えた日。
遠い場所に離れたら、きっと気持ちも離れてしまう。同じように付き合い続ける自信がない。
先輩の言葉にわたしは、「大丈夫だよ」と言えなかった。きっとわたしも、自信がなかったのかもしれない。
――ごめん。別れよう。
引っ越しの日に先輩が告げた。あっけない、本当にあっけないふたりの終わり。大切に積み重ねてきた日々が、突然途切れてしまった。
地図を指先でたどればほんのわずかな距離なのに、高校生のわたしたちには、その距離を乗り越えることができなかったのだ。
「沙和? 聞いてる?」
「……うん」
「別に嫌いで別れたわけじゃないんだしさ。先輩はきっと後悔してるんだよ。沙和にあんなこと言っちゃって」
一佳の声を聞きながら、窓の外に視線を移す。見慣れない景色が目に映り、いろんなことが変わり始めているのだと気づく。
わたしはもう先輩のそばにはいられなくて。遠い街の新しい学校に通い始めて。そして……。
わたしの気持ちも、もうすでに、あの頃とは変わってしまったのだろうか。