表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/30

19

 心地よい声が耳に聞こえる。わたしの髪に触れるあたたかい手。

「沙和ちゃん」

 なんだかとても気持ちが良くて、本当はもっとまどろんでいたかったけど。眩しい朝の光に目を細めた時、わたしは驚いて飛び起きた。

「やだっ! なにっ!」

「なにって……おれだよ、おれ。おはよ、沙和ちゃん」

 わたしのベッドに腰掛けて、にこにこと笑っているのは由井くんだ。

「え、なんで? なんで由井くんがいるの?」

「沙和ちゃん、昨日のこと、覚えてないの?」

 ああ、そうか……寝ぼけた頭をフル回転させて思い出す。

 昨日の夜、爆弾発言しちゃった由井くんは、わたしのおばあちゃんに勧められて、とりあえずうちに泊まることになったのだ。

「朝ご飯、できたってさ」

 ずっと前からうちに住んでいたみたいに、由井くんは自然に言って立ち上がる。

 ドアの向こうから、かすかに漂ってくる味噌汁の香り。トントンと野菜を刻む、包丁の音も聞こえてくる。

「ねぇ、由井くん」

 そう言いながら確かめるように、寝癖のついた髪をさわってみる。

 さっき、眠っていたわたしの髪にやさしく触れたのは……由井くんだよね?

「わたしになにもしなかったでしょうね?」

「あ、キスぐらいしとけばよかった?」

「バカ!」

 おかしそうに笑いながら、部屋を出て行く由井くんの背中を見送る。

 わたしの部屋で、パジャマ姿のままで、こんなふうに軽く会話をしているわたしたちがとても不思議だ。

「でも……わたしじゃないんだよね」

 思わず声に出してしまった言葉。

 由井くんが好きなのは――わたしじゃない。

 片思いがこんなにつらいって、生まれて初めて知った。


「ほんとにその格好で学校行くの?」

 制服を着たわたしの隣を歩くのは、普段着のままの由井くんだ。

「カバンは? 勉強道具は? やっぱり一度家に帰ったほうがいいんじゃない?」

「おれがあの家に、のこのこ帰れるわけないって、沙和ちゃんだってわかってるだろ?」

 それはそうだけど……でもいつまでも家に帰らないわけにはいかないでしょう?

「おれずっと、沙和ちゃんちに住んじゃおうかなぁ……」

「え! うそ!」

「冗談だよ」

 からかうように笑ってから、由井くんは前を向いて歩き出す。

 並んで歩く通学路。手をつないで歩いたのは、何か月前だっただろう。

 今のわたしたちの間にあるのは、あの頃と同じ隙間。だけどその手が触れ合うことは、もうないんだ。

「あ、由井だ」

「なんだお前生きてたの?」

 顔見知りの生徒たちが次々と声をかけてくる。それに笑顔で答えている由井くんは、ずっと学校に来ていなかったとは思えないほど、普通に溶け込んでいる。

「由井!」

 校門に入りかけた時、ひとりの女の子が駆け寄ってきた。

「なんだ美菜じゃん。久しぶり」

「久しぶりじゃないよ! このバカっ!」

 美菜さんの振り上げたバッグが、由井くんの頬に思いきり当たる。

「あたしがどんなに心配したか……あんたなんか死ねっ!」

 怒鳴りつけるようにそう言って、走り去って行く美菜さんの目は真っ赤に潤んでいた。

「いって……殴られた」

「ふざけてるからだよ」

 由井くんが学校に来なくなってから、隣のクラスの美菜さんが、毎日心配そうにうちの教室をのぞいていたことを知っている。

「あとでちゃんと謝りなよ。本当に、みんな心配してたんだから」

 わたしの声に、前を向いたままの由井くんがふっとつぶやく。

「じゃあ、ちゃんと謝るから教えてくれる? これからおれ、どうやって生きていけばいいのか……」

 晴れた空の下に響くチャイムの音。由井くんの向こう側に見える白い雪。

 このままじゃいられないってわかっているけど、これからどうしたらいいのかなんて、わたしにだってわからない。

「……なんてな」

 校舎から出てきた生徒指導の先生が、由井くんの名前を大声で呼んだ。

「きっとまた怒られるんだよ。またな、沙和ちゃん」

 わたしはその場に立ち止まったまま、去って行く由井くんの後ろ姿を見送った。


「でもよかったじゃない。由井が無事に戻ってきて」

 朝のざわついた教室で、茜ちゃんがわたしに笑いかける。

「なにがよかっただよ。おれはあいつのこと、ぜってー許さねーからな」

 横からそんなことを言ってきたのは梅田くんだ。

「突然いなくなったと思ったら突然帰って来て……ひと言ぐらい連絡よこせっつーの」

 そんな梅田くんの頭をぽかっと小突いてきたのは、いつの間にか教室に入ってきた由井くん。

「誰が誰を許さないって?」

「わ、由井! お前……」

「謝ればいいんだろ、謝れば。ご心配おかけして申し訳ございませんでした! これでいい?」

「……こいつ。余計ムカつくわ」

 梅田くんの前でおかしそうに笑っている由井くんは、初めて会った時と同じ笑顔で。

 だけどわたしは、そんな由井くんの笑顔を見るのがなんだかつらい。

「由井ー。あんた今日はちゃんと、おうちに帰るんだよ?」

 茜ちゃんの声に由井くんが答える。

「わかってるよ。わざわざ林センセーが家に連絡してくれたし。おうちの人に迎えに来てもらいますからね、だって。幼稚園生か、おれは」

「そうしないとあんたがまた、ふらふらいなくなっちゃうからでしょー?」

「ホント、世話がやけるやつ。幼稚園生以下だ」

 梅田くんと茜ちゃんの声に、チャイムの音が重なる。ガタガタと移動を始める生徒たち。


「……大丈夫?」

 背中を向けた由井くんに、わたしは思わずつぶやいていた。

「大丈夫? 由井くん」

 由井くんが振り返ってわたしを見る。そしてひとり言のようにぽつりとこぼした。

「早く大人になりたいよなぁ……」

 制服を着た生徒たちの笑い声。いつもと変わらない教室。

「ひとりでも生きていけるような大人に……早くなりたい」

 高校生のわたしたちはまだまだ子どもで……やっぱり大人がいなければ生きていけなくて……。

 由井くんの視線が窓の外に移る。青く晴れ渡った空。白く染まった校庭。

 わたしたちは寒さに震えながら、この街で生きていくしかないんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