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「沙和ちゃん、ごめん。こんな時間に」

 梅田くんから突然電話がかかってきたのは、三学期も半ばを過ぎた日の夜遅くだった。

「ううん、大丈夫だけど……どうしたの?」

 半分寝ぼけた声で電話に出たわたしに、梅田くんが言った。

「ちょっと待って沙和ちゃん、いま由井に代わるから」

「え?」

 ぼうっとした頭が一気に冷める。布団から飛び起きたわたしの耳に、少しだけ懐かしい声が聞こえてきた。

「もしもし……沙和ちゃん?」

「由井くん、なの?」

「うん」

 スマホを持つ右手が震える。泣きそうになるのを気づかれたくないから、わたしは強い口調で言った。

「今どこにいるの! どこに行ってたの! 連絡もしないで……」

「ごめん。東京に行ってた」

 やっぱり、そうだったんだ。

「バイトの先輩が借りたアパートに、住ませてもらってたんだけど……先輩の彼女まで転がり込んできちゃって、おれ追い出されて……今、ウメんちにいる」

「梅田くんちに……」

 ホッとしたのと、腹が立つのと、なんだかやるせない気持ちがごちゃ混ぜになって。いま自分がどんな表情をしているのかわからない。

「由井くん」

 口から漏れる声が、かすかに震える。

「もうどこにも行かないで」

 目を閉じて、祈るような気持ちでつぶやく。

「梅田くんも、貴子さんも、風太くんも、ものすごく心配してたんだよ? 自分ひとりで生きてるなんて思わないで」

 おれが生まれた意味あるのかなぁなんて……そんなこと思わないで。

「わたし、迎えに行く」

「え……」

「そこにいて。わたし、由井くんのこと、迎えに行くから」

 なんでそんなこと言ったのかわからない。わからないけど。とにかく今すぐ、由井くんに会わなくちゃって思った。

「沙和ちゃん……来なくていいよ」

 そんなわたしの耳に、由井くんの声が聞こえた。

「来なくていい。おれが行くから」

 その言葉を聞いた途端、体中の力が抜けて、涙がじんわりとこみあげてきた。


 家の前に立って、由井くんが来るのを待った。

 梅田くんの家はそんなに離れていないのに、こうやって待っている時間がとてつもなく長く感じる。

 白い息を、凍りつくような空気に吐き出した。夜空に浮かぶのは、折れそうに細い三日月。

 やっぱりわたしが行けばよかった。今すぐ駆け出して、由井くんに会いに行けばよかった。

 薄暗い街灯の下に人影が見えた。大きめのバッグを肩にかけた由井くんが、息を切らすようにしてわたしの前に駆け寄ってきた。


「由井くん……」

 少し髪が伸びた由井くんが、わたしの前に立つ。

 どきどきしている心臓の音が、目の前の由井くんに聞こえてしまいそうで恥ずかしくて……だけどわたしは手を伸ばし、そっと由井くんの手に触れた。

「沙和ちゃん」

 由井くんの手がゆっくりと動き、わたしの指先を握る。

「なんで手袋しないんだよ? 持ってるだろ?」

「由井くんだってしてないじゃない」

 手袋なんてもどかしいものはいらない。この手で由井くんの存在を確かめたい。

「おれはいいの。沙和ちゃんみたいに冷たくないから」

 そう言って由井くんは少し笑ったけれど、その手はわたしと同じくらい冷え切っていた。

「うそつき」

 頼りない手で、由井くんの手を包むように握りしめる。

「沙和ちゃん……」

 消えそうな声が耳をかすめたとき、家の前に立つわたしたちを車のヘッドライトが照らした。


「わたしが連絡したの」

 車から降りてきたのは、由井くんのおじさんと貴子さんだった。

 由井くんはふたりの姿を見つめながら、そっとわたしの手を離す。それと同時に、由井くんの名前を呼びながら、貴子さんが駆け寄ってきた。

「よかった……とにかく無事で……」

 由井くんの前に立つ貴子さんは、そう言って今にも泣き出しそうな顔で微笑む。だけど由井くんは黙ったままで、そんな由井くんにおじさんが言う。

「洸介。お前、自分のしたことわかってるのか?」

 街灯の薄明りの中に見えるおじさんの表情は、いつになく険しい。

「こんなに心配かけて。沙和さんにも迷惑かけて」

「あの……わたしは大丈夫ですから」

 その言葉をさえぎるように、おじさんはわたしに首を振って、もう一度由井くんを見た。

「洸介、不満があるならはっきり言いなさい。何も言わなかったら伝わらないだろう? ぼくも貴子も、お前のことは本当の家族だと思っているんだから……」

「本当の家族?」

 由井くんがふっと顔を上げて、ほんの少し口元をゆるませる。

「おじさん。悪いけどおれ、おじさんたちのこと、本当の家族だなんて思ったことないよ?」

「こうちゃん……」

 心配そうにふたりを見比べていた貴子さんがつぶやく。

 由井くんはそんな貴子さんをちらりと見たあと、真っすぐ前を向いてこう言った。

「おれ、貴子さんのこと好きなんだ。手を握って、キスをして、抱きしめたいって、いつだって思ってる。だから家族だなんて思ったこと、一度もない」

 由井くんの声が胸に響く。

 貴子さんは両手で口元を覆って、おじさんは右手を震わせた。

「洸介……お前」

「はっきり言えって言われたから言っただけだよ。おじさん、せっかくおれのこと引き取ってくれたのに、こんなクソガキでごめんね?」

 おじさんたちから目をそらした由井くんがわたしを見た。わたしはただぼんやりと、由井くんの吐く白い息を見つめる。

 その時の由井くんがどんな表情をしていたのか……わたしはよく覚えていない。

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