17
「あいつ、家出しちゃったらしいんだ」
梅田くんからそんなことを聞いたのは、三学期が始まって数日が経った頃だった。
「はぁ? 誰が?」
「由井だよ、由井。昨日の夜、おばさんから電話あったんだよ。梅田くんちに、洸介お邪魔していませんか? って」
お弁当を食べようとしたわたしと茜ちゃんの前に、梅田くんははぁっとため息をつきながら腰かける。
「ケータイも、荷物もろくに持たないで、バイトで貯めた金だけ持っていなくなったって。あいつマジで、なに考えてんだかわかんねぇ……」
頭を抱える梅田くんに茜ちゃんが言う。
「でもすぐに帰ってくるんじゃないの? いくらお金持ってるっていったって、高校生だよ? ひとりで暮らせるわけないもん」
「そうだけどさ。由井っておじさんの家に住んでただろ? なんでかは知らんけど。やっぱり居心地悪かったのかなぁ、なんて思ったり」
そう言って梅田くんは、もう一度大きなため息をつく。
「沙和。あんたも由井の居場所、知らないの?」
茜ちゃんの言葉に、わたしは黙ってうなずいた。
あのクリスマスイブの日に別れたきり、由井くんとは会うどころか話もしていない。
「あー、もう知らね、あんなやつ。おれに一言ぐらい相談してくれてもいいのによ。おれはあいつに、恥ずかしいことまで全部、話してたのに」
吐き捨てるように言って、梅田くんが席を立った。
だけどそんな梅田くんが、由井くんのことをすごく心配しているってわかる。
「大丈夫だよ。きっといつもみたいに、へらへらしながらすぐに帰ってくるよ」
茜ちゃんがわたしに笑いかける。黙り込んでしまったわたしを、気にかけてくれたんだ。
「うん……そうだよね」
「そうだよ」
そう言って茜ちゃんに笑顔を作ったけれど……最後に見た、今にも消えてしまいそうな由井くんの背中を思い出して、どうしようもなく切なくなった。
その日の放課後、学校から出たわたしに声がかかった。
「沙和ちゃん」
「貴子さん?」
校門の前に車を停めていた貴子さんは、わたしの前に小走りで駆け寄ると、申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
貴子さんの車に乗せてもらい、近くにある古い喫茶店に入った。
コーヒーの香りが漂う静かな店内には、わたしたち以外お客さんはいなくて、お店のマスターが暇そうに新聞なんか読んでいる。
貴子さんとわたしは向かい合って席に着き、あたたかい飲み物を注文した。
「本当にごめんなさいね。学校にまで来たりして」
「いえ……」
貴子さんはもしかしたらわたしが、由井くんと連絡を取っているんじゃないかと思って会いに来たらしい。
「でも本当になにも知らないんです、わたし。由井くんとはクリスマスに会ったきりで……」
「そう……」
さっきの梅田くんと同じように、貴子さんはうつむいて深いため息をつく。
由井くんのバカ――梅田くんや貴子さんに、こんなに心配かけて。いったいどこへ行っちゃったの?
