14
「実は今、沙和のいる街まで来てるんだ」
麻野先輩からそんな電話を受けたのは、学校が冬休みに入ったクリスマスイブの日だった。
「え……ほんとに?」
「ごめん。先に連絡したら、断られるんじゃないかって思って……来ちゃった」
――沙和に……会いに行ってもいいかな?
この前の電話で先輩にそう言われた時、わたしははっきり返事をすることができなかった。
「会いたい」「好きなんだ」なんて言われて、嬉しいはずなのに。
「別れよう」って言われた時、あんなに泣いたのに。
「少しでもいいから……会えないかな?」
「う、うん……もちろん」
「よかった」
先輩の安心したような声が聞こえて、いつも見ていた優しい笑顔を思い浮かべる。
先輩がわたしに会いに来てくれた。
こんな遠い街まで、わたしに会うためだけに来てくれた。
窓の外に積もった雪を眺めながら、先輩と付き合い始めた頃のように、胸がドキドキと高鳴っているのがわかった。
クリスマスカラーに彩られた街を、何度か転びそうになりながら、急ぎ足で駅へ向かう。
雪道の歩き方は、やっぱりまだ慣れない。
駅に着くと麻野先輩が、少し照れくさそうな顔つきで、わたしに向かって手を上げた。
「久しぶり、だな」
「うん」
「突然、ごめんな?」
先輩の前で首を横に振る。そんなわたしを見て、先輩は息を吐くように静かに微笑む。
先輩はなにも変わっていなかった。やさしい表情も。おだやかな声も。
「よかった。沙和に断られたら、どうしようかと思った」
「そんな……でも、驚いた」
「どうしても沙和に会いたくなって……」
そこまで言って、先輩が照れたように顔をそむけるから、わたしまで恥ずかしくなる。
「どこかお店でも入る?」
「いや、沙和の住んでる街、案内してよ。一緒に歩きたい」
横浜にいた頃、先輩とはよく並んで歩いた。
映画を観たり、遊園地で遊んだりするよりも、ただぶらぶらと公園や街を歩いたりすることが多かった。
「雪、ほんとに積もってるんだな」
改札から白い街を眺めて、先輩がつぶやく。
わたしはその声を聞きながら、ふたりで歩いた横浜の街を思い出す。
先輩とよく出かけた、港の見える公園。手をつないでのぼった坂道の途中、振り向いた時に見える夕陽がすごくきれいで……わたしたちのお気に入りの場所だった。
それなのに……そこへ戻りたいとは、どうしてだか思えない。
雪の積もった街を先輩と歩いた。
「そういえば今日はイブだったな」
街はクリスマスのデコレーションがされていて、周りを歩くカップルも家族連れも、なんとなく幸せそうに見える。
イブか……。店先に並べられたケーキの箱を横目に、わたしは由井くんのことを思い浮かべていた。
「沙和」
ぼんやりとしていたわたしに、先輩が声をかける。
「手、つないでもいい?」
「え」
突然言われて戸惑ってしまった。数か月前まで先輩と歩く時は、どちらともなく自然と手をつないでいたのに。
「やっぱ、無理かな?」
「そんなことない」
わたしの声に先輩が小さく微笑む。そして静かに手を伸ばすと、壊れ物を包むように、そっとわたしの手を握った。
あの頃と変わらない懐かしい感触。だけど感じるこの違和感はなんなんだろう。
「沙和。『別れよう』なんて言ってごめん。おれがこうやって、会いに来ればいいだけのことだったのに……」
先輩がそう言って、ぎゅっと握った手に力をこめる。
「もう一度、元に戻れないかな? おれたち」
このままこうやって、先輩と一緒に歩けたら……。
――別に嫌いで別れたわけじゃないんだしさ。
ほんの少しの距離さえ乗り越えられれば、わたしたちはまたやり直せる。
「沙和」
耳元で聞こえる先輩のやわらかい声。
ああ……そうか。
隣に並んだ背の高さも、歩く時の歩幅も、わたしに話しかけてくれる声のトーンも、先輩はなんにも変っていないはずなのに……変わってしまったのはわたしのほうなんだ。
「ごめんなさい……先輩」
つながれた右手を、わたしから離した。
さっきから感じていた違和感。この街に来てからずっと、わたしの隣にいたのは由井くんだった。だからわたしは……。
「ごめんなさい。わたしはもう、元へは戻れない」
「沙和……」
先輩の前で頭を下げた。
街に流れる明るい音楽。人々の笑い声。走り去る車の音。そんな雑音の中に、先輩のため息混じりの声が聞こえる。
「変わっちゃったんだな……お前」
顔を上げたわたしの前で、先輩があきらめたように笑って言った。
「おれはずっとお前のこと忘れられなかったのに……こんな短期間で気持ち変われるんだ、女って」
「そんな……」
「もういい。『別れよう』って言ったの、おれのほうだし。こんな所までのこのこ来たおれがバカだったよ」
「待って……先輩……」
引き止めようとした手を、強い力で振り払われた。先輩はわたしに背中を向けたまま、ひとり言のようにつぶやく。
「ずっと……こうなるんじゃないかって、不安だった。一佳に沙和の様子を、さりげなく聞いてみたり、何度も電話をしようと思いながら、怖くてできなかったり……」
「先輩……」
ゆっくりと振り返った先輩がわたしを見る。
「あの時、沙和のこと、離すんじゃなかった」
振り払われた手よりも、胸が痛い……ううん、わたしよりもずっと、先輩のほうが傷ついている。
あの日、離してしまった手。その手は二度と、つながることはない。
「ごめん。もう会いに来たりしないから」
先輩がそう言って寂しそうに笑う。誰よりも爽やかな笑顔が似合うこの人に、こんな顔をさせてしまったのはわたしだ。
「先輩……わたし先輩のこと……」
その声を遮るように、先輩がわたしの頭にぽんっと手を置いた。
「好きだったよ、おれ、沙和のこと……本当に」
わたしも。わたしも、先輩のこと、本当に好きでした。
「じゃあ」
ふわふわとわたしの頭をなでた後、先輩が少し微笑んで背中を向けた。わたしはその背中を見送りながら、ぎゅっと唇を噛みしめる。
泣いたらだめだ。あの人を傷つけたのは、わたしのほうなんだから。
だけどこらえようとすればするほど、熱いものがこみあげてきて……コートの袖で目頭をぬぐって、先輩の姿が見えなくなるまで、わたしはその場に立ち尽くしていた。