19
心地よい声が耳に聞こえる。わたしの髪に触れるあたたかい手。
「沙和ちゃん」
なんだかとても気持ちが良くて、本当はもっとまどろんでいたかったけど。眩しい朝の光に目を細めた時、わたしは驚いて飛び起きた。
「やだっ! なにっ!」
「なにって……おれだよ、おれ。おはよ、沙和ちゃん」
わたしのベッドに腰掛けて、にこにこと笑っているのは由井くんだ。
「え、なんで? なんで由井くんがいるの?」
「沙和ちゃん、昨日のこと、覚えてないの?」
ああ、そうか……寝ぼけた頭をフル回転させて思い出す。
昨日の夜、爆弾発言しちゃった由井くんは、わたしのおばあちゃんに勧められて、とりあえずうちに泊まることになったのだ。
「朝ご飯、できたってさ」
ずっと前からうちに住んでいたみたいに、由井くんは自然に言って立ち上がる。
ドアの向こうから、かすかに漂ってくる味噌汁の香り。トントンと野菜を刻む、包丁の音も聞こえてくる。
「ねぇ、由井くん」
そう言いながら確かめるように、寝癖のついた髪をさわってみる。
さっき、眠っていたわたしの髪にやさしく触れたのは……由井くんだよね?
「わたしになにもしなかったでしょうね?」
「あ、キスぐらいしとけばよかった?」
「バカ!」
おかしそうに笑いながら、部屋を出て行く由井くんの背中を見送る。
わたしの部屋で、パジャマ姿のままで、こんなふうに軽く会話をしているわたしたちがとても不思議だ。
「でも……わたしじゃないんだよね」
思わず声に出してしまった言葉。
由井くんが好きなのは――わたしじゃない。
片思いがこんなにつらいって、生まれて初めて知った。
「ほんとにその格好で学校行くの?」
制服を着たわたしの隣を歩くのは、普段着のままの由井くんだ。
「カバンは? 勉強道具は? やっぱり一度家に帰ったほうがいいんじゃない?」
「おれがあの家に、のこのこ帰れるわけないって、沙和ちゃんだってわかってるだろ?」
それはそうだけど……でもいつまでも家に帰らないわけにはいかないでしょう?
「おれずっと、沙和ちゃんちに住んじゃおうかなぁ……」
「え! うそ!」
「冗談だよ」
からかうように笑ってから、由井くんは前を向いて歩き出す。
並んで歩く通学路。手をつないで歩いたのは、何か月前だっただろう。
今のわたしたちの間にあるのは、あの頃と同じ隙間。だけどその手が触れ合うことは、もうないんだ。
「あ、由井だ」
「なんだお前生きてたの?」
顔見知りの生徒たちが次々と声をかけてくる。それに笑顔で答えている由井くんは、ずっと学校に来ていなかったとは思えないほど、普通に溶け込んでいる。
「由井!」
校門に入りかけた時、ひとりの女の子が駆け寄ってきた。
「なんだ美菜じゃん。久しぶり」
「久しぶりじゃないよ! このバカっ!」
美菜さんの振り上げたバッグが、由井くんの頬に思いきり当たる。
「あたしがどんなに心配したか……あんたなんか死ねっ!」
怒鳴りつけるようにそう言って、走り去って行く美菜さんの目は真っ赤に潤んでいた。
「いって……殴られた」
「ふざけてるからだよ」
由井くんが学校に来なくなってから、隣のクラスの美菜さんが、毎日心配そうにうちの教室をのぞいていたことを知っている。
「あとでちゃんと謝りなよ。本当に、みんな心配してたんだから」
わたしの声に、前を向いたままの由井くんがふっとつぶやく。
「じゃあ、ちゃんと謝るから教えてくれる? これからおれ、どうやって生きていけばいいのか……」
晴れた空の下に響くチャイムの音。由井くんの向こう側に見える白い雪。
このままじゃいられないってわかっているけど、これからどうしたらいいのかなんて、わたしにだってわからない。
「……なんてな」
校舎から出てきた生徒指導の先生が、由井くんの名前を大声で呼んだ。
「きっとまた怒られるんだよ。またな、沙和ちゃん」
わたしはその場に立ち止まったまま、去って行く由井くんの後ろ姿を見送った。
「でもよかったじゃない。由井が無事に戻ってきて」
朝のざわついた教室で、茜ちゃんがわたしに笑いかける。
「なにがよかっただよ。おれはあいつのこと、ぜってー許さねーからな」
横からそんなことを言ってきたのは梅田くんだ。
「突然いなくなったと思ったら突然帰って来て……ひと言ぐらい連絡よこせっつーの」
そんな梅田くんの頭をぽかっと小突いてきたのは、いつの間にか教室に入ってきた由井くん。
「誰が誰を許さないって?」
「わ、由井! お前……」
「謝ればいいんだろ、謝れば。ご心配おかけして申し訳ございませんでした! これでいい?」
「……こいつ。余計ムカつくわ」
梅田くんの前でおかしそうに笑っている由井くんは、初めて会った時と同じ笑顔で。
だけどわたしは、そんな由井くんの笑顔を見るのがなんだかつらい。
「由井ー。あんた今日はちゃんと、おうちに帰るんだよ?」
茜ちゃんの声に由井くんが答える。
「わかってるよ。わざわざ林センセーが家に連絡してくれたし。おうちの人に迎えに来てもらいますからね、だって。幼稚園生か、おれは」
「そうしないとあんたがまた、ふらふらいなくなっちゃうからでしょー?」
「ホント、世話がやけるやつ。幼稚園生以下だ」
梅田くんと茜ちゃんの声に、チャイムの音が重なる。ガタガタと移動を始める生徒たち。
「……大丈夫?」
背中を向けた由井くんに、わたしは思わずつぶやいていた。
「大丈夫? 由井くん」
由井くんが振り返ってわたしを見る。そしてひとり言のようにぽつりとこぼした。
「早く大人になりたいよなぁ……」
制服を着た生徒たちの笑い声。いつもと変わらない教室。
「ひとりでも生きていけるような大人に……早くなりたい」
高校生のわたしたちはまだまだ子どもで……やっぱり大人がいなければ生きていけなくて……。
由井くんの視線が窓の外に移る。青く晴れ渡った空。白く染まった校庭。
わたしたちは寒さに震えながら、この街で生きていくしかないんだ。