「情けないわよね。一緒に暮らしていても、わたし、あの子の考えていること、何にもわからなくて……」
わたしたちの前に、白い湯気を立てた紅茶が運ばれてきた。貴子さんは顔を上げて、ほんの少しわたしに微笑みかける。
「洸介はいつも笑っているでしょう? 風太のことも弟のように可愛がってくれるし。きっとわたしたちに不満だってあるはずなのに、文句のひとつも言わないの」
カランと入り口で音がして、サラリーマン風のお客さんが入ってくる。だけど貴子さんは視線を動かすこともなく、わたしに向かって続ける。
「だから、あの子がどうして出て行ったのか、今どこでなにをしているのか……わたしには何もわからなくて……」
そう言ってまたうつむいてしまった貴子さんは、ずいぶん顔色が悪い気がした。
「大丈夫ですか? 具合悪いんじゃ……」
わたしの言葉に表情をゆるめ、貴子さんが答える。
「大丈夫よ、病気じゃないの。ただね、お腹に二人目ができて……」
「二人目……風太くん、お兄ちゃんになるんですね」
「まだよく理解してないみたいなんだけど」
「由井くんも知ってるんですか? そのこと」
「ええ、すごく喜んでくれて……」
違う。喜んだふりをしただけだ。
貴子さんとおじさんと風太くん。仲の良い家族にもうひとり赤ちゃんが増える。
由井くんはどんな想いで、幸せそうな貴子さんの言葉を聞いたんだろう。
「ごめんなさいね、沙和ちゃん。わたしこのあと、あの子のバイト先にも行ってみます」
そして貴子さんは、一枚のメモをテーブルの上に置いた。
「これわたしの携帯番号。あの子から連絡があったら、すぐに教えてください」
無理するように笑顔を見せて、貴子さんは席を立ち上がった。
わたしは黙ってそんな貴子さんの姿を見送る。
テーブルの上には、手を付けていないまま冷めてしまった紅茶と、貴子さんのメモが寂しげに残っていた。
それからしばらくして、貴子さんから連絡がきた。
「あの子、東京に行ったみたいなの」
「東京?」
由井くんのバイト先の先輩が東京へ出て行ったそうで、由井くんもその先輩について行ったらしいと貴子さんは言う。
――だからおれ、こんな街好きじゃないんだよ。
いつか聞いた由井くんの言葉を思い出す。
締め切った窓の向こう側で、ぱしゃっと雪の落ちる音がした。
「由井くん?」
思わず駆け寄って窓を開ける。
だけど目の前に見えるのは、ただ白い雪景色。
またわたしを迎えに来てくれないかな? わたしの手を引いて歩いてくれないかな?
会えなくなって、はっきり気づく。
わたしこんなに――由井くんのこと「好き」なんだ。
「さわちゃーん! こっち、こっち!」
雪の積もった公園を駆け回る風太くんは、子犬みたいで可愛い。
「本当にいいのかしら? こんなことお願いして」
「大丈夫です」
申し訳なさそうな貴子さんの前で、笑顔を見せたわたし。
妊娠初期で体調が良くないと言う貴子さんの話を聞いて、わたしが風太くんを誘いに行ったのだ。
風太くんの遊び相手になってくれていた由井くんからは、相変わらず連絡もない。
「ねぇ、さわちゃん、知ってる? 今度ぼくのうちに赤ちゃんが産まれるんだよ」
ほっぺたをりんごみたいに真っ赤にして、白い息を吐きながら風太くんが言う。
「うん、知ってるよ。ふうちゃん、お兄ちゃんになるんでしょ?」
「うん! ぼく赤ちゃんのこと、だーいすきって言ってあげるんだ」
無邪気に笑う風太くん。わたしも思わず笑顔になる。
「あ、でも、一番だいすきなのはママだけどね」
風太くんはちょっとはにかんだようにそう言って、わたしの顔を見上げる。
「ふうちゃんは、ママが大好きなんだね?」
わたしの声に、風太くんが笑顔で答える。
「うん! だーいすき! でもね、こうちゃんもだいすきなんだって、ママのこと」
「え」
「動物園に行くとね、いつも言ってたんだ。こうちゃんも、ふうのママがだーいすきだって!」
どうしよう。なんだかすごく胸が痛くて……涙が出そうだ。
にこにこと笑っている風太くんの手を、ぎゅっと握りしめる。
「お姉ちゃんはね、ふうちゃんのこと、だいすきだよ?」
「え、ほんとう?」
「うん」
風太くんの手を握ったまま、しゃがみこんで視線を合わせる。
「それからね、こうちゃんのことも、だいすき」
わたしの目の前で風太くんが嬉しそうに笑った。
「うん! ぼくもこうちゃんのこと、だーいすき!」
由井くん――早く、早く帰って来て。