16
日の暮れかけた空。閉園間近な動物園。賑わっていた街とは対照的に、ここはひっそりと静まりかえっていた。
「沙和ちゃん?」
黙って由井くんの隣に座る。少し驚いた顔をして、由井くんがわたしを見る。
「梅田くんたちが心配してたよ? 電話してもメッセージ送っても、返事がないって……」
「ああ……ケータイ家に忘れた」
「うそ」
ふっとかすかに口元をゆるませ、由井くんはわたしから目をそらす。
「ウメはいいヤツだよ。あいつらといると本気で楽しい。だけどさ、時々全部、面倒くさくなる時がある」
由井くんがそう言って、はぁっと白い息を吐く。わたしはそんな由井くんの横顔を眺めながらつぶやく。
「いつから、ここにいたの?」
「沙和ちゃんこそ、なんでこんなところにいるんだよ? おれら別れたんじゃなかったっけ?」
「わたしは……」
言いかけて言葉を切る。だってなんて言ったらいいのかわからない。
ただ……ただ由井くんに会いたかったなんて……そんなこと恥ずかしくて言えないし。
由井くんの髪に、白いものがふわりと落ちた。
雪。イブに降る雪。お母さんと歩いたクリスマスの夜を思い出す。
「まだ横浜にいた頃さ、こんなふうに雪が降ったんだよ。イブの夜に」
はっと顔を上げて由井くんを見る。前を向いたままの由井くんは、きっとわたしと同じ日のことを思い浮かべている。
「うちの母親はさ、その日もおれに五百円くれて……これで好きなもの買って食えって。ひとり息子の、誕生日の夜なのにだぞ?」
あきれたように笑って、由井くんがやっとわたしを見た。
「行くあてもなく近所歩いてたら、やけによその家の窓があったかそうに見えて……空見上げたら雪降ってくるし……なんかもう、おれが生まれた意味あるのかなぁ、なんて思っちゃって」
由井くんが顔を上げ、空に向かって手を伸ばす。
「結局その夜、母親は男と一緒に出て行って、父親もどこで何してるかわかんない。サイテーな親だろ? おれがよくここまでまともに育ったかと思うよ、ほんとマジで」
雪をつかむような由井くんの手を、わたしはぼんやりと見つめる。
「でもたまに、なにもかもがどうでもよくなる。おれがこのままいなくなったって、きっと誰も困らないだろうし」
「そんなことないよ」
絶対に、そんなことはない。少なくともわたしは……わたしは由井くんのことを、捜し続けると思う。
「由井くん……」
園内に閉園を伝えるアナウンスが響く。冷たい風と一緒に流れてくるのは、どこか懐かしくて寂しげなメロディー。
わたしはゆっくりと顔を近づけ、隣に座る由井くんにキスをする。
その唇は、とてもとても冷たくて……。
「沙和ちゃん……なんで?」
「……わかんない」
「わかんないのに、こんなことしちゃだめだよ」
「由井くんだってしたじゃない。初めて会った日に。わたしのこと、なんにも知らないくせに」
由井くんが黙ってわたしを見た。
恥ずかしくて逃げ出したかったけど、わたしも目をそらさずに由井くんのことを見つめた。
「沙和ちゃん……ごめん」
夕暮れの冷え切った空気に、由井くんの声が響く。
「おれ、好きな人がいるんだ」
「……知ってる」
そんなこと知ってる。知ってるけど……なんだかすごく胸が痛い。
「わたし……由井くんのこと、好きみたい」
白い息を吐きながらつぶやく。
「好きみたい……なの」
どうしてもっと早く、気がつかなかったんだろう……ううん、気づいていたのに気づかないふりをしていたんだ。
由井くんに好きな人がいるから。自分が傷つくのが怖かったから。
だから「好き」って気持ちを胸の奥に閉じ込めて、気づかないようにしていた。
「沙和ちゃん」
由井くんの声が聞こえる。うつむいてしまった顔をゆっくり上げると、いつもみたいに由井くんがわたしに笑いかけた。
「ありがと。すっげぇ、うれしい」
そしてゆっくりと立ち上がると、わたしに背中を向けてこう言った。
「だけどもう忘れて。おれのことは全部」
どうして? 由井くんが貴子さんのことを好きだから?
振り返って少し笑って、そして由井くんはわたしに言う。
「帰ろう。風邪ひくよ」
白い雪の舞い落ちる中、由井くんの背中を追いかけるように歩く。
由井くんは何もしゃべらなくて、もちろん手をつなぐこともなくて。
イルミネーションの街角まで来て、由井くんが立ち止まる。
「じゃあ、ここで……」
「あ、あの……」
咄嗟にポケットから取り出したのは、さっきもらったふたつのキャンディー。
「こんなので悪いけど……お誕生日おめでとう」
由井くんはわたしの前で笑って、それを大事そうに受け取る。
「ありがと。沙和ちゃん」
かすかに指先が触れ合ったあと、由井くんはわたしに背中を向けた。
わたし……フラれちゃったのかな。フラれちゃったんだよね……。
イブの街の中にまぎれていく由井くんの後ろ姿。肩に落ちる冷たい雪。わたしの吐く白い息。
冬休みに由井くんの姿を見たのはこの日が最後で、そして三学期が始まっても、由井くんは学校に来なかった。